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三井修エッセイ集『雪降る国から砂降る国へ』読書会記録

 2020年11月22日(日)16:00-17:00、東京・銀座の貸会議室において三井修エッセイ集『雪降る国から砂降る国へ』読書会が開催されました。出席者は、同人誌「まいだーん」参加の上條素山、高山邦男、種市友紀子、爲永憲司(司会)、千種創一、三井修(五十音順、敬称略)です。
 外部にも議論を共有し、またそこから新たな議論が生まれればとの思いから、議論の要点を以下公開します。(以下敬称略)

1 千種創一

(1)風俗記録としての重要性

『雪降る−』は、風俗記録としての重要性を持つ。その中で書かれた、北陸・能登で食される貝「しだたみ」を知っていた人がいたら教えてほしい。(会場の誰も挙手せず) そう、まさに、自分も知らない貝であった。能登の人は当たり前に知っているのかもしれないが、こうして文章に残さないと、30年後には誰もしだたみを知らないかもしれない。

 昔のように何百年と何世代もが同じところに住むのだったら記録しなくても消えないが、ここ数十年の都市への人口流出で、地方の記憶というのは危機にさらされている。集団の記憶というのは一代・二代で簡単に滅ぶ。

(2)発掘の精神

 さほど有名ではない歌人にも焦点を当てるべきだという精神が、『雪降る−』全体を貫いている。この精神は自分も大事にしたい。自分は、プロレタリア短歌で有名だった岡部文夫(1908年−1990年)という歌人を知らなかったが、『雪降る−』で知ることができたのは良かった。

(3)率直さの面白さ

 自分の短歌人生を率直に振り返っているのが面白かった。

「口語短歌、ニューウェーブ、ネット短歌等の目まぐるしい動きにも結局取り込まれることはなかった。それらの動きに羨望や憧れはあったが、真似をしてみても失敗することが分かっていたからである。拙くても自分自身の道を歩んでいくしかないと思った」(『雪降る国から砂降る国へ』p109)

(4)比較文学論的な側面も

 p155のエッセイ「アラビアを垣間見た二人」では、汽船から眺めたエジプトのスエズ運河に取材した斎藤茂吉作品と寺田寅彦作品とを比較している。これは、斎藤・寺田論を超えて、短歌と随筆の本質的な違いを炙り出している。

(5)アラビア語の韻律の紹介

 『雪降る−』は、アラビア語の韻律についても語っていて、アラビア語のわかる自分にはとても面白かった。なかなかアラビア語自体を聞く機会がないと思うので、少し朗読をしたい。(千種が、エジプトの大詩人アフマド・シャウキーの「バラダー川の清さから」冒頭と、クルアーンの「開端章」を朗読した。)

2 上條素山

(1)父母の記憶・能登の記憶が常にある

 (笑いながら)千種氏にかなり言われてしまったが、自分としての感想を述べたい。『雪降る−』では三井氏の父母の話はかなり頻繁に出てきているので、中東にいても日本にいても、父母の記憶、能登の記憶は常に思い返しながら、歌を詠んできたのだなと感じた。

(2)一人の歌人と向き合うことの大切さ

 そして歌との向き合い方に関しては、一人の歌人と向き合うことの大切さを訴えている。違う時代であれ、違う世代であれ、自分が向き合っていく歌人というものを一人見つけることの大切さも指摘されている。忙しいと忘れがちであるが、自分も見習いたい。

3 高山邦男

(1)短歌の歴史

 自伝的なものとして読んだ。色々な人や場所が出てくる。田中栄や岡部文夫は詳しくは知らなかった。そうしたことを一つ一つが、短歌の歴史そのもの。

(2)資料としての貴重さ

 自分の参加する佐佐木信綱研究会において、国文学者・久松潜一の孫である久松洋一氏が、結社「短歌人」創立メンバーの山口由幾子氏という方について発表していた。山口氏は沖縄についての歌を多く詠んだが、沖縄の人々の思いについて書かれた文章なんかも紹介されていた。その場にいた今野寿美氏も、そうした取組みは記録として面白いと仰っていた。『雪降る−』も同じように、資料として貴重である。どんどん書かれることを望む。

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4 種市友紀子

(1)岡部文夫への親近感

 自分は北陸出身なので大変面白く読んだ。岡部文夫の住んでいた春江町は隣町である。その意味でも親近感を感じた。

(2)三井氏の歌の寂寥感は北陸に由来

 三井氏の歌の寂寥感は、北陸の寂寥感に由来するのだな、と『雪降る−』を読んで思い至った。故郷の風土が歌の精神性に影響を与えている。

(3)風土そのものが精神

 その一方で、三井氏の歌にはドライな感じもある。それはビジネスマンとしての精神から来ていると理解していたが、今回『雪降る−』を読んで、アラビア世界の影響であると思い直した。特に一神教の厳しさが強く印象に残っている。風土が精神に影響を及ぼす、というよりも、風土そのものが精神なのかもしれないと思うような、大きな世界を見せて頂いた。

(4)視野の広さ

 また、『雪降る−』の中の、郷土の岡部文夫から、遠くのイラン戦争・イラク戦争などの世界の出来事に対する視野の広さにも圧倒された。一番好きなのは「わたしの原風景」(p24)というエッセイであった。

5 爲永憲司

(1)津川洋三について書ける稀有な存在

 『雪降る−』は、三井氏自身の父から様々な歌人などに到るまで様々な出会いについて記述する。特に、地方結社「新雪」主宰の津川洋三氏については、もはや三井氏以外の人は書けないだろうと感服した。

(2)冨士田元彦との思い出を

 かつて自分がとある編集社にいたころ、短歌誌の名物編集者たちについての特集を企画してくれと言われて、その中で、元「角川短歌」編集長の冨士田元彦(2009年逝去)も浮上した。最近もう冨士田氏について書く人も少ない。『雪降る−』では冨士田氏が登場する。ぜひもっと書いて頂きたい。色々な編集者や歌人との思い出を残してほしい。そうした思い出の記述自体が面白く感じられる。

(3)編集の苦労

 わがままを申し上げれば、収録されているエッセイそれぞれの初出を書いてほしかった。(これに対して、三井氏から、その指摘は他の人からも言われたと説明があった。) 編集に携わる自分としても、テーマが多岐にわたる、これだけの量のエッセイをまとめることの大変さはよくわかる。想像を絶する苦労があったのだと思う。

6 最後に:三井修

(1)散文が散逸せぬよう

 自分は40年にわたり歌を作る中で、取捨選択して、残すべきものは残してきた。一方で、散文については手付かずであった。無くしたものもたくさんある。散逸する前にまとめておかないと勿体無いと思い、コピーを取って青磁社へ送った。編集は本当に大変だったと思う。青磁社には感謝している。

(2)岡部文夫への思い

 散文の依頼はテーマが指定されていることが多い。すると、なぜかどうしても岡部文夫で書いてしまう。岡部と同じくプロレタリア短歌で有名な坪野哲久については、福島泰樹氏などが語り継いでいる。一方で、岡部はあまり取り上げられてこなかった。そこで、自分の故郷にゆかりのあることもあり、自分ひとりくらい岡部について残したいと思ってきた。

 そうした思いがあり、岡部の遺した結社「海潮(かいちょう)」の結社誌に「岡部文夫研究ノート」という散文を毎月ずっと書いてきた。連載ももう300回以上になる。

(3)岡部文夫の終戦の日の日記

 岡部文夫を春江町に家を建て、そこを終の住処とした。逝去後、残された蔵書と日記は春江町に寄付しようということになったが、春江町は断った。紆余曲折あり、氷見市立博物館で受け取った。図書館は受け入れる余裕がないため博物館に行き着いたようである。といって博物館も余裕がないため目録だけが作られただけの状態である。

 自分は、つてを使って一度その日記を読みに行ったことがある。印象的だったのは、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲の成功について「幸先が良い」と喜びを記している。ごく一般人の感覚はこのようなものだったのだと思う。

 同じく印象的だったのは、昭和20年8月15日の日記。岡部は、「やっぱりだめだったか。午後、釣りに行った」とだけ短く書いていた。

 岡部の日記には、他の歌人との交流も記されており、大変興味深い。以前、角川短歌の元編集長と飲んだとき、岡部の日記の書籍化を提案したが、「例えば高見順の日記とかなら売れるんだけどねえ」と言われた。日記には、短歌仲間の訃報の切り抜きもたくさん貼ってあったのも印象的であった。

(4)『雪降る-』収録は全体の2割のみ

 本日は、このような会を開いて頂き、感謝申し上げる。実は『砂降る−』に収録された散文は、コピーして青磁社へ送った散文全体の、2割か3割程度に過ぎない。残りの散文をどうするかまだ決めていないが、また次の一歩を考えていきたい。

(十分な新型コロナウイルス対策を講じた上で開催されました。なお、本会に先立っては、千種創一歌集『千夜曳獏』読書会も開催されました。)

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