皇居ランでつかまえて【中編小説】
走っている、あなたに会いたくて走っている。
***
電話だ。塚元美咲からの着信。
左耳に付けたワイヤレスイヤホンに美咲の声が聞こえてくる。
「こちら塚元、ターゲットは見つかりましたか?」
右左、右左。地面を蹴る一歩一歩がキツい。息があがって返事ができない。
「小井戸さん? 全然聴こえへんなあ。ほんまどっかでサボッてるんちゃいますよね。こっちはマジメに走っとるのに」
俺だって走ってるわ。全力で。
「私のほうはあかんかったですー。あっ、ちなみにめっちゃ探しましたからね。ほんなら今日はこのへんにしときましょー。帰ってドラマ、リアタイで観たいんで。お先っす」
美咲からの電話は一方的にプツンと切れた。まったく。
歩幅を緩めると、後ろから走ってくるランナーが次々に小井戸秀平を追い越していく。競っているわけではないけれど、やっぱりどこか抜かれるのは悔しい。
おいおい、ランナーっぽくなってきてるのかよ、俺。秀平は額の汗をぬぐうと、夜空を仰ぎ見た。都心の夜は、星がまばらで点々としている。大小様々なビル群に明かりが灯り、夜遅い時間帯でも、東京にはたくさんの人たちが働いていることを改めて確認する。満天の星空とはまた違ったロマンだ。何百万の人が交差する街、東京。『頑張り』という無数の煌めきが、背中を押してくれる。皇居ランをはじめてみて、秀平はそう思うようになった。
ランナーたちの後ろ姿を意識的に目で追う。集団で走る者、こどものペースに合わす親子。大人たちのサークル。ただただ自らを追い込む人。秀平が想像していたよりも遥かに、皇居ランの門戸は広かった。だから、あの人も始めたのだろうか。
すっかり歩いてしまっている秀平は、スマホでSNSを起動する。
歩幅はスローダウンしていても、心拍はなかなか下がらない。胸郭が大きく上下して、息が夜空へ飛んでいく。
秀平がインスタグラムを開くと、彼女のフィードが画面に飛び込んでくる。
《智衿かな》フォロワー数十三万人。若干二十二歳の若手女優だ。
スクロールして投稿を追う。
『えりかーなです! こんばんわー。今日も走ってます! 最近一番の趣味になってる皇居ラン。無心で走ると夜風が気持ちいいー』
えりかーなこと、智衿かなが走っている写真も一緒にアップされている。二重橋が写っている背景はここから遠くない場所だ。
秀平は、走りながら彼女の姿を探していた。
***
ノートPCの右下、デジタル時計の表示が夜六時を示すのと同時に、秀平はシャットダウンのボタンをクリックした。
「お疲れーした」
オフィスの大半はまだ作業をしていたり、営業先に出て戻ってこない人もいれば、斜め前のデスクに座っている内藤さんのように、頭を抱えて案件に潰されそうな人もいる。みんな仕事し過ぎだろ。内藤さんのデスクを横目に見ると『TO DO』と書かれた緑色の何枚もの付箋がはがしてもらうのを待っている。
シンプルに要領が悪いんじゃね、と秀平は思う。まあ、誰だって得手不得手。適材適所。俺は俺の仕事終わってるし帰るだけ、か。結果だって出しているし。今週は新規の広告を二件、しかもエクストラプランで獲得したばかりだ。
秀平が勤める『丸の内専門求人社』はその名の通り、東京丸の内にフォーカスした求人を手掛けている。業種ごとの求人媒体が人気の昨今、エリアに限定した求人は東京のローカルな側面を描き出し、営業部が一風変わった求人を掲載することで、例えば──『皇居の守り人』警備の仕事や、『会員制バー他言無用』政界の大物が出入りするバーの店主など──求人業界において特殊な存在感を出している。
フロアの端にある休憩所で一息つく。煙草は吸わないが、コーヒーは欠かせない。集中とリラックス、どちらも提供してくれるコーヒーは中毒性を確かに秘めている。備え付けの自動販売機でコロンビアのホットを買うと、じんわりとした温かさに心が落ち着く。一日の終わりだ。秀平は椅子に腰かけ、スマホを操作する。SNSで智衿かなの投稿を表示させると、最新の投稿はネット配信されている連続ドラマ『気まぐれランナウェイ』の宣伝だった。次の配信が第三話。写真はオフショットなんだろう。ベンチコートを着たえりかーなが笑顔でピースをしている。
はあ、癒されるわあ。
「えりかーな好きなんですか?」
オオッ。急に声を掛けられて顔面が硬直する。背後から、後輩の塚元美咲がぬっと顔を出す。
「意外」とニヤついて言う。大阪出身の彼女は社内の誰よりも距離感が近く、歳が四つほど上の秀平にも度々話しかけてきた。馴れ馴れしい。
「秀平さんって、可愛い系より綺麗系がタイプなんやって思ってました」
「おい」
秀平が話出す前に、美咲は両手をひらひらと顔の前で振る。
「たまたま見えちゃっただけですって~。でも良いですよね『気まぐれランナウェイ』三話が楽しみ過ぎる」
「さあな」
「いいね、してましたやん」
コイツ、見てやがる。秀平が忌々しく舌打ちするのをみて、美咲はけたけたと笑った。
「で、なんか俺に用か」
「秀平さんいつも定時で上がりますけど、急ぎの用でもあるんですか」
「ないけど」
仕事が終わった後は、秋葉原と神田の中間に位置する自宅へまっすぐに帰る。買い物は週に一度、休日の午前中に一週間分の食材をまとめて買っている。その方が効率的だから。
今日はパスタを茹でて、冷蔵庫に余っているほうれん草やベーコンなどと和えて晩飯にしようと思っていたところだった。シャワーを浴びて、動画配信のサブスクから気分で一本映画を選んで観るか、ネットゲームを課金しない程度に嗜む。他人に話すような出来事は特にない。だけどそれ以外に何かあるんだろうか。友人と呼べる人がそんなにいないから、一般的な会社員のプライベートが解らなかった。
「ほんなら残って仕事してもええんちゃいます?」
はあ。なに言ってんだこいつ、秀平は唖然として美咲を見た。
「塚元は、もしかして残業することを美徳だと思ってる? 例えば内藤さんみたいに抱えきれない案件の山こなしていくことが」
「私は──」
「俺はそうは思わない。定時で仕事を終わらすことが、『仕事ができる』ってことだろ?
パフォーマンスを勤務時間に集中して出して、勤務後は誰にも迷惑はかけない。それじゃ不満か?」
「いや、違うんです。私はただ秀平さんが」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。何だ?
「そんなドライでクールな秀平さんが、えりかーなに興味あるなんてやっぱり意外」
言い直した美咲は、自分のスマホを取り出しSNSで智衿かなをフォローしていた。
「かわええわあ」
訳わからんヤツ。
「じゃあ、俺帰るわ」
飲み終えたコーヒーの紙コップをゴミ箱へ放って、秀平は休憩室を出た。一階に降りるエレベーターを待っていると、後から小走りで美咲が追いかけてきたのに気付いた。
「秀平さん」
「なんだよ、まだ何か」
これ、と彼女はスマホを見せる。
えりかーなの最新の投稿だ。一分前と表示されている。
『皇居ラン始めたよ。つかれる。でも美のため! すべては美しさのため、なんて笑』
皇居ラン。ランニング。健康的で素晴らしい。
「これがどうした?」
美咲は鼻息荒く言う。何かとんでもない発見をしたみたいに。
「私たちも行ってみません? すぐそこにえりかーなが来てるんすよ。すぐ、そこに」
え? エレベーターが到着し、扉が開く。
「さあ早く! 秀平さん?」
秀平は、先にエレベーターに乗った美咲に促されるようにして続いた。
「なあ、塚元。俺は別に」
「えりかーなに会いたくないんですか」
「会えるとは限らないだろ」
「会えないって思うなら帰って映画の一本二本観ていてください」
何だって言うんだよ。塚元美咲。
「本当にいたとして、迷惑じゃないか」
「いた時に考えましょう」
一階へ降りた美咲はエントランスへ駆けていく。その後ろ姿を捕まえるように秀平は声を掛けた。
「少し寄り道するだけだからな」
「暇人なくせに」
美咲が振り返る。
えりかーながいる、すぐそこに。そういう事が起こるのか、現実に。秀平は、彼女のことを想い、会えたら何て声をかけようか考え始めていた。救われたんだ、えりかーなに。どうしてもそれだけは伝えたかった。ずっと伝えたかったのを、秀平は言葉に出来ず、ここまで生きてきていた。足下が空回るように先へと急ぐ。
秀平は、美咲と会社を出て皇居方面へと向かった。
***
皇居ランとは、その名の通り、皇居を反時計回りにぐるりと一周する約五キロのランニングコースを走ることだ。皇居ランの歴史は意外に古く約半世紀前に遡る。昭和39年東京オリンピックが開催された年に、一般人のマラソン大会が行われたことをきっかけに、今では年間約百五十万人ものランナーが走っている。それほどまでに多くのランナーから愛される皇居ランは、丸の内で働く秀平や美咲にとって馴染み深いものであった。なにせそこかしこにランナーがいる。彼ら、また彼女らはスポーツブランドのウェアとシューズ、さらにはキャップなんかも被って、ひたすらに皆走っている。
夜へと続く夕闇のグラデーションに、ちぎれちぎれの薄い雲が浮かんでいる。陽が沈み切る前にと、美咲が秀平を急かした。
「暗くなったらまじまじ見いひんと分からないすね」
美咲は本当にえりかーなを探すつもりのようだ。
「おいおい、探して。仮に見つかったとしてそれでどうする」
「えーなんやろ。握手っすかねえ」
「走っている最中に迷惑じゃないか?」
「そんなんノリと勢いでしょうよ」
軽すぎる。
「秀平さんは? 逆にどうしたいんですか」
俺? 俺は……。
うーん。
『ファンです!』
平凡だ。
『ドラマ観てます!』
何千人に言われているだろう。
『ずっと好きでした』
重いよな。
ぼうっと耽っている顔を見て、美咲がにやにやとしている。
秀平は俯いた。なんだよ。どうにかしてえりかーなの記憶に少しでも残りたい。自らの想いが浅はかで笑えた。一般人がどうやっても無理だろ。三菱一号館美術館の前を通りすぎて、アップルストアを左に折れると、ランナーの姿がチラホラと見えてきた。整然と立ち並ぶビルの間から、いきなり視界が開けた。東京の真ん中なのに皇居周辺は緑が多い。人の数が多く、皇居周りは無論警備もばっちりだ。確かにランナーにとっては走りやすいスポットなんだろう。だが──。
「これはさすがに見つからないだろう」
周回コース約五キロ。動き続ける人の波を見て、特定の人を探すなんて無謀だったと秀平は落胆した。
「もう、帰ってるかもな」
「かもですね」
「だいたい投稿が上がったのがさっきでも、リアルタイムでここにいたかどうかは疑問だよな」
「秀平さんもしかして」
「なに?」
「保険かけてます? 会えなかった時悲しまないように」
まただ。塚元美咲、こういう絡みが苦手。定時でサクッと帰ればよかった、と秀平は後悔する。
「そうだ! じゃあ塚元は帰ったら? えりかーなはひとりで適当に探してみるわ」
「いやいやオモロそうじゃないですか。一緒に走りましょうよ」
「はあっ?」
「会えたら、めっちゃ好きになるかもしれんし。わからないでしょ。あかんことはないですよね」
まあ、と秀平が歯切れの悪い返答をすると、さらに美咲はまくし立てる。
「まさか秀平さんは、ファンでもないやつがしゃしゃり出てとか。推しは俺だけの推し、これ以上有名にはなってもいいけど、大衆的なアイコンにはならないでほしいとか。諸々、おもんないことは言わないですよね」
「なんだよそれ」
秀平が笑うと、美咲も笑顔になった。
「じゃあ、走りますか」
「えっ、マジ? この格好でか」
仕事後の二人はお互いにスーツだった。足元に至っては秀平は革靴だったし、美咲もパンプスだ。
目の前を反時計回りにランナーたちが走っていく。水槽を泳ぐ魚の群れみたいだ。規則的に、それぞれのペースで走っている。黒やピンク、ブルー、鮮やかなウェアが飛び跳ねていく。
「確かえりかーなは──」
「ピンクでしたよね?」
二人は頷き合う。先ほど投稿された写真では、智衿かなはカーネーションのようなピンク色のジップアップブルゾンを着ていた。三月になり春の気配を感じてはいるが、朝晩はまだまだ寒い。薄手のブルゾンを見て、走っているうちに暖かくなってくるもんなんだろうかと秀平は思った。
「良いこと思いついたんだけど。ランナーの流れとは反対の、時計回りに走ったほうが早く見つかるよな」
秀平の提案に美咲が肩を竦める。
「だめだめ! 反時計回りに走るのが『皇居ラン』のマナーですから!」
「なるほど、じゃないとこうも一方通行にならないよな」
絶対守ってくださいね、と美咲は念を押す。
【皇居ラン マナー9ヶ条】
・歩道は歩行者優先
・歩道をふさがない
・狭いところは一列に
・周回は反時計回り
・タイムよりゆとり
・ながら走行は控える(スマホや音楽プレーヤー)
・自転車はすぐに止まれるスピードで
・ゴミは必ず持ちかえる
・思いやりの心で
『はじめての皇居ラン』と書かれたインターネットサイトを、美咲が朗読する。
「この勉強、必要?」
「えりかーなもこれを読んで走ってるに決まっとるやないですか」
「決まってるのか」
「読んでなくても、マナーを守らない男は嫌いでしょう。ポイ捨て禁止!」
いや、しねえよ。
「お互いランナー同士の方が、向こうも警戒しないでしょ」
そう言うと美咲は走り出した。仕事後なのに足の動きは軽やかだ。
「おい待てよ」
秀平も遅れて走り出す。リュックがゆさゆさと揺れる。ネクタイを緩めてポケットへねじ込んだ。
自分が走り出すと、東京の風景が、ゆっくりと動き出すのを秀平は身体で感じた。
「おい、つかも、ちょ」
ちょっと待ってくれ──。
秀平は、息も絶え絶え声にならない声をあげた。
どれくらい走った?
東京駅正面から、東京国立近代美術館を通りすぎた辺りだから約一~二キロくらいだろう。たった! 一、二キロ走ったくらいでこの有様だ。呼吸は苦しく足裏は痛い、背負っているリュックがさっきよりも随分と重い。
秀平のスピードは、最早歩いているのと変わらなかったが、先を走っている美咲はペースを落としながら待っていてくれた。
「運動不足ちゃいます? そんな苦しそうに顔歪めてる秀平さん初めて見ましたよ。たまらんわあ」
軽口を返す余裕もない。汗をぬぐった自分の手の甲を見つめると、肌の青白さがすべてを物語っているように映った。
「ほら、私がえりかーなやと思ってください」
さあ、と美咲が手を差し伸べてくる。
美咲は手をヒラヒラと宙に漂わせて、走った。
「私はえりかーな。私をつかまえてぇぇ~」
完全に遊ばれている。周りのランナーを見て走るどころのレベルじゃなかった。歩けばよかった。そそのかされて走り出したことを後悔する。
しかし、なんでコイツこんなに体力あるんだ。
***
「おはよーございます……」
翌日の朝。重たい身体を引き摺って何とか秀平は出社した。
走るだけで全身筋肉痛になるなんて思ってもみなかった。塚元美咲が言うように、運動不足なんだろうな。確かに顔は青白く、筋肉は痩せ細って、実年齢よりも鏡に映る自分は老けて見えた。
昨夜は結局えりかーなとは出会えなかった。あれだけの人と周回の距離、当たり前と言われればそうだ。だけど一度会えるかもと期待した心、そう簡単には諦めがつかなかった。結局ほとんど歩いて二周した。約十キロ。その成果がこの筋肉痛ってこと。
「秀平さん。おはようございます」
離れたデスクから美咲がすたすたと歩いてくる。様子を見るからに全然筋肉痛ではなさそうだ。タフネス。
「おう、おはよ」
彼女はじぃっとこちらの顔を見てくる。何か言いたそうだな。よいしょ、と秀平は椅子に座る。痛みが臀部にもきてるのが分かって、瞬間硬直した。そこの筋肉も、使っていたのか。全身運動なんだな。湿布とか貼ったほうがいいのかな。秀平が点検するかのようにふくらはぎや腿をさすっている間、美咲はまだ隣にいた。
「なに?」
いやあ、と彼女はバツが悪そうな顔をする。
「なんだよ、仕事始まるぞ」
「昨日は、強引に誘ってすみませんでした!」
美咲は頭を下げて、走り去っていく。はあ、と秀平はため息をつく。午前九時。頭を集中モードへと切り替える。身体は置いていこう。今日やるべきことに意識を運んで、秀平は仕事にとりかかった。
企業が求人に掛けるコストは年々大きくなってきている。少子高齢化が加速的なスピードで進行している日本において、労働力が欲しいのは、どの職種、業態もつまるところ一緒なのだ。
どんな人に御社へ来てほしいですか、という問いにもクライアントの答えはだいたい一致する。明るく、健康的で、コミュニケーション力があって、といったところだろう。ただ、それだけでは浅い。そこから深掘りし明確化していかないといけない。
秀平は耳を澄まして、クライアントの声を拾っていく。
「個人の趣向が、例えば、アマゾンみたいなレコメンド機能でカバーできるなら、ぼくたちの仕事ってそこじゃないよねって、そういう風に思ったんです」
丸の内にある大型書店、五階にあるバックオフィスに秀平は招かれていた。
手元の時計をチラッと見入ると、ミーティングが始まって一時間半が経過している。採用担当である、馬場という背の高い男の言葉が熱を帯びてきた。いいぞ。
「というと、つまり?」
秀平は相手の眼をしっかりと見て続きを聴く。
四十代に差し掛かったくらいのベテラン書店員は溢れる思いをしっかりと、逃さないように話してくれた。
「一冊の本との出会いは、偶然でもいい。出来る限りの偶然性をメイクしていこうよ。それがぼくら書店員の仕事でもある。そう思っています。例えば棚。作者の名前があ~わ順、って誰が楽しいんですか。ええ、確かに親切ですよ。親切ではある。だけど楽しくはない。小井戸さん、想像してみてください。一見乱雑に置かれている本たち。大小様々で、書かれている言語もよく見たら違う。何だこれは? でも無数の本のなかに、あなたは探し出すんです。あなただけの一冊を。その時あなたは主体性に動いている。探し出す、ということに。それだけで良いんです。それがリアルな本屋の歩き方なんですから」
馬場も秀平の眼を捉えて離さない。
職業柄、色んな仕事に触れることができる。
一つ一つの会社や仕事に、自分と同じような生身の人間がいて、様々な思いを持って働いている。東京の街では、それがひときわ多岐に渡る。生まれた時は皆同じただの赤ん坊なのに、どうしてこうも人生は違っていくのだろう。
会社には直帰しますと電話を入れ、秀平はすっかり暗くなった丸の内へと出た。
少し迷ったが、山手線には乗らずに皇居の方へと歩き出す。
昨日走った道を、ゆっくりと歩いた。もちろん、筋肉痛のせいでゆっくりとしたペースでしか歩けなかったのだが。えりかーなの投稿を見直す。昨日、彼女はここにいたのだ。写真は、今秀平が立っている位置とほとんど同じ場所から撮られたものであるに違いなかった。えりかーなの背後には有名な『桜田門』が写りこんでいる。
世間的に言えば、秀平にとってのえりかーなは『推し』ということになるのだろう。
グラビアが載れば雑誌を買うし、ファンとして活動を応援している。明るく活発な智衿かなは、『存在』するだけで秀平を間違いなく元気づけてくれている。
冷たい風が吹いていて、コートのポケットに両手を突っ込んだ。
じっと堪えていると寒さの中微かに混じっている春の気配を、風が運んでくる草木の匂いから感じることができた。季節は巡り、平等に春はやって来る。新たな力がむくむくと自分に湧いてくる気がした。不思議と一歩踏み出すごとに、力強く、疲れた身体を押していった。
お濠の近くを歩く。向かって左に生えている、立派なしだれ桜たちはもうすぐ咲くのだろうか。腹がすいた。神田でラーメンでも食べて帰ろう。桜は直に咲くのだろう。ただ、ぼんやりと歩くだけ、それだけの行為は、社会的なことから個人的なことまで、思考を自由に巡らすには充分な時間だった。今日起きたこと、ずっと前に起きて記憶の底に沈んでいる思い出。浮かんで消えるあれこれが交差して、流れている。流れていく。
SNSを開くと、えりかーなが投稿をしていた。
「あれもこれもと駆け抜ける日々に、身体が置いて行かれそうだったけど。呼吸を整えて、静かな部分に耳を澄ます。今日もわたしは風香と共にいる」
風香、というのはえりかーながドラマ『気まぐれランナウェイ』で演じている森風香のことだ。森風香は劇中で自身の置かれた環境(必要なものはすべて手に入ってきた、傍からみたら豊かな幸せな生活。羨まれたり、嫉妬されたり、贅沢だと言われたりする全て)に漠然とした退屈を抱いて、逃走する。広告業界で年収一千万を越える多忙な父、家事をしながらフリーランスでイラストを描く母。二人は口を揃えて娘である森風香に問う。
「何不自由なく育ててきたのに、これ以上一体何が欲しいんだ」と。
風香は両親へ向けて叫ぶ。
「わからない。でもわからないって気持ちを今ここで投げ捨ててしまったら。わたしはわたしじゃいられなくなる気がするの」
センシティブで葛藤する森風香という役どころは、智衿かなには難しいんじゃないかと、放送前から多くの視聴者たちは危惧した。(気まぐれランナウェイは単行本全十巻の人気漫画原作なのだ)漫画原作には、すでに世界観に対し一定のファンがいて、演じる俳優が誰になるのか、もっとも予想が白熱するところでもある。
「智衿かな? えーマジ? イメージと違ったわー」
心無いツイートやコメントが彼女に相次いだ。
智衿かな、愛称えりかーなは、グラビアアイドルからデビューし、女優に転身した。九州の田舎で生まれ育ったどこか垢抜けない容姿に、天真爛漫な性格。女優デビュー作となったドラマでは、素人が一人画面上に紛れ込んだ印象だと非難されたり、天然さがウリの彼女に対して、嘘みたいなぶりっこだ、などと辛辣な感想がネット上に溢れていた。
しかし彼女はコメントをブロックしたり、SNSを止めたりしなかった。
ただまっすぐに受け止めていたんだと思う。えりかーなは女優を続けた。
夜が深まるにつれて、人工的な明かりが眩いばかりの光を放つ。都会にいる、東京にいる。だけど決してひとりじゃない。ランナーたちが秀平を追い越していく。颯爽と走るランナーもいれば、キツそうな顔で振り絞るように足を進める者もいた。
走る。それはシンプルな移動手段だけであったはずなのに、現在こんなにも多くの人を虜にさせている。
一体何故なのだろう。後方から熱を帯びた気配が近づいてくる。複数の足音、息遣い。それは、あっという間に秀平の隣を走り去っていく集団のランナーたち。肌が触れるくらいにギリギリを通って。当たってもいないのに、熱の余韻が背中の右側にヒリヒリと残っている。とてもフィジカルな感覚が、目に、鼻に、感覚器官に新鮮で強烈だった。ここは、秀平の知らなかった東京だった。
ふと、また走ってみてもいいかなと思った。次はちゃんと準備してから。
ランニングコースから逸れて、自宅のある神田方面へと足を向ける。豚骨ラーメンを食べて帰宅した。深夜二十三時。えりかーなのSNSが更新される。
「今日も走ってるよー。継続はちから!」
彼女の皇居ランも続いていた。走ろう、秀平は自らに確認した。
***
「というわけで、今日から本格的に走ってみることにした」
翌日、休憩室で鉢合わせた塚元美咲に、秀平は決意を告げた。
「三日続きますかねえ」
美咲は一昨日秀平の走りを見ているだけに懐疑的だった。
「確かにな」
「ほら」
「昨日ネットでウェアからシューズまで買ってしまった。計六万」
「高っ、アホなんすか」
「道具を揃えたら簡単には止められなくなるだろう」
「昨日も走ってたみたいですね」
えりかーな、と美咲がスマホを見せる。昨夜、自分が歩いた場所に彼女もいたのだ。
「動機が不純」
半分は当たっているので何も言い返すまい。秀平は目をそらす。
「会えるといいですね」
美咲はにやりと笑う。
走りながらえりかーなに会う。
目標に辿り着くコツは、目標を達成した自分の姿をより鮮明にかつ具体的にイメージすることだと、本で読んだことがある。
えりかーなに会う。皇居ランで。
案外難しいことではないかもしれない。例えば、時間帯と場所。彼女が走っているのと同じ時刻に、同じ場所を走っていればいい。ただそれだけなのだ。
問題は────その時、えりかーなとランニングですれ違う瞬間、俺は追い抜かれているのか? まさか。いやでも現状、きっとそうなる。後輩女子の塚元美咲にもついていけないペースなのだ。それでは格好悪すぎる。待ってくれ、えりかーな。無理無理。
颯爽と追い抜く。
後ろを振り返って、もしかしてあなたは女優の智衿かなではないですか? とスマートにあたかも偶然のように、声を掛ける。
うん。こっちだろう。えりかーながどれだけのスピードで走るのかは分からないけど、負けるわけには行かない。
「秀平さん。仕事終わりに走るんやったら、ランステ使うんですか」
「ランステ?」
「ランナーが使う、ロッカー。場所によってはシャワーもある所ですよ。ランニングステーション、通称ランステ」
ほう、便利そうだ。快適に走るための設備も充実しているから、よりランナー人口が増えていくんだろうな。
「いや、俺は一回家に帰って着替えてから行くよ。神田だから近いし」
「じゃあ私も走ろうかな。ダイエットがてら」
こないだ走って仕事のストレスがリフレッシュされる感じがしたんですよね、と話す塚元美咲は小柄でどちらかというと華奢なようにみえた。秀平はそう思ったが、女性のスタイルに関して何を言っても叩かれそうだったので、ふうんと相槌を打つに留めた。それがあまり気乗りしていないようにみえたのだろう。
美咲が忠告するように秀平へ言った。
「言っときますけど、知らない男一人に夜話しかけられるより、男女ペアの方が警戒しないと思いますよ」
確かにそうだ。
次の日仕事を定時で終えた秀平と美咲は、各々準備をしてから桜田門広場に集合し、皇居ランを行った。
美咲と一緒に走ることは、秀平にとって思わぬ効力をもたらした。一緒に走る人がいたほうが、数段走りやすいということだ。
認めたくはないけど、塚元美咲はペースを作るのが上手かった。ランニング初心者の秀平は、息があがっては止まって、しばらくしたらまた走り出す。一人で近所を慣らしがてら走るとそんな有様だった。ペースメーカーがいるとこんなにも違うのか。
「塚元ってもしかして陸上経験者?」
「中学だけですけど」
やっぱりそうか。彼女の蹴り上げる足のバネやブレない体幹が物語っていた。
「どうしたら、もっと速く走れるかな?」
秀平の質問に美咲はうーんと首を捻って考えている。
「力まないって感じですかねえ」
「力まない?」
「秀平さんの走りをみていると、初心者だから仕方ないんですけど、走りに余計な力が入っているのが伝わります。特に上体。今、自分の肩が上がっているのわかります?」
こういう感じで、と美咲は自分の両肩をグッと引き寄せた。
そんなに上がってるか? と肩を意識すると、なるほど確かに力が入っていたのが解る。
「力を抜きましょう。ぶらぶら~」
走りながらも両腕を下にし揺らす。見よう見まねで行ってみる。
「いい感じです。ぶらぶら~」
何だか滑稽だなあと思いながら息を吐くと、木々の匂いや濠の水の涼が運ばれてきて、秀平は全身でそれを受け止めた。もう一度味わうように大きく息をして、ゆっくりと吐く。新鮮な空気が体内を巡って、脳や目の神経や血行がリフレッシュされたように感度が上がる。視界が色を取り戻す。
「そんなに会いたいんですか?」
美咲の走りは今日も軽やかだった。口も軽やかなのは余計なんだけど。
「推しになったきっかけって何やったんですか?」
美咲は秀平のペースに歩幅を合わせながら聞いてくる。
「推してるわけじゃない」
「でも執着してません?」
「それは」
「秀平さんの事、何にも興味ないんかなって思ってました。仕事はできるし、コミュニケーションも、話してみたら別にフツーなんですけど、なんか無機質っていうか、人間味がないっていうか。すみません。でもえりかーなの事は、違う気がする。それって何なんかなって思うワケですよ。人並みの興味として」
スーツを脱いで、ランニングウェアで会っているからか。前に一緒に走った時より塚元美咲と話すことに抵抗がなくなっていた。社会的な役割とか立場で、人と人は出会う。けれど今は見た目、ただのランナー。身軽だった。無意識のうちに自分は身軽になりたかったのかもしれない。プライベートな話は、仕事関係の人にはあまり話したことはなかったが、塚本美咲には話してもいいかもしれない。
えりかーなを知ったのは、まさに心身の重さに動けなくなっていた時だった。
「俺は、昨年入った転職組だろ。その前の職場での話なんだ──」
思い出すだけで、重たく暗い気持ちがぐるぐると胸の奥にうごめくのを秀平は感じた。
***
昔から要領が良かった。大学は、経済学を専攻した。学べば学ぶほど世界経済の大きさと自分の小ささがわかった。身の程を知ろう、新卒で入社したのは不動産の営業職だった。やりたいこととか、そういうことじゃない。やれそうなことで、条件が良いところを探した。自己分析するなら、きっと『探し方』が上手かったんだ。何十社も受けている友達たちを尻目に、最初に受けた会社から内定を貰った。
社会人になってからも、それほど大きな失敗はしなかったと思う。トラブルは未然に防げる。起こる前に波のような揺れがあるのだ。多くの人は当事者だった場合、『こうしたら、ああなるよね』という事にその場で気付けない。第三者のことなら、『そんなことフツー、解るだろう』と笑い飛ばすくせにだ。不思議だった。
ある時、会社の顧客データが流出しているという情報がインターネット上に流れた。しかもどうやらうちの支店だという。十人もいない小さな事務所だった。
噂が現場まで来て、数日後。赤田というやせこけた狐みたいな男が、「小井戸が盗っているのをみた」と言ったらしい。
らしい、というのは、秀平に対し社内上層部による尋問のような取り調べが行われ、彼らから聞いた話でしか知りえなかったからだ。
そんな馬鹿なと、心から思った。
USBを見せろ、と大して面識もない上司たちから迫られた。秀平はノートPCに付けっぱなしにしているUSBメモリを取り出して渡した。彼らは、ふむふむと、中にあるデータを調べ、秀平を見た。蔑むような目つきで。
そこには顧客データがご丁寧にコピーされていた。
「ほんまに盗ってないんですよね」
「当たり前だ」
秀平は肩をすくめて、美咲へ話を続ける。
自分は盗ってない。むしろ、そう言った赤田が怪しいんじゃないかと秀平は反論した。赤田こそ、顧客データ流出の犯人なんじゃないか。
一笑された。それはあり得ない、と。データは間違いなく秀平のノートPCでコピーされていたものであるし、アクセスにも秀平個人のログインIDとPWが使用されていた。確かに秀平のログインPWまでは、赤田には知り得ない。上司たちの高笑いが鼓膜に張り付いた。
秀平は犯罪者のレッテルを貼られた。警察沙汰にはしたくない、だけどこのままここにいてもらうのは困る。わかるよなと上司に言われた。水野支店長も、残念だけど、と震える声で言った。赤田は、取り調べ以来ずっと欠勤していた。
「こうしたら、ああなる」
誰だがわからないけど、想像力が欠けたヤツがいたんだ。退職以外の選択肢は、今考えてもなかったように思う。一週間も経たないうちに自然と辞めることになっていた。あの頃の記憶は今でも曖昧で、振り返ろうとすると吐き気がする。
最後の出勤日。仕事後に事務所を出たものの、忘れ物をしていたことに気付いて引き返した。充電器を自分のデスクに差したままだった。
薄明かりが点いている事務所に二つの影が動くのが見えた。やましいことはなかったのに咄嗟に身を隠してしまった。逆に向こうからやましいことの匂いを感じ取ったから。トラブルは未然に解る。だけど解っていたのに防げないこともある。違うな。解ったふりをして衝突から逃げていたのかもしれない、もしかしたら。
こうしたら、ああなるだろう。小井戸秀平がデータを盗ったことにしたら、小井戸秀平は退職するだろう。
水野真弓支店長と赤田が付き合っていたのは知っていた。秀平は水野支店長に入社当時から好意を寄せられ、告白もされた。けれど、水野支店長の告白を小井戸秀平は断った。過去の一件を、赤田はもちろん知っている。十人規模の小さな事務所だから。それがあって、赤田は秀平を嫌っていた。気付いていた。
しかし、水野支店長が顧客データを流出していたのには気付かなかった。
「ねえ、本当に良かったのかしら。私バレるんじゃないかって怖いの」
水野支店長の声だ。相手はやはり赤田だった。
「小井戸の事なら、しょうがないよ。アイツは、仕事も出来るし、今回の事を警察沙汰にしないで収めたんだ。また違う会社で飄々とやるさ」
「そう、なのかな」
「アイツ元から社内で孤立してるし、ちょうどいいだろ。それより二人のこれからについて考えよう。その方が建設的だって」
支店長だったら確かにシステム管理会社に連絡して、秀平のIDとPWを退職したとか適当な理由をつけて教えてほしいと言えるし、もしくは、秀平のデスクの鍵付き引き出しの中にある、メモに走り書きされているIDとPWを盗み見ることも可能だろう。データを売ってお金にしていたのか、実際そこから先は解らないけれど。
「こっちは真面目に働いていただけなのに。笑えるよ。何で二人に詰め寄らなかったのかって? 疲れていたのかもしれないし。単に逃げただけかもしれない。どちらにせよ、あんなことがあってあの会社では働けないさ」
美咲の顔はまともに見られない。自分が今どんな顔をしているか、嫌になるからだ。
仕事を辞めた後、房総半島の南部にある実家へ帰った。無気力で退屈な日々。何かを始めようとしても、心がついてこない日々。ある日眺めていたネットドラマにえりかーなが出ていた。可愛いな、って思ってなんとなく眺めていると、次第に釘付けになった。
嘘だろってくらい、一人だけ棒みたいな演技だった。素人目にみても下手だった。大丈夫、この娘? 来週も出てる? 秀平は次の週もドラマをチェックした。彼女は変わらずに下手くそな、愛嬌だけで乗り切ろうとする演技を大衆に披露していた。翌週も、そのまた次の週も、俺はドラマを観た。大学受験を題材にした青春ドラマで、彼女の役柄は、勤勉で努力家だけど、天才の弟といつも比較され、劣等感を感じるという役だった。
「努力しても無駄かもしれないし何にもなれないかもしれないじゃん。諦めなよ」
一日中受験勉強で苦しむ姉に弟が言った。
そうかもね。えりかーなは困ったような顔から、視線を泳がせ、決めたように弟を見据えて言う。ゆっくりと力強く。
「姉ちゃんには何にもないから。だからやるんだよ」
えりかーなの優し気な笑みが、逆に悲しかった。
彼女にも、何にもないんだ。それが登場人物の事なのか、えりかーなの事なのか。俺は混同してしまっていた。
何にもなかった。仕事を失った秀平にも。
放送後、えりかーなのSNSを覗くと見事に荒れていた。毎週の事だったけどさすがに腹が立った。
「下手くそ」「やめちまえ」「所詮グラドル上がり、男ウケ起用だろ」
匿名の言葉にむかむかとする。想像力を欠いた、言葉と行動に。
何にもないから。だからやるんだよ。
やってるやつの邪魔をするなよ。
コメント欄に、文字を、思いのまま叩きつけた。
『黙々とひたむきにやっていて、それの何が悪いんだよ。一生懸命にやってますってわざわざ言わないと分かんないのかよ。誰かの真面目を笑うなら、同じ土俵に上がって来いよ』
「DQN登場」「ヒーローぶるな」「草」
秀平の言葉は、たちまちアンチたちのコメントに飲み込まれる。
自分だって、一緒なのに───恥ずかしさと怒りが混じった感情を、自分自身に向けないで、ネットに吐き出したのは自分も一緒だった。秀平は暫し画面を見つめていた。
増えるコメントの中に、少数だけどえりかーなに肯定的な言葉もあった。
「えりかーなの演技、確かに上手くはないけど、私は好き!」
「グラビアから、女優さんまでやれて尊敬」「絶対絶対絶対智衿かな推し!」
流れるコメントが、膨大な言葉の羅列が、秀平の目の前を通りすぎていった。
約十分後、智衿かなが投稿を更新した。
「ありがとう。みんなの優しい言葉が、私の背中を押しているよ」
彼女の目の前でも、同じように膨大な言葉が通りすぎていったのだろうか。
画面の前、目を丸くする。俺に向けて言ったわけじゃない、そんな勘違い野郎じゃない。
秀平は頭を掻いた。でも、自らの言葉が一人の人間にダイレクトで届いた、実感があった。
何にもないから。だからやるんだよ。
翌日、秀平は転職活動を始めた。心に大切な言葉を抱えて。
えりかーなのおかげで、俺はまた始められたんだ。
長く長い息を吐き切って。吸い込む息は美味しく感じられて、秀平を満たす。
あの日から、えりかーなは秀平の心にいて、彼女の存在もまた秀平を満たしていた。
秀平と美咲が皇居ラン三周目に差し掛かる頃、えりかーなのSNSが更新された。
「きました!」
「おおっ」
全身が沸き立つ。汗が皮膚から滑り落ちて、アスファルトに染みをつくる。
「近いです」
えりかーなの写真には、
「今夜も走ってるよー。気まぐれランナウェイも観てね」
と投稿され、赤に白の縦線が入ったウェアに黒のショートパンツとレギンスを合わせた格好で走る後ろ姿が撮られている。風景に写り込んでいるのは、気象庁だ。秀平と美咲はちょうど二周目のランを終えて、二重橋に戻ってきたところだった。時刻は二十一時半。二人は顔を見合わせる。
「近い」
「急ぎましょう」
すぐそこにえりかーながいるんだ。秀平は懸命に足と腕を動かした。
「ペース上げますね……大丈夫ですか?」
先導する美咲が聞く。秀平は無言で頷いた。
美咲がぐんっと加速する。置いて行かれそうになるのを秀平は必死にこらえた。
右斜め前方に気象庁が見えた。投稿の後、また走り出しているとしたら、どのくらいの差がついているだろう。この道の先で確かに彼女も走っている。秀平は走る。
皇居の周囲には信号がない。ランナーは足を止めることなく、走り続けることができる。逆を言えば、ランナーの足は、よりランナーとして上達すればするほど、減速することがないのだ。
「歩くタイミングがあるとしたらクールダウンの時ですね。疲労した筋肉を休ませて、覚醒状態からバランスをオフに戻す。素人ほど準備運動をして、クールダウンはしないって方が多いんちゃうかなと思います。面倒なんでしょうね。でも、えりかーなは女優さんやし身体のケアは徹底しているでしょう? チャンスやと思いますね。もしその時に追いつけたら」
美咲の言葉に頷くと、東京国立近代美術館が右前方に現れてくる。ここの緩やかな上りが秀平は苦手だった。しかも今夜は三周目だ。
ぉぉぉお。
身体が悲鳴をあげていた。ちぎれそうだ。
肺は酸素を求めて肋骨の中を窮屈に暴れだしている。軋み、一歩、また一歩。足がスローダウンしていく。上がらない。キツい。緩やかな坂の傾斜が、足に数十キロの重しを載せたかのようだった。
「秀平さん!」
振り返る塚元美咲に、秀平は返事の代わりに手を振った。
すまん──いいから行け。
美咲は迷う素振りを見せたが、諦めて先へ行く。
まさしく、足手まといだな俺は。秀平は滴る汗をそのままに膝へ手をついた。
呼吸が落ち着くのを待って、歩き出す。
塚元はえりかーなに追いついたか──。
秀平が視線を前に上げると、外灯に照らされた美咲の姿が数十メートル先に見えた。
「まさか、俺を待っていたのか。塚元なら追いつけるかもしれなかったのに」
近づくと美咲はあきれ顔をして秀平に言った。
「秀平さんが会わないと意味ないっすやん」
***
二人の皇居ランは続いた。
仕事後にできた新しい習慣を、秀平はいつからか好ましく思っていた。少しずつ走りに慣れてきた自分がいたからだ。運動は、デスクワーク中心の生活から心身を解放させた。最初はあんなに苦痛でしかなかったのに、と秀平がこぼすと、美咲はえりかーなに感謝ですねえと手を叩く。
えりかーなが皇居ランをはじめたのは三月一日。彼女は走っているのはSNSの投稿を信じるなら平日だけだった。そして平日の中で金曜日の夜は過去三回、毎週走っている。理由も分かっている。トウキョウFMで夕方生放送のパーソナリティをしているからだ。放送後、皇居ランをするのがルーティンとみた。四度目の金曜日。今夜走る確率は高かった。
会社では仕事に集中する。求人原稿の作成。段取り良く進めているので今日も定時には終わるだろう。予定通り帰宅してから皇居ランに行けるはずだ。
「小井戸くん、調子いいねえ」
課長に声を掛けられる。ええまあ、と目線をPCから外さずに相槌を打った。
「調子いいところ、悪いんだけどさ」
声色があまりにも悪かった。秀平は嫌な予感がして課長を見る。
「一つ頼まれてくれる?」
課長が顔の前で手のひらを合わせた。
離れたところで美咲が苦い顔をしている。回避できなそうな案件な気がした。
「内藤くんが、ほら例の病気で。あと一日、二日は休みでさ。打合せは各社終わっていて、素材もあるから、あとは原稿作成だけなんだけど。僕も、他のメンバーも手一杯で」
今年は例年より市場の動きが遅く、三月に入っても新規の求人広告作成に追われていた。
企業の機密情報を扱う事も多いので、なかなかリモートに完全に移行することが出来ず、大事な作業は会社のPCで、というのが丸の内専門求人社の方針だった。
「──わかりました。いつまでですか」
病欠は仕方ない。業務量が増えたところで、自分の仕事と並行して取り掛かれば出来ないことはないはずだ。
課長が口を開く。
「……明日」
明日? マジかよ。
「週明けから掲載分」
「何社ですか」
「五社」
「嘘でしょう」
「もちろん僕と、後藤、それから田岡も抱えている案件が終わり次第そっちに取り掛かる」
「えーと、つまり」いや待てまて。考えている暇すら惜しい。これは時間との勝負だ。
内藤さん、あんた要領が悪いんだよ。本当に。
美咲がこちらに歩いてくる。
「私にも手伝えることありますか」
彼女はアシスタントディレクター。立場上、原稿作成やチェックは出来ない。
秀平は首を横に振る。
「じゃあ、素材の振り分けとざっくりとしたレイアウトまでやります」
「ありがとう、悪いな」
気を抜くとがっくりと項垂れそうだった。でも、今日を逃しても、また走ればいい。
「先に行って、アップしながら待ってますから」
グータッチを求める美咲に、秀平は右手を伸ばして応えた。
そこからは時間との戦いだった。キーボードを叩くスピードに一定のリズムが生まれ、文章が作られていく。内藤さん、こんな量の案件抱えるだけ抱えて。企業とのやり取りのメモにも丁寧に彼の手書きの文字、修正跡なんかが加えられている。あれ、この企業。新規掲載になっている一件に秀平の目が留まった。この大手派遣代行企業はメインで使っている求人媒体があるからと、つまり昔から恩顧にしている会社があるからと、断られ続けてきたんじゃなかったか。取ってきたのかよ。へえ。
必死に文字をタイプする。求職者に伝わる言葉か。ここで働きたいと、感情を突き動かす言葉か。泥のように疲れているはずなのに、中心が冴えている感じが秀平を包む。集中と覚醒、同時にリラックスも共存している。ああ、そうだ。この感覚、ランナーズハイに似ている。疲れている、しんどいなって頭は感じているはずなのに。身体は動き続けるのをやめない。止めたがらない。もっと、もっと。
秀平は湧き上がってきた気持ちを逃がさないように、脳内から指先へと送り出していく。
瞬間を、瞬間に浮かぶ言葉を、追いかけてつかまえていく。
「いいだろう。完成だ」
課長の一言で、秀平はデスクに突っ伏した。結局、現場総出の作業だった。
「ありがとうな」
一人一人を労う課長が、秀平のデスクにも来た。
「にしても、おまえが残業するなんて奇跡だな」
「そうっすかね」
「小井戸いなかったら正直ヤバかったよ。サンキューな」
同じ部署の先輩、後藤さんも話しかけてきた。普段は口をきかないのに。秀平は頭を掻く。
「身体も締まってきてるし。塚元と付き合ってから、おまえ変わったよな」
課長の言葉に、思わずハァッ? と秀平は吹き出した。
後藤さんが両手で、まあまあみんな分かってるからと制する。
なんで俺が塚元と────しまった、思い出した。
「あっ、すみません! 俺用事あるんでした」
秀平は急いでエレベーターへと向かいスマホを確認する。すでに深夜0時を回っていた。
さすがに、もう帰ったか。エレベーターを下りた秀平は電話を鳴らした。
「──もしもし」
しばらく鳴らすと美咲がか細い声で電話に出た。もしかしたら寝ていたのかもしれない。
「もしもし、小井戸だけど。悪い。今仕事終わった」
「秀平さん。内藤さんの仕事、間に合ったんですか?」
「なんとかね。おかげでくたくただよ」
「よかったです、こっちも走ったら疲れちゃって」
一緒に走れたら良かったんだけど、と秀平は思った。
「今日はごめん。今度メシおごるよ」
課長と後藤さんのニヤケ顔がチラついたけど、そういう事ではない。断じて。秀平は自らに言い聞かせ、人通りの少なくなった夜道を自宅へと歩いた。
長かった夜が明けて朝が来る。
ランニングとはまた違った疲れを背負い出社すると、何人かの上司や先輩に声をかけられた。
「小井戸、大活躍だったみたいだな」
「見直したぞ」
「おまえの成長に感動したっ」
残業をしただけなのにえらい騒ぎ用だった。なんだか気恥ずかしい。
美咲を探したけど、タイミングが合わないのか、今日はなかなか出会わない。どうでもいい時はいるくせに。えりかーなの情報について共有したかったのにな。
『気まぐれランナウェイ』も佳境に入っているのと、どうやら年度末でトウキョウFMのパーソナリティを降りるらしい。ということはだ。皇居周辺に来る事が減り、もう皇居ランをしないかもしれない。その前に一度でいい、やっぱり会ってみたかった。
メールチェックを終わらせて、秀平はトイレ休憩に立った。用を足し手を洗っていると、鏡越しに映る自分の顔が以前より精悍そうに見えた。少し後ろに下がって、全身を眺めてみる。脚部の太ももは隆々と締まってきていたし、ふくらはぎはシュッとシャープになったのが、スーツを着ていてもわかる。肉体の変化がメンタルも変えるっていうのはあながち本当かもな。残業なんて、効率の悪い馬鹿がすることだと思っていた。時間をかけて仕事してますアピールみたいで嫌いだった。
物音がして誰かがトイレに入ってくる気配がした。秀平は髪型を直す仕草をして筋肉を眺めていたのを誤魔化した。
トイレに入ってきたのは内藤さんだった。体調、良くなったんだ。
鏡越しに目が合った。内藤さんは鋭い眼光でこちらを見ている。
思わずサッと目線を外す──えっ、睨んでいたよな?
話しかけるべきか迷ったけれど、指先で毛先をイジっている風にして鏡越しに声をかけた。
「内藤さん具合良くなったんですね。昨日めちゃくちゃ大変だったんですよ。まさか、あんなに案件抱えている──」
「自慢か」
内藤さんが言った。
自慢? 何のことだ。用を足した内藤さんが隣の洗面台に歩いてくる。センサーで出てくる水が止まっても、内藤さんは手を洗う。しつこく、しつこく。
「悪かったな、要領が悪くて」
手元を見ながらも内藤さんは明らかに秀平に話していた。
「悪かったな、締め切り寸前の仕事を抱えたまま休んで」
そして、彼の声は明らかな敵意を含んでいた。
「いやいや、気にしてないっすよ。冗談です」
なんだ、面倒くさい────。
「オマエが羨ましいよ。軽々出来るヤツが」
秀平は上げかけた口角が引き攣るのを感じた。
「どういう意味ですか?」
「小井戸。オマエさ、オレをみて見下してただろ。要領悪いなとか、残業なんてくだらないとか。その通りだよ。オレはできないから、できないからやってんだよ。軽々しく、飄々と他人の分までやってくなよ。一日残業したくらいで浮かれてんじゃねえぞ。こっちは毎日やってんだよ。なのに一日休んだくらいでまた差つけられて。ふざけんなよ」
返す言葉がなかった。内藤さんに言われた通りだった。
「黙ってんじゃねえよ」
それでも秀平は黙っていた。
筋肉が多少付いてもメンタルは全く変わっていなかった。
***
嘘やん。ほんまに見つかった。いつかあげていたSNSの写真と一致。ピンクのブルゾン。えりかーなだった。並走するもう一人の女性と共に、美咲を抜いて走っていく。
抜かれた。速い。
秀平さんへの連絡が脳裏によぎったのと同時に、目の前を駆けていくえりかーなを呼び止めなきゃと思った。優先しないといけないのはどっちだ。
美咲は緩めかけた足を、再び大きく蹴り上げる。
秀平さんはまだ職場におるんやろか。内藤さんの残した業務量えぐそうやったもんなあ。ここまで来て絶対に見失うもんか。美咲はぐんぐんペースを上げる。
でもまさかほんまにおるとは。生芸能人やん。興奮と鼓動がリンクして美咲の身体を大音量で鳴らす。感動なんですけど。
──金曜日の夜は、毎週走っている。多分、トウキョウFMでラジオの収録があるから。その後に走ってる。
秀平さんさすがです。でも私だけが会っちゃうとはなあ。秀平さんにも会わせてあげたい。
しかしえりかーなと、その横を走る女性(たぶんマネージャーかな)、二人組のペースは意外にも相当速い。息もぴったりに走る。陸上やってた人? そんなんオフィシャルの情報には上がってなかったよな。美咲は追いかけながら、自分の頬が緩んでいるのに気づく。
ええやん、面白くなってきたで。
美咲は走り方をストライド走法へと切り替える。より歩幅が大きくなる。それに伴って上体に掛かる負担も大きくなる。明日筋肉痛になってもしょうがない。
ハッハッハッ。
呼吸が躍動する。
長い下り坂を終えた地点に、桜田門がある。多くのランナーがスタートとゴール地点に使う場所だ。えりかーなたちも桜田門広場で皇居ランを終える確率は高い。彼女たちのペースは追い込みそのものだった。千切れないように十メートルくらい後ろを懸命に美咲が走る。右手に半蔵門の標識が見えたのを確認した。三宅坂、ここが勝負や。しかし美咲が思うほどに距離はなかなか縮まらない。七、八メートル先を先行する二人に、離されないように走るので精一杯だった。絶対ラストスパートかけてるやん。やっぱり桜田門がゴールなんや。マネージャーと思われる女性が後ろをチラッと振り返る。キャップを被っていても、綺麗な人だとわかった。えりかーなもそうやけど、この人もスタイル良い。姿勢が崩れない。二人を支えているのは、鍛えられた脊柱起立筋、広背筋。足腰の土台。ふくらはぎも、シュッと締まって美しいシルエットだった。努力を習慣にしている人たちの筋肉だ。下り坂の傾斜が徐々に緩やかになってくる。大きな桜田門が見える。二人が左へ、門の方へ曲がる。まずい。まずい。足を回しすぎて空転しそうだ。ダメや、こうなったら。最終手段!
美咲は声を張り上げた。
「えりかーなあああ!」
二人が後ろをギョッとした顔で振り返る。緩んだ足を美咲は見逃さない。振り絞れ──。
距離を詰める。マネージャーが右側を走るえりかーなへと腕を伸ばしてガードする。美咲は、スキが出来た左のスペースを駆け抜け、二人を抜き去った。
勝ったー。桜田門を二人より先に越えた美咲はそのまま地面へと倒れこむ。息が上がり全力を出し切った身体に達成感が沸き上がってくる。本気で走って、自分の限界の先に行けたような走りだった。面白かった──。
「あの、大丈夫ですか」
倒れている自分に、手を差し伸べてくる。TVで、SNSで、何度とみた、間違うことない、女優の智衿かなだった。間近で見て、同性の美咲ですらうっとりとしてしまう。実物は違う、ってよく言うけどほんまやねんな。
えりかーなが私へ手を差し伸べている。爪の先まで綺麗が行き届いたその手を、美咲は逃さないようにそっとつかまえた。
***
夕飯を食べても、シャワーを浴びても、泥水を飲まされたような苦しさは消えなかった。
ベッドに大の字に寝て天井を睨む。もやもやと雲がかった思考が自分自身を取り囲んでいる。内藤さんに言われたことが、一日中気にかかっている。
えりかーなのSNSを開く。更新はなかった。また、彼女の言葉を求めている。
すると、美咲からメッセージが届いた。
「話したいことあるんですけど、今夜は走りますか?」
今彼女に会うと、ネガティブな話をしてしまいそうだった。
塚元美咲の明るさに頼りたかった、だけど今日は止めた。
「悪い。今日はやめとく」
メッセージに返信すると、すぐに了解とスタンプが返ってきた。
悶々とするだけで、明日が来るのが憂鬱だった。しばらく宙を見つめていたが、やがて秀平はずるずると身体を起こし、ウェアに着替えて、夜の東京へ飛び出した。
夜の匂い。アスファルト、点滅する信号。くたびれたスーツを着た大人たち。中華料理屋からのぼる炒め物の香り。二酸化炭素を排出する高級車が停車する脇を走り抜ける。右に曲がってもいいしそのまま進んでもいい。路上を好きなペースで、ナビもつけずに走るのはとても自由な行為だった。肌に触れる東京の空気が気分を変化させていく。頭にこびりついた嫌な気持ちを振りほどくように、秀平は走りに没頭していく。
皇居の周り、いつものコースに来る頃には心は先ほどよりも落ち着いていた。
たくさんのランナー、深夜でも付けっぱなしの街灯。部屋に独りでいるよりずっとよかった。次第に、心身が解放されていく。東京の街並みに、身を任せる。夜の東京は孤独に寛容だった。どれだけの人が通り過ぎても、優しい言葉の代わりに、都市の明かりが秀平を包んでくれた。
美咲とスタート地点に決めていた二重橋から、仕切り直して軽いペースで走り出す。つい先日までコートやダウンがなかったら凍えていたのに、もうすっかり季節は春だった。風が全然違う。穏やかで、涼しくて。風は、クラスメイトみたいな距離感で、つかず離れずそこにいる。流れる風景に足音を刻んでいく。冬から春。季節が巡る。今日という一日は儚い。瞬間瞬間を黙々と走っていく。真面目に、自分なりに働いてきた。それが、何かいけなかったのか。うるせえよ。秀平は、再びざわめいてきた心と今度は正面から対峙する。叫びたがっている心を抱え、走る。走る。まるで叫びを走りに変換するかのように。出力する。あああぁっ。ペースを無視しためちゃくちゃな走りだと、美咲が見ていたら言うかもしれない。短距離走みたいで、いつ倒れるかわからないような不格好な姿で風を切った。今はただめちゃくちゃに走りたかった。気象庁を目印に左へ曲がる。早くも肺が潰れそうだ。明日も仕事だからやめとけって、自らの声が聞こえる。もう一人の自分が叫ぶ。冗談じゃねえ。皇居の東側、平坦な道。ストレート。もっと。キツかろうとスピードは下げない。壊れそうな身体を、繰り返してきた地道が、弱弱しくも確かに支えている。続けてきた。ここから苦手にしている登りに入る。手を腰にあてて、首は酸素を欲しがって、自然と顔が上を向く。頭が、つらい、しんどい、止まりたいと、純粋な思考をなぞる。汗に混じった感情が、ドバーッと身体の外へ排出される。
首都高の看板が見える代官町の入り口。その手前に大きな桜の木が立っていた。
照明を浴びる桜の花は、白がかっていて淡いピンク色だった。春の象徴は、その溢れる生命力を花びら全開で表現していて、つい美しくて見とれてしまう。
あの桜の下まで走って止まろう。追い風が頬を撫でた。自分の息遣いが、驚くほど大きくて、もはや秀平は、身体全身隅々、細胞の一つ一つまでふんだんに使って呼吸をしていた。そうしないと倒れそうだ。いいや、倒れても。でも、あと少し。あの桜の下まで。目印にした桜の後ろには歩道橋がかかっていた。夜の闇に隠されて、歩道橋の上に人の姿をしたシルエットが動いたように見えた。それはまばたきの合間に消えた。歩道橋の上には誰もいない。見間違いだ。
桜まで、あと五歩。四、三。二、一。
秀平は、最後の力を振り絞って桜の横を止まらずに駆け抜けた。もつれそうな足を叱咤して歩道橋をのぼる。足が上がらない。苦しい、息が。でも立ち止まれない。確かめてみるまでは。まばたきの合間、夜の闇に浮かんだシルエットを瞬間記憶から取り出す。
登り切って、歩道橋の先を、反対側の階段まで見る。ちょうど真ん中辺りに、やっぱりいた。しゃがみ込んだ。二つの影。
えりかーなと、もう一人。おそらく彼女のマネーシャーだ。秀平の鼓動はバクッバクッと飛び出そうなほど興奮している。瞳を見開く。暗闇に、そこにえりかーながいた。
自分がえりかーなだとしたら、代官町入り口から車やタクシーで高速に乗って帰る。根拠のない読みだった。でも、間違ってなかった。さすがに歩道橋の上にいるとは思わなかったけど。歩道橋を渡ってしまえば、皇居ランの周回コースからは外れてしまう。だから利用する人が少ない、車を待つには最適だったんだろう。
本当に会えた──。秀平は美咲に連絡しようと考えた。伝えなきゃ、でもこの局面でスマホを出したら、失礼か。怪しまれるか。変に考えすぎて、身体は緊張と疲労で立ち止まった。
夜の闇に慣れてきた瞳が、彼女の姿を映し出す。疲れ切って心拍が速いから、こんなにもドキドキするのだろうか。本当に、現実に、彼女はいたんだ。秀平が生きる、この現実に。可愛いとか綺麗とか、思い浮かぶ形容詞の色々は、言葉にしてみたらチープになりそうでやめた。追い抜くとか追い抜かれるではない。秀平はえりかーなを見ていたし、えりかーなは秀平を見ていた。秀平は、用意していた全てを忘れてしまっていた。
「あの、何か……?」
隣にいた女性マネージャーが、黙ったまま息を切らし固まっている秀平へと声をかける。
「いえ、何も」
仏頂面で反射的に返して後悔した。第一印象!
「そう。じゃあ、行きましょう」
マネージャーはえりかーなの手をひき、こちら側へ歩いてくる。歩道橋の下にハザードランプが点滅した黒塗りのワゴンが止まった。彼女たちはあの車で帰るのか、次の仕事へ向かうんだろう。
何を言っても、彼女の現実に俺がこの先関わることはないんだから──秀平は俯いたまま拳を握りしめた。実家の狭い部屋で独り、彼女に背中を押されたあの日。そこから、今日へと、繋がっていた。弱々しくも、確かに。ずっと抱えて走っていた、今までの自分を。皇居ランを何周もしながら引きずりまわした。
言えよ! 過去も、未来も、自分は今ここにいる。
鼓動が、血液が、細胞が。桜の花びらが舞い散る瞬間すらも愛おしい。巡っている時の中に憧れの彼女もここにいて。
スローモーションのように、えりかーなが秀平の横を通り過ぎる。
数万個のワードを脳内で思いつくままに並べても、えりかーなに本当に言いたいことは瞬時に見つからなかった。思いだけが焦って、去り行く彼女の後ろ姿をただ茫然と見送った。
俺は馬鹿だ。空っぽな心身は、吐き切った呼吸みたく、ただ世界へと開かれていた。
美しい景色が巡っていくのを堪え切れず、一声、待って、と。秀平は後ろ姿に声を放つ。
階段を降り始めていたえりかーなが振り返る。
風景が止まった。自分の言葉がつかまえた。
「ありがとう!」
秀平の裏返った声が夜空に広がった。
声よ、届け。足が震える。手に汗をかく。唇は渇いて。それでも声を出す。
「いつも、頑張ってくれていてありがとう。SNS更新してくれて、ありがとう。笑顔でいてくれてありがとう」
出てくる言葉を出来るだけ──ずっと孤独だった。また、人に裏切られるんじゃないかと思った。転職前の出来事が脳裏に何度も浮かんだ。丸の内専門求人社に入っても、どこか脅えていた。仕事さえ出来ていれば大丈夫、でも出過ぎるなと、いつもブレーキを踏んでいた。
休憩中、SNSをチェックしたり、帰ってネットドラマをつければえりかーながいた。憧れは、裏切られることはなかった。一方的な思いだからだ。でも、えりかーなの笑顔を見て元気が出た事は、秀平にとって大事な現実だった。ありがとう。本当に。
それが直接言えた。充分だった。
「こちらこそありがとう」
秀平は耳を疑った。えりかーながぺこりと頭を下げる。
十メートルほど離れた場所で彼女はほほえんでくれた。
秀平がずっと追いかけてきた、笑顔だった。
こみ上げる嬉しさが爆発して、秀平も表情を崩した。
『あれ、女優のなんとかじゃね?』
『なんとかって誰だよ』
『おおー、マジだ。智衿かなじゃん』
『やべえ可愛すぎなんですけど』
四人組の男が階段下付近を歩いていて、えりかーなに気付いた。きっと話しかけた俺のせいだ。金や赤に髪を染めた二十代前半の若者たちは、手にチューハイや缶ビールを持っている。マナーの悪い花見客が、こっちまで歩いてきたのだろう。えりかーなとマネージャーは明らかに困惑していた。四人組は通路を塞ぎながら階段を上りはじめる。
『一緒に飲みませんー?』
『いや、マジさすがに飲まねえべ』
『握手くらい、良いっしょー。オレ大ファンなんで』
『おまえファンだったのかよ』
『つか知らねーよ、この人有名なの?』
なんだよそれ、ゲラゲラと品のない笑い方をする若者たちを見て、秀平は駆け出していた。えりかーなたちを守るように前に立つ。秀平は歩道橋の向こう側を指さした。
「反対側」
えりかーなの表情は硬い。伝わってないんだろうか、マネージャーに目配せすると、彼女はわかったと言わんばかりに頷いた。行きましょうと、えりかーなの腕を掴む。
えりかーなと目が合う。至近距離。憧れの、そしてもう、会うことはない人。
若者たちが事態を飲み込んで駆け上がってくる。四人。止められるか。
秀平は視線の先、歩道寄りにつけてあったワゴンから屈強な男性が降りてきたのを捉える。
「行って」
秀平は盾となり二人を逃がす。
『いやおまえ誰だよ』
『邪魔! どけよ』
怒りをこっちに向けた赤髪の男が、秀平のジャージの裾を引っ張る。
うるせえな、俺はもうとっくに体力の限界なんだわ。全身の力がフッと抜けて、秀平は男に覆い被さるようにして、階段を転げ落ちた。
転がる最中、ワゴンから出てきた屈強な男が若者を三人、投げ飛ばしていたのを視界の片隅で見た。
「おーい、君たち何してるんだ」
皇居周辺は言うまでもなく、厳重な警備体制が敷かれている。女性ランナーも安心だ。
近くの交番から迅速に警官が来て、秀平も安堵した。えりかーなたちは逆側の道路に出て、走っていた。遠目にもわかるくらい、速い。ランナーとして出会っていたら、間違いなく抜かれていただろうな。秀平は、アスファルトに寝そべって笑った。落ちた拍子で身体の節々が痛かった。夢じゃない。見上げた夜に伸びる桜の枝が、風に吹かれて花びらを落とした。桜色に染まる地面から、えりかーなはもう見えない。心地よい夜風に身を任せて秀平は目を瞑った。
***
桜という花はズルい花やなあと美咲は思った。
一年の内、数日間だけを、圧倒的なピンク色で灰色の街を覆いつくす。
ドラマチックやん。耐え忍んだ冬の後、ってのがまたええな。
せやねん。心が萎んでいる時、元気がない時ほど。儚さを含んだ可鈴な容姿に心を動かされる。秀平さんにとってのえりかーなも、きっとそういうことやねんな。
チクチクした気持ちを、美咲は長い溜息とともに吐き出す。
なんだかなあ。家の外でモーニングでも食べようと思い立ち、歩いてみたもののそのまま丸の内まで出てきてしまった。たいして化粧もしていないから、知った顔には会いたくなかった。キャップを目深に被り歩く。
しかし、美咲の心配は杞憂で終わりそうだった。
週末の丸の内は、平日の顔とは違う顔を見せる。東京駅周辺は観光客しかおらんし。スーツの集団は、一斉にどこかへ消えてしまったみたいだった。真っ黒くろすけみたいに。
あの日、私はえりかーなの手をつかまえて。起き上がって言ったんだ。
「私の、先輩の話なんですけど。少しだけ良いですか」
智衿かなは頷く。小動物みたいな愛くるしい顔。小さい顔。
「その先輩めっちゃ真面目で、でもなんかいつも楽しくなさそうで。常に自分の世界にいてるっていうか、心開いてないっていうか。会社でも、誰かと話していても、いつも一人、みたいな。うん。それが心地よいのかなって思ってたんですけど。あるきっかけで走るようになったんです。ビビるくらい遅いんすよ、その人。笑っちゃって。肩なんかもうこんなん上がっちゃって」
美咲が大げさに肩を動かすと、えりかーなが微笑む。可愛いな。
「一度走って懲りたやろって、思ってたら。また走るって言うんですよ。ウェア一式揃えちゃって。目的がないと継続しませんよ、って言ったら。あるって言うんですよ。会いたいって。あなたに会いたいんだって言うんです。ドン引きですよね。不純な動機で、ガチランナーに失礼でしょ。まあ、しゃあないから一緒に走ってあげるかって。暴走したら困るし。ほんなら走りながら思ったんです。人って何かそれぞれ大小荷物を抱えながら、それぞれのペースであがきながら走ってるんだ、って。これだけの人に囲まれて、走りながら実感しました」
皇居ランをしながら美咲も走ることの興味や奥深さへと足を踏み入れていた。
「智衿かなさん、あなたのおかげです。ありがとう」
えりかーなはキョトンとしている。
「あなたの言葉や行動が、秀平さん──先輩の背中を押したんです。きっと、同じように励まされている人が、もっともっとおるんやと思います」
「ありがとう」
小さく照れるようにしてえりかーなは笑った。
美咲は、彼女の仕草に胸が熱くなった。
東京に来たらおもろい事がたくさんあるんやろな。漠然としたイメージだけで上京してきた、私はアホやと思う。
唐突に大阪の母から電話がかかってきた。
「うん、うん。元気やで。ほんま? 仕事はぼちぼち。ああ、こないだ。女優の智衿かなに会うたで。お母さん知ってる? 知ってんねや。笑える。おお、可愛いって、うんまあ私とどっこいどっこいちゃう? いや否定せえよ」
母はしょうもない会話でころころと笑っていた。
「えっ? 東京がおもろいかって。どうやろな、まだまだ知らん所ばっかりやし。これからちゃう? せや、だから当分おるよ。ええ人? なんやねん、うっとうしい。ほな切るで」
用事ちゃうんかい。
美咲は、丸の内にある大型書店へと入っていった。本屋には久しぶりに訪れた。
「あっ」
漫画コーナーにでかでかとしたPOPが置いてある。美咲は嬉しくなって駆け寄った。
『主演・智衿かな、気まぐれランナウェイ』大人気ドラマ放送中!
文藝、雑誌、哲学、歴史、科学、芸術、絵本、健康、暮らし。美咲は心に引っかかる何かを求めて、棚から棚へと彷徨った。あの日、えりかーなと走り競った瞬間。血が沸騰したような感覚で、美咲にとって『おもろい』とはまさにあの瞬間だった。生きている。生きている。身体が踊り出すような、心が弾んでいるような。ほんまもんの感覚。
どこに行けば手に入るん。何を知れば手に入るん。
東京に来たら、何かが変わる気がした私は、今東京のど真ん中にいる。
グレーのスーツに身を包んだ集団にもまれ、無意識のうちにそれっぽく同化していた。東京は、私の欲しがったものを簡単には与えてくれなかった。灰色の街に、ピンクの桜が咲き乱れると、東京は違った一面を見せた。クールで距離感を保つ、真面目な街の東京が、照れ笑いをしたようなピンク色になった。
人も街も、色んな一面がある。
美咲の足が止まる。そこは『写真』の本コーナーだった。おもむろに、数冊、気になったものをパラパラとめくってみる。
生命の一瞬の輝きを切り取ることができたらどうだろう。嬉しい、かもしれない。時に背中を押され、もがいたり戦ったりすることの、瞬間瞬間を自らに刻み続けていたかった。そうだ。美しさには命があるから、スタートとゴールがあるから。永遠じゃないから。
外の桜は散り始めている。東京の表情が刻一刻と変わる。
変わっていく。巡っていく、その瞬間をつかまえたい──自らの心が動いていくのを美咲は感じていた。
***
「私は、私の感情に従ってく。それだけはもう決めたことだから」
画面の中、えりかーな演じる森風香が海に向かって叫ぶ。『気まぐれランナウェイ』風香は現実から逃れようと、日本列島を南下して沖縄へ旅をした。追いかけてくる、家族やしがらみ、過去の自分から逃れるために。
だけど──何処まで行っても、自分は自分なのだ。
秀平は、相変わらず走っていた。えりかーなの動向も逐一チェックしている。彼女は、ラジオの終了と共に、皇居ランには来ていないようだった。そもそも、こないだみたいに絡まれる危険性もあるわけで。仕方のないことだった。すっかり着慣れたウェアに袖を通すと、暖かさを感じる。もう少ししたら半袖を買ってもいいのかもしれない。腕まくりをしてシューズの紐を結ぶ。自宅から東京の街へと一歩を踏み出す。
通り過ぎる人の顔をいちいち覚えていないのと一緒で、世界の隅々まで記憶しておくなんて到底無理な話だ。嫌な事ばかりを覚えていたこれまでを、少しずつ手放していけたらいいなと、走りながら秀平は思う。走る、逃げる、追いかける。止まる、認める、許す。誰しも今までの人生を背負いながら生きているということに、それぞれ人はもっと無頓着でいて寛容になっていいのかもしれない。走っている時、秀平には走っている瞬間しかなかった。
こないだ塚元美咲から、写真を撮らせてくれと連絡が来た。
「この春に走ったこと、えりかーなを追いかけたこと。何十年か経っても、私覚えてる自信あるんですよ。いやほんまに。でも秀平さんは忘れちゃうんやろなって思って。いやいや、冗談ですって。記憶って曖昧じゃないですか。だから写真に残してみたいなー、なんて」
あの日、えりかーなの背中を押した。彼女の背中は、きっと一般的な二十二歳のそれで。たくさんの期待や誹謗中傷をひとえに背負っているようには思えないほど華奢だった。
「別にいいけど」
秀平が返すと、美咲は喜んだ。
「ありがとうございます! あと実は秀平さんに話したいことあって」
「へえ。実は俺もなんだ」
えりかーなに会った、って言ったら驚くだろうな。あの日のリアルは日に日に薄まっていって、美咲の言うように忘れてしまう日が来るのかもしれない。だけど、走るという行為が秀平にあの日のリアルを忘れさせない装置になっていた。フィジカルに刻まれた記憶や匂いは、きっといつでも取り出せる。待ち合わせの二重橋まで黙々と走ると、スーツ姿の会社員が多い、平日の夜だった。スーツを脱いだ自分には相変わらず何にもなかった。街の風景に溶けていくように人の合間を縫って走っていく。何にもない、何にもない。きっと、塚元美咲も、内藤さんも、えりかーなも。何にもない自分と向き合って、戦っている。言いたいことはいっぱい路上に落としていく。走っている。季節が巡る。この瞬間、何かがあるとしたら、自分の呼吸と遠くまで延びている道だった。桜の花びらは、今はもうない。息は空を舞い、月が秀平を照らした。世界の輪郭に秀平は触れていて、境目が解けていくようだった。深い夜に踏み出す。不思議と怖さはない。今日は自分の弱さを認めていける。えりかーなと会って、これから何を目標にして走るのか。わからない。目標とか夢とか。ただ、世界との距離が曖昧になる、今此処で。秀平はきっと、その手で全てをつかまえている。世界は此処にあって、気付いたときに、鮮明になった。
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