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今日、最高のビールを君と。

 「しゃあせー」
 店長の『いらっしゃいませ』の後に、私の声が続く。

 入口を見ると、ノリさんが被っていたベースボールキャップを脱いで会釈した。
 彼の浅黒く日焼けした肌は肉体労働の証で、白いTシャツとのコントラストが際立っていた。
 ノリさんは今日も疲れた様子で、定位置の左奥にあるカウンター席へ腰かけた。

 「生ビール」
 ノリさんが口を開くのと同時に、店長はグラスをサーバーへとつける。
 店長が注ぐビールの液体と泡のバランスは、いつも最高だ。
 バイト半人前の私には、あんなに綺麗に作れない。
 「あいよ」
 店長はコースターをカウンターへ滑らし、ビールを置く。
 「お」グラスを傾けるとノリさんの髭だらけの口元へビールは運ばれる。
 冷えたグラスに注がれた液体は照明に照らされて光ってみえた。
 彼は淡々と、独り言のように「美味いねぇ」とこぼした。
 そしていつものように、モニターに移されたプロ野球ナイターを眺める。
 いつものように、アイさんが店に来るのを待ちながら。


 新型コロナウイルスの影響で、私がバイトしている『スポーツバー満天』も開店以来の危機を迎えたらしい。
 らしい、というのは世界が危機的状況だからといって、一大学生の私にとってバイト先の危機なんかどうでもいいし、正直百年単位で考えたらそんなの全然起こり得るっしょって感じなのだ。うん、そう思っていた、昨日までは。

 「あれ、店長。給料間違えてますよ」
 満天のバックルーム、私は受け取った封筒の中身を見て店長に言った。
 四万ほどしか入っていない、林さんか高頭さんのだろう。私は週4で働いている。
 店長はしばらく間を置いた後、宙を仰いで目を瞑った。
 「ごめん。それが、今うちが亜矢ちゃんに払える精一杯の額なんだ」
 店長は勢いよく頭を下げ、その拍子でテーブルに盛大に頭をぶつけた。
 そっちの方が心配で、言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
 「いやいや、え? えーと。私一人暮らしで、あの家賃とか、あるんですけど・・」
 「本当、ごめん!」
 ゴッ、と店長の前頭部が直撃する音が空しく響いた。

 これが、命と経済のバランスなのか。
 と、私は愕然とするなかでニュースの出来事と自分が直にリンクしていくのを感じた。
 そういうことね。
 売上-固定費=利益。
 売上ダウン=固定費カット=私、給料下がる。
 大人になるってこういうことだ。私は悟りました。

 どうする亜矢。
A・今日限りで辞めさせて頂きます。
B・割の良いバイトをキョーコやさとみに紹介してもらう。
C・still 現状維持。

C.
 OK、Cね。現状維持、って!どうしたの私。
 まあ、店長にも一から教わってお世話になったし、このバイトで色んな大人に出会えたことが私にとってかけがえのない財産になっている気もしなくもないし・・
 「ようは、売上を上げれば良いってことですよね」
 ねえ店長! と私はテーブルを叩く。
 店長は気圧された様子で、まあそうだけどと弱気に言う。
 コロナ禍になってから満天の売上は約三割落ち込んだ。
 でも、元々常連客で回していた店だ。つまりこの状況下で外に出ていない人がいる。うちに来ていない人がいる。アイさんも、その一人だった。

 アイさんは満天にとって上顧客であった。
 彼女(彼?)はあっけらかんとしたトークと誰彼構わず隙を見せる大人の余裕や色気があった。アイさんはいつだって場の中心にいたし、いつだって主役だった。
 赤いワンピース、シャネルの財布、背は高く金髪のボブヘア。彼女は彼女自身でいるだけで他者にはないオーラがあり華やかだっだ。
 彼女はお酒が入るとよく毒を吐くのだけれど、その言葉一つ一つにはどこにも嫌味がなかった。今思えば、彼女の根底には人に対する大きな愛情があったのかもしれない。
 私も含め満天のスタッフ、お客さんはみんなアイさんが好きだった。

 なのに、彼女は消えた。

 1月───

 「ビールちょうだい」
 アイさんに言われ、私はビールを注ぐ。
 少し泡が多めのグラスを見て、アイさんは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 「まだまだね」
 「すみません」私の平謝りを、アイさんは大人の余裕で受け流してくれる。
 「ねえ、亜矢ちゃん。最高のビールって何だと思う?」
 「最高の、ビールですか?」
 「そう。最高の、ビール」
 「うーん、キリンですかねえ」
 「アハハ」とアイさんは膝を叩いて笑った。「そういうことでなく」
 「ほら、よくノリさんは仕事の後の一杯が格別だって言うじゃない」
 ノリさんとアイさんは互いに馴染みの客の為、満天でよく一緒に呑んでいた。
 「あ~、そういうことですか。わかりました。一か月禁酒して、解禁したときの一杯。どうですか?」
 「それはダメね。期間が長くてお酒の味を忘れちゃうわ」アイさんは肩を竦める。
 「そして何より、一か月も禁酒できるわけないし」
 「ですよね~」私もすかさず同意する。

 「まあしかしこれはこれで美味しいねえ」
 アイさんは私が淹れたビールを皮肉たっぷりに褒めた。
 こういうところが憎めないのだ。

 「何の話してんの?」
 よっ、と片手を挙げノリさんがカウンターへ座る。
 私は冷えたグラスを冷蔵庫から取り出し、サーバーへ向かう。
 「最高のビールについてですよ、ねえアイさん?」
 「おっ、何なに。ついに亜矢ちゃんも上達したのかい、ビール」
 「何ですかついにって!」
 言ってるそばから目線が手元から外れて液体が溢れ出てしまう。
 「うわっ」
 ノリさんとアイさんの声が揃う。
 「ちゃんとやり直しますから!」
 笑い声が聞こえたけど、私は手元に集中する。

 「最高のビールな、俺一回だけ飲んだことあるわ」
 ノリさんは今夜一杯目のそれを、うめえと言いながら飲み始めた。
 「あんた、なに。労働後の一杯じゃないわけ」
 アイさんがブラックペッパーを振ったレッドアイをオーダーする。
 「それはそうなんだけど、最高の一杯の為には、ある条件がいるのさ」
 ノリさんは言葉に含みをもたす。

 「その条件って言うのはな──」


 8月────

 雨が多かった7月とは打って変わって、夏らしさ全開の日々が始まった。
 40℃に迫る毎日を過ごすだけで干からびてしまいそうだった。

 外食は控えましょう。東京都は一括りにされた、たまらんなあ。

 「アイさん、どこで何してるんですかねえ」
 カウンターに座るノリさんがポツリと返事をする。
 「さあねえ」
 新型コロナウイルスが世界に蔓延した2月下旬ごろから、アイさんは満天に姿を見せなくなった。最初は、仕事が忙しいのかなと思っていたが(アイさんは自称カリスマ美容家だった)数週間が経ち、どうやらおかしいぞと思い始めた。

 「なあ亜矢ちゃん。最近アイちゃん来てる?」
 3月のある日、ノリさんも同じ風に思ったのか、唐突に聞いてきた。いえ、と首を横に振るとノリさんは残念そうな顔になった。
 「行きそうな飲み屋は全部あたってみたんだけどさ。どこにも来てないらしいのよ」
 「え、そうなんですか? 何かあったんでしょうか・・」
 病気、事故。色んな可能性が頭の中をぐるぐると回る。まさかアイさんに限って。
 「いやいや、やめよう。まさかそんなワケ」
 気付けば卓上のビールは温くなり、ノリさんは慌てて口に入れた。
 ゆっくりと喉元を過ぎる液体は、心なしか渇きを満たしてはくれなかった。

 そこから、4月5月とスポーツバー満天は新型コロナウイルスの影響で休業となった。
 私は大学も休講となり、家での生活(主にYouTubeと映画DVD三昧)を謳歌した。
 6月のある日、満天は周りを気にしながら短時間での営業を再開した。
 お客様も、世間との歩調を合わせながら徐々に、店へと戻ってきてくれた。
 私は、お酒を交わしながら、スポーツを観たり、恋愛や仕事の話をしたり、一人でカウンターで考え事をしたり、各々がそれぞれに楽しんでいるこの空間が好きだと思った。

 乾杯。分かち合う。今日一日の良かった事。ムカついた事。嬉しかった事。あれやこれも。

 『最高のビールを飲むにあたっての条件は三つある』
 美味しいビールを頂くのではない。ビールは、既に美味しい。そのビールたちを、どうやったら最高に美味しく飲めるか追求するのだ。
 毎日ビールを飲み続けているオジサンにこう言われると不思議に説得力がある。
 「俺はその美味しさのルールを三つ、発見した」
 ノリさんはニヤリ、と笑う。
 「一つ目は、乾杯だな」
 最高のビールを飲むためのルール、一つ目は『乾杯』。
 私は忘れないように脳内にメモする。
 ノリさんは次々に酒を胃袋へ収め、まるで何かを忘れようとしていく。

 「亜矢ちゃん、俺がなんでこの店に来ると思う?」
 赤ら顔のノリさんは、真面目な面持ちを作ろうとし、結果片方の眉だけ吊り上がった阿保な顔になる。酔っぱらうと、話や動作のディティールに自分は酔ってないですよという意識を過敏にし、結果失敗する。

 「さっきのルール、一つ目は、何でしたっけ?」
 意地悪でノリさんに聞くと、
 「一つ目はアレだ。インスピ、えーとあれは日本語で確か」
 「インスタ?」
 「いや違うtik tokだわ。もうコロナだし俺もアレで飯食っていこかな」
 「どういうこと?」
 酔っ払いを相手にするとたちが悪い。

 横で店長が、「記憶は連続性を伴う場合が大半だがそうじゃないという説もある。
我々は、瞬間瞬間を生きてそして死んでいく。
さっきの会話と今の会話が繋がっていくなんて、一体誰が立証できようか!」
と息をまく。顔が赤い、飲みすぎだバカ。

 「とにかく、店長亜矢ちゃん乾杯。コロナ馬鹿野郎、今日も最高!ビール美味い乾杯!」
 こうして今日も夜が更けていく。
 平和に終わる一日を愛おしく感じる為に、私はグラスを傾ける。


 「で、二つ目は何ですか」
 外のうだるような暑さから逃げてきたノリさんは、柿ピーを口の中で大げさにボリボリと噛む。
 眼はうつろにモニターを見ている。
 巨人対阪神戦が流れていた。
 『打ったァァ、坂本二塁を蹴って三塁へ!』
 「うしっ」ノリさんは右手を握りしめる。
 「ねえ、聞いてますかぁ?」大きな声を出す代わりに彼の視界に入って手を振る。
 「え、なんだっけ? じゃあ次も同じの。ビールね」
 「違う。そうじゃなくて」
 私は気になっていたのだ。最高のビールを飲むための三つのルール。
 その残り二つが。

 「二つ目はアレだ。しばらくのあいだ、満たしてるよ」
 何だ、聞いていたのか。ノリさんは打席に入る丸選手から眼を離さない。
 「どういう意味ですか? しばらく満たしているって」
 「それは亜矢ちゃんが考えてよ」
 「えー、じゃあ三つ目も! ヒントくださいよ」
 「ヒントなあ・・・・」
 『丸、打ったァァー!! ライト方向、打球はぐんぐんのびるっ、のびる!!』
 ワアァァァッ、歓声が聞こえる。ホームランだ。ノリさんも身を乗り出した。
 「あれっ?」中継を見て,私は自分の目を疑った。アイさんがいた。
 「今、アイさん映ってませんでした?」
 「どこ?」「ライトスタンド」
 ホームランのリプレイ映像が流れる。ボールがスタンドインしたところに、アイさんがいた。黒いサングラス、金髪のボブ、赤いワンピース、うん間違いない。
 「ほらっ、やっぱり! ノリさん」
 「何してんだ。まったく」
 ノリさんはポケットからクシャクシャの千円札を数枚取り出し、私に渡した。
 「あれ、試合まだ途中ですよ」
 「ドームまで、ちょっくら乾杯しに行ってくらあ」
 「ああ、なるほど」
 私も行きたいなあ。アイさん、何で東京ドームにいるんだろう。
 「試合、勝つといいですね」
 ノリさんはそうだな、と間をおいてから
 「勝ち負けだけ観てるとつまらなくなるよ、亜矢ちゃん。ビールも同じ。美味しいか美味しくないかだけに捉われると、途端につまらなくなる」
 と、オジサンは思うなと言った。
 「その言葉、素面でもう一回言ってくださいね」
 私は彼の背中を見送る。
 「どうかな」照れ臭そうに頭を掻き、ノリさんは夜の東京へ消えていった。

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