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交差する世界

「金がかかる、金がない、仕事にいく」
何かと仕事を言い訳にして家族と過ごさない。
家族は一緒に過ごしたがっても「金を稼がないと」の話。

妻は、「パパは必死なんだ。」とあくまで信じる。
うちは貧乏だから。あなたたちを育てるのには金がかかる。成人したら、今度は老後の資金が必要だ。生活費が上がっている。自営業だから年金もあまりもらえない。昭和の考え方だから、ただ必死なだけなんだ、と。
時折抑えた不満があふれて嫌味や怒りをぶつけながらも、夫思いのしおらしい妻でい続ける。

娘は、父は必死で働いているのではなく、逃げているだけと思っていた。
なぜなら、母と共働きの間も父は家事を手伝わず、自分の服すらまともに選べない。休みの日のバーベキューも面倒がり、妻が旅行に行こうと言えば、金がかかるといい顔をしない。土曜日に行われるようなイベント事も参加せず仕事に行ってしまう。妻の誕生日など、自ら祝ったことはない。休日はテレビを見て過ごすだけ。娘が自ら「やりたい」ということには、できない前提で話を聞く。

それが娘は嫌でしかたがなかった。
金がない金がない金がない、仕事仕事仕事。それはできないこれも難しい。家族が何度さみしい思いをしたことか。一生懸命働くとは、そんなになんでもあきらめて無気力でい続けることなのか。仕事と金以外に価値はないのか。

娘はそのうち、自分で働くときにも、どこか必死になることを恐れるようになっていた。性分としてなんでも必死になる自分も嫌になっていた。矛盾に疲れ果て、働くことにすら抵抗を覚えていた。
いつの間にやら、「必死で働く」ことや「金を稼ぐ」ことは、自分の生活をおろそかにすることで、周りの人間もぞんざいに扱うことになっていたのだ。仕事に邁進するイメージは、父であった。

でも、ある日娘は気づいた。

なんでも仕事や金を言い訳にするのは、本人が抱える問題。けれど、だからといって必死で働いているということは否定されない。父親は、仕事に逃げるのと同時に必死に働いてもいた。

「仕事に逃げる」と「必死で働く」は両立する。矛盾していない。

気付いてみればなんてことはないような事実が、見えなくなっていた。
必死に働くのも、自分を生きるのも、両方できる。と。

***

人間の悩みは、本来別のことであるはずのいくつかの話を、ごちゃ混ぜにして混同していることにある、という話がありますね。確かにそんなことだらけなんだろうな~。
テレビやSNSで繰り広げられる言い合いも、そこに行きつくことが多いですよね。Aの立場の人とBの立場の人で、話の前提からすでにかみ合っていない。延々と平行線をたどっていることに、本人たちは気づかない。あるいは気づいていても、自分から方向を変えることはしない。歩み寄ってほしい。
そうして、相手を理解するより、ただ相手の言葉尻に反応して論破しようとしてしまう。「正論を言った私が正解!私が勝ち!でしょ?そうでしょ?だからあなたがこっち来てよ!」

さて、どこで落ち合いましょうね。

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