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うず

 嫉妬の心は彼岸より生ず。平等を得ればすなわち嫉妬を離る──空海

 高速バスの車窓から鳴門海峡を望むと、潮の流れがごうごうと激しさを増していた。渦潮が見えるかもしれないな、と身を乗り出すと、窓側に座っていた会社員風のおっさんが露骨に嫌な顔をしたので、すぐに止めた。
 大鳴門橋を越えると、空気がガラッと変わる。夏の徳島は、やっぱり良い。突き抜けるような青空がどこまでも続いている。なんばから徳島駅まで約二時間半の道中で、デニムのショートパンツに入れているスマホが震える。リサだ。
 「帰って来るの今日やんな? 店予約しといたから」
 「せやで、今バスの中。ありがとう」
 返信、早すぎたかな。いや、元カノと会うだけで何気にしてんねん、と自分に言い聞かす。
 リサからすぐにOKのスタンプがきた。
 ウサギが親指を立てている、その絵だけでも少なからず心が踊ってしまう。
 
 「夏休み、そっち帰るんやけど飲みにいかへん? 別に深い意味はないんやけど」
 今年は大学四回生、最後の夏休みだ。ぼんやりと、怠惰なままに過ごしていても大人になる。漠然とした未来への焦りに反比例して、就活に対するやる気は爆発的に消えていった。我ながら恐ろしい。大学の友人は皆口を開けば就職の話だ。内定が出たヤツが一人一人とゲームから上がっていく。息が詰まり、呼吸困難な時に思い浮かんだのが地元の海や空だった。
 リサとは高校以来になる。俺は大阪にある大学、彼女は徳島の四年制大学に進んだ。別々の道を進む事が、一年ほど続いた交際を終わりに向かわせた。卒業してからは会っていない。
 少し迷って「別に深い意味はないんやけど」の部分を消して、メッセージを送信した。逆に意味ありげやなと捉えられてしまうかもしれないからだ。
 「いいよー」
 返事がきて飛び跳ねる。俺は思うんだけど、この歳で世界平和や環境問題へ取り組むヤツがいたらそいつは絶対偉い。けど、恋愛に勤しむのだって健全やんな。

 徳島駅に着く。約束の時間まで駅周辺を散歩して潰すことにした。母さんには今日は遅くなると伝えている。二人で眉山から夜景でも見られたら最高なんやけどな。淡い期待に足取りは軽くなる。
 徳島の夏は、盆と阿波踊りが同時に来て忙しい。毎年、町中が熱に浮かされたようなテンションでその日を迎える。例年通りに祭りの準備が行われているのを横目に見ながら、東新町商店街にある大衆居酒屋へと入った。店内は焼き鳥の美味そうな匂いと熱気が充満していた。そこかしこにある扇風機がくるくると回る。
 「カズマ、こっちこっち」
 リサが奥のテーブル席から手を挙げて俺を呼んだ。
 「久しぶり。元気しとった?」
 リサは花柄のワンピースを着て、茶色の髪をお団子にしてまとめていた。当たり前かもしれないけどメイクもしていて、昔よりも数段大人びていた。
 「おお」緊張で声が上ずってしまう。喉もからからだ。
 俺はすだちハイボールを、リサはカシスのカクテルを頼んだ。
 「わたしたちも大人になったねえ」
 高校生の時、こうして居酒屋で乾杯している姿なんて確かに想像つかなかった。いつだって目の前の事で精一杯なのが青春の特権なのかもしれない。リサは言う。「卒業してもそのまま大阪おるん?」
 彼女は慣れた手つきで串焼きの盛り合わせを取り分ける。飲み会とか、行くんやろか。行くよなフツー、大学生やし。
 「おれ、東京行こかな。大阪も好きやけど」
 「へえ東京。すごいね」
 「せやろ」
 「やりたいことがあるんだ?」
 「なんかな、大阪にDJの友達おんねんけど。そいつが言うには、東京の方が市場規模も大きいし。やっぱ西と東って全然ちゃうねんて。それ聞いてたら一度きりの人生やし、東京でてっぺん目指さなあかんなって思てん」
 「男の子って感じだね。ほんなら就活はしとるんやろ」
 じいっとリサはこちらを見る。視線を合わせられずに、箸でジョッキの中のすだちを潰す。
 「すだち美味いわ。マジ大阪にもあったらええのに」俺は聞く。「リサはどうなん」
 「決まったよ。来年からは市内で塾の講師」二杯目のサングリアを掲げて彼女は言う。
 「平凡なわたしの人生に、幸あれ」
 
 SNSでフォローしていると久しく会っていなくてもそれを感じない。
 別に話していなくても、リサが国際文化を専攻して、台湾へ留学に行ったり手話のボランティアサークルに入っている事など、何となく知ってしまっている。本当に知りたい事は何一つ聞けないのに。
 「バスケは最近してへんの」
 リサの質問に眉がピクッと反応してしまう。
 「せやな」
 「勿体ない、カズマ上手だったのにね」
 「たまにやるくらいでちょうどええ」
 大阪に出て、バスケが上手いやつもイケてるやつも、世の中には相当な数いるって分からされた。高校まで部活しか真面目にやってこなくて、一体何が残るだろう。惰性で大学に入った俺は空白を埋めるように時間を過ごした。ボウリング、カラオケ、即興ラップにパチンコ。煙草やら酒やらで、オール明けの一限。楽しいはずのキャンパスライフなのに、何をやっても「この時間は何だろう」と思った。ウエーイと乾杯をしながら冷めたもう一人の俺が、何がウェーイやねん。もっとマシな返しせえよと言う。
 「オール3より、ほとんど1だけどダントツ飛びぬけた5が一つあるほうがええよな」
 「え、何が」
 「通知表の話」
 「だったらオール3、のほうがいいんじゃない。誰もその5が学年一だろうが世界一だろうが分からないよ。せめて書いてくれないと」リサは淡い色のグラスを傾ける。「5はただの5として扱われる」
 バスケをしていなかったら、世界一の5に出会えただろうか。四年間も棒にふらずに済んだだろうか。足元が揺らぐ。店内の古いテレビでは、昼に行われた甲子園のハイライトを流していた。球児たちの夏は順番に終わる。ただ、それぞれに人生は続くのだ。
 卓上に置いてあったリサのスマホが光る。
 「もうすぐ、ノブくん着くって」
 「え、聞いてないで」今日はサシ飲みだと思っていた。
 「ほんま?」
 「リサ、あいつと連絡とってたんやな」
 「うん。大学一緒やし。学部違うけど、たまに授業でも会うよ」
 「ふぅん」
 ノブとはバスケ部で三年間一緒だった。華奢なわりに背は低くて坊主頭だし、まあイケてない。チームでは、ベンチを温めるイジられキャラだった。

 「遅れてごめん」
 言うてる間に、ノブが入口から小走りでやって来た。少し日に焼けているけど、四年経った現在でも坊主頭で、外見はさほど変わらない。
 「ういっす」
 「おおーカズマぁ。相変わらず爽やかやな」
 ノブは俺の隣に座り、生ビールくださいと店員さんに伝えた。
 「おまえも変わらんなあ」それとも、出来上がった関係性がそういう風に見せているのか。
 「やーしかしリサちゃんは綺麗になった。迂闊に校内で話しかけられへん」
 「ほんま? そんなことないよ」ねえカズマとリサに訊かれ、しどろもどろになってしまう。
 「大阪やったら恥ずかしいで」適当に濁せばええのに。止まらず俺は喋る。「心斎橋から道頓堀歩く間に十人はいてるよ、リサレベルなんて」綺麗な人に、綺麗ですねと直球で言える人はアホか、もしくは悪人やと思う。
 そんなことないやろ、と言うノブが話を変える。
 「カズマ、俺明日からな。お遍路さん行くねん」
 「え、お遍路って。歩き?」
 遍路──四国にいないと耳にしない、懐かしいワードだった。
 「いや、チャリで行く」
 お寺を八十八か所巡礼、四国を丸一周する行程だ。
 「旅行ならハワイとか他にあったやろ」
 「ハワイは去年、行ってん」
 「腹立つな」
 「あはは、でも私は興味あるな。行けって言われても行かないけど」とリサは言う。
 「だいたい二、三週間くらいやねんて」
 「いや、それより何で行こうと思ったん?」
 「何でって、うーん。行ってみたいから、やな」
 「あほやろ。だって灼熱やで、そんなん車でパーッと見て回ったほうがええやろ」
 「時短」リサは手を叩いて笑う。
 「わからんけど、チャリのほうが面白そうやん。時間あったら歩きたいくらいやねん」
 「面白いんかそれ」
 貴重な最後の夏休みを、自転車漕いで消費する気持ちは到底俺には分からない。だけど、思い出した。ノブには高校生の頃からそういうところがあったのだ。
 ある日の放課後、部員たちから一人遅れて歩く彼がいた。
 「おい、何してんねん。はよ帰ろや」
 「ん、先帰っててええよ」
 ノブは空を眺めている。
 「なんか、あるんか」
 「いやあの雲、オモロい形してない?」
 俺には至って普通の雲にしか見えなかった。
 「どうみてもかいわれ大根やんな、カズマ」
 いやおもんないし。それでも、ノブにしかわからない面白さがあるのが、何でか無性に羨ましかった。俺は苦し紛れにこう言う。
 「なんやそれ。豆苗じゃあかんのか」
 ノブは空から俺へ視線をゆっくりと移し、ニタァと笑った。
 
 「だいたい寝るとことかおまえどうすんの? それに、三週間も旅行行ったら結構金もいるんちゃう」
 「泊まるのは三日に一度かな。安宿やけど、あとは野宿」
 売れない芸人のドキュメンタリーみたいだ。何になりたいねんと声を上げそうになる。
 「ノブくん、バイトでコツコツ貯めてたんだよ。カズマとはえらい違い」
 「俺も貯めとるし」俺の何を知ってんねん、とリサに言うと、彼女はスマホを手に取り「ホラッ」と見せてくる。それは俺のSNSで、仲間内で花火をしたり、飲み会だったり、海に行った写真たちが載っていた。
 「あんなあ、それは俺の一部分でしかないねん」
 「遊んでばっかりに見えるけど、あえてなんだ?」
 「コツコツバイトしてるん載せてもおもんないやろ、東京でてっぺん取る男が」
 「何のてっぺんかも決まってないくせに」
 何が面白いのか、リサもノブも声をあげて笑った。

 「ここは、ええよ」
 久しぶりの再会は二時間ほど飲み食いしてお開きになった。俺かて、支払いを男がするくらいのマナーは心得ている。が、伝票を確認するとバイト二日分の額に顔が引きつった。
 「いやいや」二人が揃って財布を開く。
 「ええねん。ノブの送別とリサの内定祝いやな」
 正直、何も良くはなかったが払ってしまえば、すっきりと後悔だけが残った。
 「じゃあ私こっちだから」
 リサは手を振って、駅とは逆方向に歩いていく。
 「近くまで、リサ送るわ」俺が言うと、
 隣にいたノブは、どうぞという風に肩を竦めた。
 「ええよ大丈夫」リサは手で制す。「彼氏、そこまで車で迎えに来てんねん」
 あ、そうなんや、と間抜けな声を発した俺は、彼女の後ろ姿を見つめるしか出来なかった。
 「もう一軒、行く?」ノブが俺の肩を叩く。
 「そんなん決まっとるやろ」
 後ろからノブが肩を組んでくる。暑苦しい。
 「次はおまえのおごりな」
 夜風は反対に心地良い。男だけの方が気使わんで飲めるわー、と言ってみる。
 「今夜は俺の送別言うたやん」
 ノブはしゃあなしやで、と笑う。

 夢をみた。
 細い一本道を、俺は急かされるように走っている。
 気が付くと、足元は海に変わっていて、溺れないよう懸命に泳ぐ。
 前方には大きな渦が見える。他に道はない。
 抵抗も意味なく飲み込まれるしかなかった。
 必死にあがいても、流れには逆らえない。水面に顔が出るたびにあっぷあっぷと息をする。
 渦は七色に光り、一つの意思を持った化け物のようだった。
 その中にはおびただしい数の若者がいて、ノブもリサもいた。誰もが懸命にあがいていた。

 『ピロンッ』
 スマホが鳴った音で、目が覚める。昨夜は飲み過ぎた。頭も身体も重い。スマホを見ると、ノブからメッセージが届いていた。
 「今から家出る。霊山寺で会おう」
 霊山寺? うーん何だっけ。頭がのろのろと起きてくる。せや、昨日酔った勢いで、ノブの四国遍路出発を見届けると言ったのだ。ノブは、だったら第一番霊場、霊山寺まで見に来てほしいと答えた。一番でも百番でも行ったるわ、と返した俺に、いや八十八までやからとノブは突っ込んだ。思い返すだけでさぶいぼ。酔うと何もかもが面白く感じるが、素面になると途端におもんなさに愕然とする。死ぬまでにこれをあと何回繰り返せばいいのだろう。
 布団の中で行くかどうか迷っているとノブから、
 「起きてるか?」「きょうめっちゃ晴れ!」など連続でメッセージが来る。
 だる。起きるのやめようかな。
 『ピロンッ』またスマホが鳴る。
 「あーもうしつこいねん!」
 メッセージは、リサからだった。途端、脳内で「シャキッ」と音がした。すぐに既読する。
 「昨日はごちそうさま~。また徳島帰ってきたら飲もうね」
 何やねん、男おるくせに。苛立ちからノブにでも会うか、という気になってきた。
 それに「せやな、次は正月かな。また飲もう!」としか返せない自分にも腹が立った。

 照りつける日射しが目に痛い。タンクトップ一枚でも汗がダラダラと流れてくる。まだ午前中だというのにこの暑さだ。
 「大丈夫かよ」
 ノブは、白衣と輪袈裟に身を包み、頭には竹で出来た笠を被っている。
 お遍路の正装を着ると、いかにも修行中のようだ。
 「昨日は、恥ずかしくて言えなかったんやけど」
 いや、これは罪人のような面持ちにもみえる。一枚、写真に収めた。
 「俺さ。いい会社入りたいし、金持ちにもなりたい。美人のお姉さんとあわよくば付き合いたいし。でもこんなじゃん。徳島で育った田舎者でさー、親父に言われた。おまえみたいな半端モンは社会に出る前に根性叩き直してこいって」
 ノブは大きなバックパックを背負い、水色のロードバイクによいしょと跨った。
 華奢な彼の身体は、少し風が吹くだけでもよろめきそうだった。
 「四国八十八か所ってことは。八十八、寺があるってことだよな」
 「せやね」
 「山奥にあったりするのか」
 「かもな」
 「雨の日も、走るのか」
 「おうよ」
 「こんなクソ暑い日も? 地獄じゃね」
 「毎日曇ることを祈っててくれ」
 「ほんまに」
 「ああ」
 「おまえすごいな」
 「なあカズマ、昔言ってたよな。俺の通知表みて、1ばっかりだから、現代文の5が映えるなあって」
 「そうやったっけ」
 「何やかんや、この世の中はオール5がいたら、そいつらから是非うちへ来てください、って尻尾を振るんちゃうかな」
 「オール5は最強」
 「くそくらえだよな」ノブは口をへの字に曲げて言う。「大人に分かられてたまるかっての」
 あれが欲しいこれも欲しいもっと欲しい、俺達にはきっと足りないものだらけだ。ずっと、それを抱えてきた。
 江戸時代に生まれてみ、今ってめっちゃ贅沢やん。
 そんなん言われたいんとちゃうねん。
 あれもこれも欲しい。でもこれはきっと手に入らないかもとか。
 いくら社会の渦がそこに迫ろうと、己の手触りで感じたいんや。
 その方が確かだってきっと解るから。

 「じゃあ、そろそろ行くわ」
 ノブがハンドルを握る。
 彼はこれから、彼にしかない冒険をするのだろう。それはスケールの大小じゃない。彼だけの物語があるのを、俺はやっぱり羨ましく思った。
 「気をつけてな」
 ノブと目が合う。彼はニタァと笑って言った。
 「グッバイ煩悩」
 俺は、俺だって、あれもこれも欲しかった。旅立つ友に向けて言う。
 「はよ、いけや」

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