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うちの子は自閉症-必要な教えとは何か-

 小さい頃から、時折、育てにくさを感じていた我が子に対し「もしかして普通とは違うのかもしれない」と疑問を持ったのは、彼女が小学校3年生になってからのことだった。

 4月初めの参観日で授業の様子を見ていた私は、手を挙げて答えていく子ども達と娘の答えに乖離と違和感を覚えた。
 正直なところ、そこまで気にしなくても……と言われても仕方がないくらいの小さな違和感だったが、私にはどうしてもその違和感が見過ごして良いと思えなかった。

 どうしてこんなにズレた発言をしているのだろうかと思い始めてから、自宅にいる娘の様子を見ていると、かなりぼんやりしていることに気がついた。
 宿題を始めても、3分も集中できずにぼーっと紙面を見つめている。
 飽きて違うことを始めたのならまだ理解ができた。
 けれど娘はただぼんやりとノートを見つめたまま固まっていたのだ。

 「難しい?」尋ねると、分からないと答えが返ってきた。
 分からない?
 その返答にも困り果てた。
 出された宿題は、漢字の書き写しだからそのまま書き写すだけ。
 それが分からないとは何なのだろう……そう思った。

 2年生で習う九九が覚えられていないことも当時気にかかっていて、いつかは覚えられるだろうと高をくくっていたのだが、3年に進級しても覚えていないことにも不安を感じていた。
 その矢先に続く授業に追いつけていない感に、私は1つの推測を立てた。

「もしかしたら、学習障害かもしれない」

 漢字が覚えられない、算数ができないなどの特定の学習が難しいという方がいると聞いたことがあり、もしかして娘もそうかもしれないと思ったのだ。

 もしそうだとしたら、早くに対応してあげるべきではないかと思い、早々に夫に相談したが、これが大変な事態を招いた。

 「お前は娘を病気扱いする気か!?」

 大激怒である。
 ちょっと調べてみようと提案しただけなのに、夫の逆鱗に触れてしまいしばらく会話もしてくれないくらいに怒らせてしまった。
 今振り返ってみても、そんなに怒る必要ないんじゃないか……と思わなくもないが、当時の夫にしてみれば考えそのものが許せなかったのだろうと思う。

 ちなみに今は、私よりもかなり深く発達障害の分野について勉強してくれ、場合によっては娘の状態について私よりも理解を示してくれている。

 さて、そんな夫をどうやって納得させようかと悩んでいる間にも時は流れ、夏休みが訪れた。
 この長期休みのチャンスをどうにか活用したいと思っていた私は、怒り出す夫を時間をかけてなだめ、ようやく市の運営する相談窓口へ相談に行く許可を得た。

 というのも、夏休みの宿題が全く進まない様子を見て、これはまずいと気がついてくれたのだ。
 全ての宿題を終わらせたにも関わらず、半分以上のページが空白で、いずれも分からないというのだから、さすがに何かがおかしい放置していてはマズいかもしれないと思ってくれたようだ。

 しかし、学習障害を疑う私を夫が理解できない理由も分かっていた。
 というのも、娘は勉強がとても好きだったからだ。
 小学校入学前、ひらがなもカタカナも自主勉強を繰り返し、私たちが教えることもなく全て一人で習得していた。
 漢字も率先して勉強をしていたので、小学校1年の授業で躓いている様子もなかった。

 ところが2年に進級し、新任の先生が担任になってからの様子が一切分からなくなった。
 ベテランの先生から送られてくるほどの情報が、新任の先生から親の私に届いていなかったのだ。
 後に、2年生の頃にも授業中に逃亡したことがあると教えられ、大変驚いた。
 もう少し早く教えてくれていればと思うが、その頃のことを後になって悔やんでも詮無いことである。

 そんな背景もあり、3年生を迎えて授業に追いつけていないことや、トンチンカンな答えを言ってしまうくらいで、障害だなんて……という考えが夫には理解できなかったのだと思う。

 けれど、私はそれ以外にもなんとなくひっかかる点があると感じ、とりあえず相談してみたいと強く思っていた。
 そして初めて相談に行った日はとてもピリピリしていた夫が、いざ診察当日には仕事を休んで一緒に着いてきてくれた。
 相談した日の様子や、対応してくれた方の話しぶりなどを説明するにつけ、夫自身も何か感じるものがあったのかもしれない。

 そうして簡易検査を受け、結果を知った頃には考えが180度変わっていた。
 「早く気づいて良かった。早めに対策してやらんと……」
 人が変わったのかと思うとは、まさしくこのことである。

 夏休みを終え、2学期を迎えるとさらに事態は悪化した。
 授業中に逃亡し、教室からいなくなったのだ。
 どうやら何か授業で嫌なことがあったようで、耐えられずに女子トイレに隠れてしまったと連絡を受け私は愕然とした。

 これまでそんなこと一度もなかったのに……
 さすがにこのままでは危険だと判断し、正式に発達検査を受けたのはその年の冬のことだった。

 結果から言うと、学習障害ではなく「自閉症スペクトラム」に該当するとのことだった。
 正直、勝手に学習障害を疑っていた私にとって驚きでしかなかった。
我が子がまさか……という思いもあった。
 それと同時に「あぁ。だから育てにくいと感じていたのか」と妙に納得する部分もあって、どこかホッとした。
 分からないモヤモヤに、ようやく決着がついた気がした。

 しかし、彼女の状態に名前がつけばゴールではない。
 むしろ戦いは、そこからがスタートだった。

 受けたくない授業があると、学校へ行かないと泣き出す。
 体育の授業でボールに当たったことにショックを受け、フェンスをよじ登って逃げようとする。
 嫌いな給食が出て、ふいに教室を飛び出してしまう。

 異常行動としか言われてもしかたのない行動を繰り返すようになり、電話がかかってくる度に何事かと肝が冷える思いばかりした。
 遠足に出かけたときには、芝生の上に座りたくないとごねて立ったままお弁当を食べたと先生から伝えられ、どう娘に教えるべきか苦悩した。

 学校から求められることが、娘には耐えられない。
 これまで特段困ったことがなかったことが不思議なくらい、次々に色んなことが起こって、私はどうしてよいのかずっと困惑していた。

 そうこうしているうちに、ついに取り返しのつかない事態が起こってしまう。

 コロナ禍に進級し、初めての登校日が6月からという非常事態が日本全国で起こっていた。
 当時私自身も異常な勤務態勢を強いられ、1日おきの出勤で、出勤日は夜中12時に帰宅という日々を繰り返していた。
 誰も彼もが落ち着かない状況下で、家で過ごしているうちはまだ良かったのだが、いざ登校が始まってから子ども達は疲弊し始めた。

 学年が上がり、クラスも変わる不安。
 そして、担任の先生も替わってしまい、子ども達はいつも以上に不安を抱えたまま学校生活がスタートした。
 通常の半数しかいない教室は物足りず、給食を食べることもなく帰宅する毎日に何か違うという感覚が強かったのかもしれない。

 そうしてある日突然、それは起こった。

 「お母さん。娘さんが髪の毛を抜いてしまって……今日は帽子を被らせて帰していますので」

 変な連絡だなと思ったものの、電話を受けたそのときは仕事中であまり深く考えもせず電話を切った。
 しかし、帰宅して大変なことが起こったと気がついた時にはもう手遅れだった。

 頭頂部に3センチ大の円形で髪の毛がなくなっていた。
 朝見送ったときには確かにあった髪の毛が、ごっそりとなくなっていたのだ。
 私は涙が止まらなくなった。
 こんなになるまで何本抜いたのだろうと思うと、どれくらい痛かったのかと想像してしまい涙が溢れてしまう。

 落ち込んでいる娘に、大丈夫、大丈夫と抱きしめて背中をさすってやり、私は娘の様子に気をつけていたつもりだったけれど、「つもり」にしか過ぎなかったとようやく気がついた。

 翌朝、頭頂部をしっかりと覆うように髪の毛をくくったが、結果は惨敗。
 5センチの円になって帰ってきた。
 その翌日は、さらに隠したうえにバンダナまで結んでみたが、どうやっても彼女が髪の毛を抜くのは止まらなかった。

 「あぁ、抜毛症だ」

 以前テレビで抜毛症の特集を見たことがあったなと、ふと思い出した。
 本当にこんなに抜いてしまうのだなと、ただただ驚くばかりだった。
 見る間に、落ち武者のようになってしまった娘を前に、早く治療が必要だと決意し、病院を探した。

 しかし、抜毛治療を専門にする病院などまるでなかった。
 このままでは大変なことになってしまうと思った矢先、また夏休みがやってきた。

 探しに探して見つかったのは、美容室でありながら抜毛症について取り組まれているとある美容院だった。
 そこでは、何千例の抜毛症の症例者を見てきておられ、確かにこの分野に関して詳しいことが分かり、しばらくお世話になった。

 今でも最初の問診日に「これからが戦いですよ。本当に長く辛い戦いですから」と言われたことを思い出す。
 抜毛症は発症してしまうと、爪を噛むなどと同じ感覚で当たり前のように繰り返してしまうチック症状に近い。
 だから、本人の意思が失われている状態で、無意識にやってしまうことがほとんどなのだ。

 怒っても仕方がないと思うからこそ、言い方にも悩む。
 どう伝えれば彼女が苦しまないのか。
 どう伝えれば理解して、抜毛を止められるのか。

 ひとまず完全なストレスフリーにして下さいと言われ、学校を長らく休ませ、自宅でのんびりと過ごせるようにした。
 夜一人にすると抜いてしまうので、両手を私と夫で握り、寝付くまで傍にいて過ごしてやった。

 運動不足にならないよう、休みの日には外へ連れて出かけようとしたがなかなか首を縦に振らない。
 家を出たら友達に会うかもしれないと思うと、怖いと言われたのだ。
 髪の毛がない私を見られたらどうしよう。
 学校に行っていないくせに、外で遊んでいると言われたらどうしよう。

 娘の悩む気持ちも理解できるので、あまり無理強いはできないとまた悩む。
 とはいえ、我が儘を全て押し通すことばかりもできない。
 必要な事はさせるべきだと思うけれど、その確かな基準もないから夫ともさらに喧嘩をする羽目になる。

 誰も悪くないのに、家庭内の空気が良くないと感じてまた疲れる日々。
 けれど、根底はみんな娘が心配で、どうにかしてあげたいという想いが詰まっていた。
 その想いのお陰か、どうにかこうにか家族で協力しながら難関を乗り越えたのは娘が4年の終わりの頃だった。

 自閉症と分かった小学3年生。
 抜毛症になった小学4年生。
 1年1年が重く、今後をどうしていくべきかと悩んで進級した5年。

 学校側でも最大の配慮をして下さり、娘の状態にも理解の深い担任の先生のクラスに入れてもらうことができた。
 一番仲良しの友達と同じクラスにしてもらい、彼女にとっては最大限安心感を持てるだろう環境になった……と思っていた。

 しかし現実はそう上手くは行かなかった。
 泣きながら学校に行かないと言い始める日もたくさんあった。
 学校へ言ったものの、ママの声が聞きたいと電話がかかってくる日はほとんど毎日。
 せっかく教室で過ごしていても、椅子に座っているのが辛いと、教室の端に用意した段ボール箱に隠れて出てこないという日も多くなった。

 ここで私はようやく退職の決意をした。
 長らく勤めた公務員を辞し、彼女のもう少し身近に居られるようにしようと腹をくくった。

 正直、自分のキャリアとこれまで頑張ってきたことを捨てたくない気持ちが、私を仕事に駆り立てていた。
 けれど、このままではダメだとやっと心を決めることができた。

 もし、ここで私が娘のためにやれることをやらなければ、後悔すると思った。
 娘のためでもあるが、自分の為でもある。

 親として、娘にできる事があるのにやらずにいて本当にいいのか。
 傍にいて支えてやれるわずかな時間を、このままだと台無しにしてしまうのではないか。

 毎日が葛藤で、悩みに悩んでいたからこそ、夫が随分と退職を反対した。
 当時はどうしてこんなに理解してくれないのかと腹立たしい思いだったが、今思えば、私を想えばこそ止めてくれていたのかもしれない。

 そして、そんなこんなの戦いの末、私は17年超の公務員生活に幕を下ろしただけではなく、転居を強引に決行した。

 これはまさに強引であったが、住んでいたマンションを売却するには最適なタイミングだと納得できたことと、住環境を変えることが娘を変えることに繋がるかもしれないと考えたからだった。

 しかし、この転居にはさらに課題があった。
「長男が大反対」したのだ。
 これまで自分が築いた友人関係や、部活動、何もかも捨てることになってしまう。
 中学卒業までの後2年待って欲しいと何度も乞われたが、彼の卒業よりも娘の状況を変える方が優先度が高いと判断し、何度も話し合って息子に折れてもらった。

 というのも、5年生の娘がその時点で転校すれば、中学進級の際に友達がいる状態で中学生活を迎えられると考えた。
 中学生の転校は、小学生の転校よりハードルが高い。

 その高いハードルを、お兄ちゃんと娘とどちらにさせるべきか……そう考えた時に、お兄ちゃんに乗り越えてもらうしかないと私は判断した。

 そしてその判断に夫も賛同してくれたので、両親からの説得に遭ってしまった息子に勝てる余地はなかった。
 そんな息子に、不遇な想いをさせてしまったと今も申し訳ない気持ちはある。

 とはいえ、彼は彼でマイナスばかりではなく、私たちからもできるだけの配慮をした。
 現在は、彼なりに満足した生活を送ってくれていると感じている。

 さらに転居の決断には、末子の存在も大きく影響していた。
 娘に釣られてか、末子(次女)までもが一時期登校拒否になっていた。
 学校は面白いところではないと毎日言うのだ。

 本当に不思議なもので、娘2人の学校生活はとても良好に見えた。
 友達も多く、休み時間はいつも楽しそうに過ごしているという。
 担任の先生が好きで、とても懐いて甘えていた。
 だから私は、そんな2人がなぜ学校が好きではないのか謎で仕方がなかった。

 しかも新しく校舎が建て変わり、最新のピカピカな学校になったのにも関わらず、だ。
 私からすれば何の不満もない環境で、何がいけないのかと考えた時、もしかしたら住環境かもしれないと思い始めた。

 児童数1000人を超えるマンモス校に、マンションは70世帯超が住む大所帯。
 比較的都会寄りにあった我が家は、家を一歩出れば、誰かしらとすれ違うという環境だった。

 徒歩1分内にコンビニがあり、5分歩けばスーパーがある。
 10分歩けば駅があり、こんなに便利な場所はないと思って選んだ住まいだった。

 しかし、子どもが望んでいる環境は本当にソレだろうか。
 もしかしたら、娘にとっては人との距離が取れる環境の方が、必要なのかもしれない……と。

 正直、この仮説が正しいかどうかは全くの賭けだった。
 見当違いも甚だしい結果になるかもしれない。
 でも、やってみるしかないと思い切った。

 私は家族全員に頭を下げた。
 ミスったらごめん! と。
 アカンかったら、そのとき考えるからいったんやってみようと。
 どうにか生きていけるようにだけは、頑張るからと言ってとりあえず引っ越してみよう! と勢いで引っ越した。

 そんなこんなの末、現在の家に引っ越して3年が経過した。   

 結果としては、私の考えに間違いはなかったのではないかと思っている。
 平地を歩いて徒歩10分で通えた最新の学校から、急勾配の坂道を上り下りした先の築何十年の学校へ転校し、娘は進級して中学生になった。
 ビルはどこにもなく、360度マウンテンビューの標高300メートルの地に引っ越した。

 縁もゆかりもないが、当時夫の勤めていた会社に通うことができ、且つ夫の両親の家にも近くなる場所で、マンモス校ではなく、それなりに広めのおうちに住める場所……と絞った先が今の家だった。

 マンションの時には1人一部屋が確保できなかったが、ありがたいことに今は各自一部屋を確保できた。
 公務員を辞めた私は、完全フルリモートの仕事を始めたが、自分専用のPCスペースをもらっている。

 引っ越してみて気がついたのだが、子ども達が全く喧嘩をしなくなった。
 個人のスペースがきちんと確保できるようになり、集まりたいときにはリビングへ、1人の時間が欲しいときには自分の部屋へ引きこもることができるようになった。

 以前は部屋へ戻ったとしても薄い壁一枚だったので、隣室に居ても騒がしくて声や音が気になった。
 しかし、戸建てに引っ越したことで家庭内の音が余り気にならなくなったことも大きい。

 ピリピリしていた長男も、引っ越してからかなり穏やかになった。
 近い距離に居すぎて、娘達のやりとりの騒がしさによく腹を立てていたのが全くなくなったようだ。

 一人一人の空間ってこんなに大切だったのか……と引っ越してとてもビックリした。

 そして、歩いて25分もかかる学校へ毎日通うようになった。
 抜毛自体は今もまだ完全に完治していないが、自分でコントロールしてかなり抑えられるようになってきた。
 後もう少しというところまで快方に向かっている様に感じる。

 何より、小学校卒業までの2年間をほとんど休まず登校した。 
 次女も今は、毎日ご機嫌で学校に通っている。
 学校が嫌いとは言わなくなった。
 キレイで近い学校はあんなに嫌がっていたのに……と大人の感覚では全く理解できないが、コレが現実だ。

 中学に進級した娘は、初めの方こそ「もう中学校なんて行かない」とごねていたが、6月を迎える頃には笑顔で学校へ行くようになった。
 1年を通してまさかの皆勤賞に、誰よりも私が喜んだ。

 学校へ行かないと毎日泣いて、学校へ行っても帰ると泣いて。
 学校で過ごしていても、ママの声が聞きたいと泣いていた娘が毎日学校へ通っているのだ。
 こんなに嬉しいことはない。

 本音を言うと、他の子と比べて随分とできない事や苦労していることが多いなと感じる。
 自分ができていたことができないシーンを見ると、歯がゆいと思うこともある。

 けれども、私よりも遙かに能力に長けた分野もたくさんあり、特に絵を描いたり歌を歌う等の芸術的センスは大人も舌を巻くレベルだと親馬鹿ながら思う。

 卒業式では大勢の人に困惑し、泣いて会場を逃げ出した。
 入学式でも辛すぎて立てなくなってしまった。

 まだまだ苦手で嫌なことが多い。
  誤解を恐れずに言えば、可哀想だとも思う
 けれど、可哀想だけでは守れないから、頑張れと強引に押し出すことも必要だと私は考えている。

  迷いがないわけではない
 でも、社会人になるための練習の場である中学校で、失敗とたくさんの経験をして、1つでも多くの学びを得てもらいたいと思っている。

 嫌がる子に対し、登校を強いることに賛否があることは承知していて、私もどちらが正しいかは分からない。 
 しかし、娘に限って言えば通わせることの方が彼女のためになっていると感じている。

 というのも、学校へ通っている方が抜毛が起こらないからだ。

 完全になくなってはいないが、長期休みが長引くほど顕著に抜毛を繰り返してしまう。
  今はストレスではなく、1人時間を持て余すことがトリガーのようだ。
 だから学校へ行って友達との交流が始まると、途端にピタリと治まる。

 これが分かっているから、多少嫌だと言うくらいで通学する習慣をなくすわけにはいかないと、心を鬼にして送り出している。

 もう一つは、療育手帳の取得ができなかったこともある。
 自閉症スペクトラムとの診断を受けたが、診断する先生によってはその診断に難色を示される。
 表現として正しくはないが、そのくらい彼女の症状は軽いと受け取られてしまう。

 一見、生活面で困っていることが伝わり難い点も大きい。
 買い物にも一人で出ることができる。
 電車にも乗れる。
 冗談を言うこともできれば、漫画を読むことを楽しむこともでき、友達もたくさんいる。

 もちろん彼女にとって人生にできる事が多い方が良いが、だからこそ娘の困難は世間に伝わりにくい

 現在、普通学校にある支援学級に所属しているが、支援学校へ進学することはできない。
 普通科高校を受験することもできない。
 毎日登校し、学校で授業を受けているのにも関わらず、「通常」の高等学校を選択する道が今はない。

 探したところ、専門学校に繋がる専修学校への就学ができそうだと分かったが、それでもなんて厳しいのだろうと思った。
 けれど、この現実を嘆いても仕方がないので、私はどうにかして彼女に進学の道が残せるようにと模索し続けている。

 こんな風に書くと大変そうに思われるばかりかもしれないが、娘が居たからこそ得られた感動がたくさんある。

 私は毎日娘を送り出せた後、あぁ良かったと思える。
 音楽会でみんなと並んで歌っている姿だけで、涙が出るほど嬉しくなる。
 運動会では、他学年の子と一緒に二人三脚をしていた。
 そんなことができるようになったのかと、また一人涙した。

 小学校後半にもなると「結果」を求めるようになってしまう。
 もっと大きな「成果」を期待して、子供を褒めることが多いのではないだろうか?

 けれど、私は自閉症スペクトラムという難しさを抱える娘を見守る中で、「参加する」ことへ挑戦する姿に成長の喜びを感じさせてもらっている。

 これまで努力と結果を大事にしてきた私にとって、最初の第一歩がどれだけ大変なのか、素晴らしいことなのかを忘れててしまっていた。

 だから今、改めて知ることができて本当に良かったと思っている。

 さて、現在の私はというと夫の扶養に入って生活している。
 在宅フルタイムで働いていたが、やはり本来の性分が顔を出してしまい、過剰に働きすぎてしまった。

 何のために公務員を辞めたんだと叱咤され、そりゃそうだと反省してすっぱりと働くことを辞めて、細々少しだけ稼働している。

 相変わらず週に1度は学校の先生から娘のことで電話がかかってくるが、お陰様でいつでも彼女の元へ駆けつけられる準備ができている。

 娘のSOSを見落とすことがないよう、2人で話す時間を設けたり、出かける時間を作ることもできるようになった。

 最近は随分大人びた話をしたり、私の知らない知識を披露してくれるようになり、こちらが驚かされることも多くなった。
 他の人から見れば亀の歩みかもしれないが、それでも大きな成長を遂げている。

 最初にお世話になった医師から「何か困ったらお母さんに相談すれば良い」と思える関係になっておいて下さいと言われ、どうしたものかと悩んだ。

 思春期が来たときに、何かあったらお母さんにとりあえず頼るという仕組みができていると、困った時に隠し事をせず相談してくれると言われたのだ。

 しかし、分かっていても実行するのは難しい。
  手探りながらも、医師の言うことは素直に実行できればという思いでここまでやってきた。
 そのお陰か、とりあえず何でも話してくれるポジションにはなれたように思っている。

 もちろん思っているだけで、その感覚が正しいとまでは言えないけれど……そう思える程度の信頼は得られているように感じる。

 これから先、高校進学の壁があり、その先には大学や就職の壁がある。
 まだまだ独り立ちには遠く、果てしない壁がある。

  しかし、彼女にとって必要な支援と寄り添いとは何かを汲み取りながら、変わらぬ愛情を注ぎ、全力で応援をし続けることが私の使命である。

  これからも、「必要な教えとは何か。育てるとは何か」を感じながら、彼らの成長する日々を見届けたい。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

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