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『千夜曳獏』読書会記録

 2020年11月22日(日)15:00-16:00、東京・銀座の貸会議室において歌集『千夜曳獏』読書会が開催されました。出席者は、同人誌「まいだーん」参加の上條素山、高山邦男、種市友紀子、爲永憲司(司会)、千種創一、三井修(五十音順、敬称略)です。また、ゲスト参加予定だった川野里子氏からはレジュメ(末尾)の共有がありました。
 外部にも議論を共有し、またそこから新たな議論が生まれればとの思いから、議論の要点を以下公開します。(以下敬称略)

1 上條素山

(1)裏切りと悔いというテーマ

  石川美南氏は、書評誌「本の雑誌2020年11月号」において、千夜曳獏には夜霧がかかっていると表現していた。自分も初読時には、何を読み取ればいいのか、漠とした感じの難しさを覚えた。それでも、歌だけでなく詞書も手がかりにしながら今回読み解いてみた。

 まず、千夜曳獏には「あなた」が多く出てくる。一方で、小早川秀秋をモチーフにした連作「金吾中納言」と、ユダをモチーフにした連作「ユダのための福音書」には「あなた」は出てこない。ここから逆説的に、これらの歌集のテーマを暗に提示するために置かれている連作だと読み解いた。

 その2連作に共通するのは、裏切りと悔い。ここから、歌集のテーマの一つは裏切りと悔いと言えるのではないか。また、その2連作の外にもこういう歌もある。

美術館の外には薄い池がありお互いの裏切りを話した 「越えるときの火」
どうやっても悔やむであろうこの夏をふたりで生きる、花を撮りつつ 「連絡船は十時」

 裏切りや悔いについて話すとき、この歌集は饒舌になる。そして千種の持つ韻律の良さの中で饒舌に語られるとき、裏切りや悔いの本質が見えてくる。

(2)予め設定されている「死に体の感傷」

でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい 「つじうら」

 口語的であり、会話的であるようでいて叙事的。これは千夜曳獏の基本的要素と言える。

あらすじに全てが書いてあるような雨の林を小走りでゆく 「つじうら」

 この歌でも、「あらすじ」という前もって世界全体を表すものが、歌の言葉になる前から存在している感じ。

あなたの手にふれたいというかわせみにどの感情の名を与えよう 「越えるときの火」

 この歌も、事象があってそこに感情が湧くのではなくて、事前に「感情」が用意されている。歌以前に、まず感傷がある。少しこの点を掘り下げたい。第二章に次のような扉書きがある。

「なぜ私が来たか、たぶん不思議に思っているでしょう。なぜかというと、花婿には花を持っていくものだし、死体にも花を持っていくものだし、花婿が死体でもある場合には、花束二つに値するからよ」 彼女がそれらの言葉をしゃべったとき、まるで前もって準備してきたかのように言った。
 『ショーシャ』アイザック・バシェヴィス・シンガー(大崎ふみ子訳)

 この部分が千種の方法に似ている。括弧内「なぜ私が来たか……値するからよ」のような感傷を俯瞰的に叙述する主体がいる。この括弧の中身は、生の感傷ではなく、死んだ感傷。「死に体の感傷」とでも呼ぼうか、自分の経験よりも先に、運命論のように、予め設定されていたかのような感傷である。「死に体の感傷」について饒舌に語るとき、心のあり方が見えてくる。以下の歌はその例。

風邪ならば梨を剥いて差し上げたい 梨崩し、ってそういう遊びっぽい 「ミネルヴァ」
湖でいたり熊でいたりして輪郭が心に追いついていない、あなた 「ミネルヴァ」
想念の橋にあなたを歩かせてその歩幅の香りを思い出す 「眼と目と芽と獏」

 千夜曳獏に頻出する「あなた」は感傷誘発装置とも言えるかもしれない。「死に体の感傷」は、悔恨や自嘲、過度のおおらかさ、余裕、視線の高さについて話すとき、発露する。

(3)口語こそ他者からの借り物

 千夜曳獏の文体についても、その場で会話がなされているようで、実はそうではない、現在ではない。前もって運命論的に設定されていたかのように、自分ではない誰かの流暢な発話である。一般的に口語はリアルであると言われるが、口語もまた文語と同じように他者の言語からの借り物、つまり「他者性」を帯びたものである。口語は言語の他者性を巧妙に覆い隠しがちである。一方で、千種の文体は、その口語の他者性を暴くものではないか。

わかってほしい とは浅ましい とは識っているけど繁っていく竹林(たけばやし) 「越えるときの火」

 この歌はこの歌集をよく象徴している。繁ってしまう竹林は、饒舌に語ってしまうことの比喩である。感傷と言語の関係に竹林を媒介させることで、口語の他者性を示している。竹林の繁ってしまうような、つまり話すぎてしまうことにつながる「話足りなさ」は、歌集冒頭の「話し足りないというのは美しい感情だ」から来ているのであろう。

 千種は、詩歌の表現で敢えてエモを加速させることで「死に体の感傷」を醸成する。口語で口語を殺しているとも言える。この「死に体の感傷」には口語の新たな可能性があるのではないか。

(4)口語で歴史に迫る

 もう時間がないのでさらに駆け足となるが、秀秋の連作「金吾中納言」は、大変面白かった。通常、歴史を語るときには文語で歴史の中に同化するが、この連作は違う同化の仕方をする。千種は口語を使って歴史に迫る方法を示している。

すすきほを秋のしっぽと思うとき何万という秋ひるがえる 「金吾中納言」
一斉の射撃の煙はたなびいて季節はずれの桐花みたい 「金吾中納言」

 「秋」は小早川秀秋のことだろうし、「桐の花」は、豊臣家が桐の花を家紋としていることを踏まえているだろう。千種は歴史を咀嚼した上で、この一連を組んでいるのではないか。

2 高山邦男

(1)ポストモダン的読解

 30年くらい前の流行ったポストモダンを思い出した。かつての伝統的な批評では、小林秀雄のように、文章から皆が見つけていない意味を見つけてくるのを「鋭い批評」と呼んでいた。しかし、批評家・哲学者の柄谷行人はポストモダンの文脈において著書『意味という病』で、実は意味なんてないこと、大きな物語はないんだと指摘した。村上春樹もこの文脈に位置付けられるだろう。

(2)千夜曳獏に「意味」はないのではないか

 一般に短歌には意味を書く傾向、すなわち、こういうことがあって、私はこう思って、だからこうなんだ、というような因果をはっきりと書く傾向が、ある。短歌の読者もまた、歌・歌集から意味を読み取ろうとする。

 一方で、千夜曳獏を読んでも、意味を構築しようとする意思が感じられない。一生懸命、意味を読み取ろうとしても無駄なのではないか。読者が無理に意味を取ろうとすると、それこそ霧に直面する。

(3)千種は事実を「詩的に解体」する

 いくつか具体例を見ながら論を進めていきたい。

でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい 「つじうら」

 巻頭の一首。いい歌の雰囲気を出している。「でもそれが始まりだった」と意味深なこと言っているようであるが、おそらくそこに意味はない。巻頭のだから「始まり」という語を置いたぐらいなのではないか。しかし、詩的な感じで檸檬水へ繋げていくところに面白さがある。

 歌人には、事実に対峙したとき、そこに意味を重ねて意味を構築していく人が多い。一方で千種は、意味を構築しない、事実を詩的に解体していく。

外は嵐。水族館のくらがりにあなたは雨垂れみたいに喋る 「水文学」

 この歌も、事実としては多分あなたが喋っただけである。あまだれみたいという比喩を思いついたあとで、縁語的に水族館、嵐、と事実を解体していったのだと思う。

 千夜曳獏を最後まで読んでも、全体的な意味は回収はできない。全体を読んで、言葉のセンスの良い「詩的解体ショー」という印象を受けた。千種は少なくとも二つの解体方法を持つ。一つは縁語的な解体。例をあげる。

コーンフレークをこぼれる鱗とおもうとき朝という在り方は魚だ 「越えるときの火」

 これも、目の前にコーンフレークがあるという事実を解体した上で、コーンフレーク→鱗→魚と連想して、結句の詩的インパクトで一首に仕立てている。

(4)事実だけでなく「意味」も解体

 千種のもう一つの解体手法は、構造主義的に本来関係のないものを繋いで意味を解体するというもの。

思い出に厚みはあって、たとえば、深夜のだし巻き卵とか 「眼と目と芽と獏」

 思い出と卵焼きに本来のつながりはないのだろうけど、「厚み」を支点にして二つを繋げて詩にしている。こう書かれると、思い出の中に、だし巻き卵にまつわるものがあるのではないかと読者に思わせることができる。

 一方で、解体にあたって千種は、今までに短歌が使ってきた詩的イメージのある語彙を確実に利用している。上の歌で言えば「深夜の」とか、巻頭の歌における「檸檬水」など今まで培われてきた詩的イメージを使って、事象を解体している。

永遠ってそんなに偉いやつなのか 駅の奥まで濡らす、煙雨は 「この林を抜けると花の名を一つ覚えている」

 この「永遠」は他の概念でも交換可能で、例えば「恋愛」と書き換えても一首は成り立つ。意味の解体の仕方が詩的で、楽しめる。だから意味を取るのは難しい。

路線図の涯(はて)に名前の美しい町があるのは希望と似てる 「越えるときの火」

 この歌は意味が取れそうだけど、「希望」を絶望に変えても一首として成立する。

炭酸がどんどん抜ける夜の港 欲望ならば簡単なのに 「連絡船は十時」

 普通なら「欲望」の位置にあるもので、歌の意味を回収しようとするが、この歌は回収しているようで回収していない。結句は「人生ならば簡単なのに」でも成り立つ。この文脈では欲望が一番かっこいいのはわかるが。

 このように千種は短歌を、意味ではなく、解体の詩性で回収しようとする。他の歌人のように本質を掴みに行くのではなくて、解体した要素を繋ぐという上手さがある。

3 種市友紀子

(1)喪失への予感と冷たい情熱

 全体を読んで、自分も、上條氏が指摘していたような、予め運命が決められているんだというような思いを感じた。例えば以下のような歌。

この幸せもいつかは錆びて裁ち鋏みたいに心を切り裂くだろう 「連絡船は十時」
雨に目を細めるあなたがいたこともかなしい誤読でしかないのか 「眼と目と芽と獏」

 自分の目の前にあるものがやがて失われるという透徹した認識が、そこにはある。だからこそ今に集中するという、何か冷たい情熱を感じた。

 恋の歌も多いが、恋で恍惚に陥ることはしない。別れるからこそ愛を求めるというような冷たい情熱がある。甘ったるいデカダンスではない、新しい情感の創出に成功している。

水槽は藻に暗くあり腑に落ちる結末などがあったでしょうか 「水文学」

 この歌も、結末とか運命とかを遠いところから見ていることが、今を照らしている。作者のこのぶれない歌の姿勢は、上で見たような恋の歌でも、「金吾中納言」でも「ユダのための福音書」でも、一貫しているのがすごい。

(2)ブロックのような口語文体

 文体については、現代の口語文体もここまで来たのかという感慨があった。ニューウェーブ歌人の文体はポップだった。そしてその後の自分と同世代の、永井祐、堂園昌彦、光森裕樹、宇都宮敦たちは、その文体をフラットにしたりもしくは無作為な言葉を載せるなどして、意識や思考の流れを開いて表現したり、もしくは世界の複雑性を短歌に込めたりした。

 千種は、これらの口語の文体をうまく吸収している。千種の文体は、まるで言葉ひとつひとつが均一なブロックのように感じた。計画に沿って丁寧にブロックを積んで出来た建物が、綺麗という感じ。文体意識の高い歌集と感じた。

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4 三井修

(1)作歌環境の今昔

 短歌という稀有なものと、アラビアという稀有なものに同時に関わるという稀有な人間が二人ここに揃っていることに縁を感じる。

 自分が短歌を作り始めた40年前に比べるとずいぶん時代が違うなあというのが率直な印象。自分は、日本で生まれた湿潤な詩形と、中東の乾きとがせめぎあう中で生きてきたが、それは千種にはないようである。人の移動も含め、社会の活動がグローバル化し、またインターネットの普及した中で歌を作るのは、全く違うものがあるであろう。

(2)千夜曳獏は「コラージュ的」

 千夜曳獏には、全体としてコラージュ感があった。コラージュは美術用語で、フランス語で「糊付け」を意味するそうだが、キャンバスにちぎった新聞紙、金属片やガラス片などを貼り付けて、そこから美の世界を作るというもの。コラージュの美術作品が現実世界を写し取るそれまでの美術と違うように、千種の作品も、現実世界を描写するアララギ的な短歌とは違う。

 コラージュはランダムに貼り付けるその性質上、おびただしい数の失敗作があり、そこにわずかな成功作があったと想像する。一方、千種は全くの無作為ではない。ある種の芯を伝えられるように、貼り合わせている。千種が千夜曳獏を編むにあたり、歌をどれだけ捨てて、どれだけ収録しているのかはわからない。

(3)比喩の多さや技法の巧さを感じさせない

 千種の歌には吸い込まれるような魅力がある。一方で、吸い込まれてはいけないとも感じる。吸い込まれたところで自分は千種風には作れないし、正直わからない歌も多い。以下、時間の許すかぎり、付箋をつけた歌を鑑賞したい。

春雨のスープをあなたは混ぜているゆっくり銀河を創るみたいに 「越えるときの火」

 良い歌。インスタントの春雨スープのカップにお湯を注いで混ぜているところであろう。確かに混ぜると春雨が渦を巻く。銀河を創るという比喩が良い。千夜曳獏は全体に非常に多くの比喩が登場するが、それを感じさせない。千夜曳獏の比喩の多さは注意しないと気がつかないし、そしてそれは欠点にはなっていない。

密林のように歪んだ真夜中を傘という膜ひらいて帰る 「ミネルヴァ」

 上の句の比喩は腑に落ちない部分もあるが、下の句で傘を膜と捉えているのは、こちらの認識を更新してくる力がある。

靴紐のほどけるような諦めを遠ざけるためある青葉闇 「ミネルヴァ」

 靴紐はほどけても歩ける。そこを諦めの比喩にしているのが面白い。

水煙草へあなたはそっと炭を置く、龍に餌でもあげるみたいに 「水煙草森」

 水煙草の器具の上部には皿があり、その皿に炭とタバコ葉を載せてそこからの吸い込んだ熱い煙を一度水にくぐらせて、管で吸う。その皿に炭を載せる動作を、龍に餌をあげるとした。うまい比喩である。

なんどでも輪廻しようね また春にオニオンリングを上手に食べる 「暖かさと恐ろしさについて」

 輪廻の「りん」とオニオンリングの「リン」で韻を踏んでいたり、輪廻の輪のイメージとリングのイメージとを重ねたり、とても技法的。しかし、その技法を感じさせないイメージ展開の滑らかさがある。

5 爲永憲司

(1)短歌は「意味の残らない地平」を一度見るべき

 自分は必ずしも口語に詳しいわけではないが、千夜曳獏の読後感は、詩的解体ショーという高山氏の読みに賛成である。三井氏からコラージュの話があったが、実際の事実の下敷きがなくても、事実があったかのように読める歌もある。それは言葉を入れ替えても意味が成り立つ、つまり特定の意味の確立を目指していないという感覚を受けた。

 そういう風に意味を解体していくと意味は残らない。短歌は、意味の残らない地平を一度見た方がよいと思っている。しかし実際には社会や人間関係でそうしたことがしにくいから、その解体をした点で、千夜曳獏に心情的に賛成できる部分はあった。世界を支えている通念とか認識へのズレや違和感、反駁を、否定的ではなく、どちらかというと肯定的に表現すると、表現の上でねじれた部分が出てくる。そのねじれて見える部分に、何かへの批評性が浮き出てくるのではないかと思う。だから一首一首にこだわっては読まなかった。

(2)自然物との親和性

 野菜とか青葉闇とか銀河とか、自然物の事物が多い。これらがある意味、めくらまし的かとも思った。上條氏の発表を聞いたあとだと騙されたのではないかと思ってしまうが、いずれにせよ、千夜曳獏は自然物と親和性がある。

(3)会話体の多用

 千種の短歌は、口語体というか会話体に近い。例えば連作「水文学」で言えば、「もう耐えれないんだ冬の吊り橋の思い出が火のように香って」の「耐えれないんだ」とか、「夜、縦の光はビル、横のは高速、都市化とは光の糸を編んでいくこと」の「横のは」のあたりはほとんど会話。

 会話体が書き取られて、紙に表記された時点で「死に体」になる。上條氏の指摘をもっと深めていきたい。

(4)読解は読者へ投げ出されている

 高山氏が、作者は意味を込めていないという発言があったが、読解が読者の側に委ねられている感が強い。読者に投げ出されているとでも言えようか。よって、全く理解できない人もいるであろう。

6 自由討論

(1)千夜曳獏の「なめらかさ」と「霧」

三井 前作『砂丘律』はもっとゴツゴツしていたかな。『千夜曳獏』はなめらかですね。

上條 そのなめらかってところで、意味を取ろうとすると、霧がかかるのでしょうね。ポストモダン的に解体していった先に何があるのかという読みには納得しました。解体はしていくんだけど、なめらかさを残しておくことで、そこから何か詩情が発生する。

(2)連作「金吾中納言」への評価

三井 「金吾中納言」については評価をペンディングしたいです。

爲永 同連作中の「すすきほを秋のしっぽと思うとき何万という秋ひるがえる」で思い出しましたが、与謝野晶子に、「甲斐源氏天目山に滅びたる三百年ののちの秋風」という歌があります。これは文語で、固有名詞が利いている歌なので少し趣は違いますが紹介までに。小早川は歌にしやすいキャラだけど、意外とされていない。

種市 金吾中納言の中の「垂れないんだろう、どうせ、あんなにも下弦の月は滴るけれど」はすっごい面白かった。これも、高山さんの仰った解体というキーワードで読み解けます。解体して、「どうせ」とか言ってしまうアプローチは、これまでにあまりなかった試みのように感じます。川野里子氏はレジュメの中でこの連作について「失敗していると思います」として批判的でしたが、私としては、文語で意味のある歴史を読むのが通常だった中、こうした「どうせ」という歌い方は新しいなと思いました。

(3)引用への評価:「飾りではない」

爲永 各章の頭に、聖書や漢詩が引用されていますが、どうでしょう。

種市 自分の中にキリスト教の知識がなさすぎてうまく近づけないですが、千種さんにとっては、これら引用は文学的意匠としてではなく、思想として呼吸している印象がありました。飾りではない。

三井 イスラーム教とキリスト教は兄弟なので、中東をやると自然にキリスト教にも触れることになるんですよね。

(4)詩への評価:「手法もコラージュしている」

爲永 「デパートと廃船」と「赤丸」の詩はどうでしょう。ここだけ歴史的仮名遣いですし、一つの章になっています。

上條 意味でしっかり取ろうとするなら、この一つ一つも読み解く必要があるでしょう。

高山 視覚的な語の配置など、工夫してある。

岸はコンクリートの階段状になつてゐて降りれば
だん
 だん
  だん
   だんと銀河へ沈んで見えなくなつていく階段

          (「デパートと廃船」より)
弔は 弔ひ 弔ふ 弔ふ 弔へ 弔へ
庭にささやかな穴を掘り、埋める
埋めるのか捨てるのか
柿の樹のふもとに
今年は豊作
来年も

           (「赤丸」より)

三井 これは昔、現代詩でよくやられていましたね。塚本邦雄もこうした取り組みをやっていました。

爲永 詩の一部にそうした昔の手法を使っているのも、まさに「コラージュ的」と言えるかもしれませんね。手法をコラージュしている。

(5)最後に

高山 配置にこだわった詩が過去にやられているという議論で思ったことを。私は口語短歌の最先端をすみずみまで追っているわけではないですが、口語短歌での新しさというのはだいたいやりつくされたという印象を持っています。短歌にせよ詩にせよ、もう目新しい手法は難しくなっているから、それよりも、いいとこ取りで、何を採用するかに注目すべきではないでしょうか。

三井 本日欠席の川野里子氏はレジュメの中で、「雰囲気だけの口語に対してはやや危ぶむ思いを抱いてきたのですが、千種さんはちょっと違うなと思ってきました」、「時代に攫われない何かの糸みたいなものをしんしんと手繰り寄せるように言葉を選んでいる」と述べています。私も、千種がどんどん短歌を切り開いていくものと期待します。

(十分な新型コロナウイルス対策を講じた上で開催されました。なお、この会に続き、三井修エッセイ集『雪降る国から砂降る国へ』読書会も併せて開催されました。)


7 川野里子氏レジュメ

(以下、川野里子氏のレジュメの画像形式及びテキスト形式での転載)

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歌集『千夜曳獏』批評会 二〇二〇年十一月二一日

川野里子

 今日は伺えず申し訳ありません。レポーターとして用意しておりました多少のことを手紙の形でお伝えしようと思います。みなさまの御批評の叩き台としていただければ幸いです。

【千種創一という歌人】

 『砂丘律』の時から大変好きな歌人でした。雰囲気だけの口語に対してはやや危ぶむ思いを抱いてきたのですが、千種さんはちょっと違うなと思ってきました。引用させていただく回数も多かった若手の一人です。一つには文体の粘度が高いということが信頼の要素でしょうか。口語の場合不完全な語りによって読者に対して開いてゆくところに魅力があるわけですが、その不完全さを時代の空気感に向けて開くことで創られている作品が現在はとても多いと思います。しかし、千種さんはそうではなく、時代に対する開きよりは自分の内部の何かに向けて語ろうとしている。それは結構な強度をもっていて、それがいいなと思うのです。時代に攫われない何かの糸みたいなものをしんしんと手繰り寄せるように言葉を選んでいる、それはどこに向かうのか分からないし、ご本人も分からないでしょうが、だからこそ信頼できると思っています。

【恋の文体というべき文体】

 『砂丘律』のとき、擦り切れるくらい引用させていただいたのが

抱いたあなたが山女魚のように笑うとき僕はきれいな川でありたい

でした。一見するとクラシックな恋の歌ですが、とても強いと思いました。そしてこの文体が千種さんを通底する文体として、文体の芯に働いていることを『千夜曳獏』でいっそう感じました。

海賊のようにあなたは紐を引き昼のブラインドを開けていく
あなたの手にふれたいというかわせみにどの感情の名を与えよう
春雨のスープをあなたは混ぜているゆっくり銀河を創るみたいに

 これらの美しい作品群は第一歌集から引き継いだところにあるのだと思います。あなたと私を場面とし、影の交差するようにその陰影を描き込んでゆく。そういうスタイルが引き継がれていると思います。同時にこんな作品も『千夜曳獏』ではさらに二人の陰影が濃くなっている。

鉄橋の軋みは鯨の声に似て、あなたはくじらをみましたか、見ましょ
いわなければいけないことを言うときのどくだみの花くらやみに浮く
おそろいの箸の漆が剥げている。ここから腐るだろうと推う
ゆび濡らしながら傘巻く 銀の骨すける 愛は人を殺しますか
感情があなたへ流れていくときの中州に鷺は立ち尽くすのみ

 これらは「私」と「あなた」の軋みですが、「私」の恋物語ではない。もともと物語の輪郭は淡いので、私物語ではなくなっているのですが、そうすると何なのか。これらの歌に現れているのは「私」と「あなた」の境界で、それは人間の意識の輪郭でもあると思います。恋ではあってももっと普遍的な人間の意識の実在感のようなものに向けて千種さんの歌が作られているわけです。画家で言えば、オ・キーフのようなというのか、彼女は花を描いて生命と死や人類以後や以前を描くわけですが、千種さんは恋愛を描いて人間の輪郭やら死や生を描いているように思います。

 現在の歌壇では恋愛というのは主題では大変少なくなっています。また、「あなた」が自動的にセットされていること自体に違和感をもつ読者さえ少なくありません。しかし、千種さんの歌集はそういう批判がすり抜けてゆく。それはたぶん、恋愛がテーマではなく文体となって働いているからだろうと思います。思えば和歌の到達点は、恋の形で人間の孤独や自然や人間の輪郭を描き出しました。そういう系譜に直に繋がるとは言えないとしても、恋に変換して人間を映し出す、そういう方法として使うというあり方をしていると感じます。それを私は勝手に恋という文体と呼んでいます。

【歴史や人類と恋の文体について】

 一方で、「私」と「あなた」の応答型式のなかで把握される世界観で掴みかねる世界があることも感じます。小早川秀秋をテーマにした一連。

悔いなどはない、と言いたい傾ぐとき濃茶の泡の一滴は垂れ
一斉の射撃の煙はたなびいて季節はずれの桐花みたい
死臭って嫌いだ 荊に陣羽織からまる、長さをすまなく思う

 これらは失敗していると思います。歴史のなかで動く群れとしての人間、そして小早川秀秋が寝返った心。そういう塊としての人間と個としての人間の心動きのダイナミズムはこうした摑みでは捉えきれないと思います。

追い込まれた狙撃手たちを畏れなさい見えねばそれはもう神だから
生き様は死に様である。酒飲めば手を定まつて放つ、嚆矢を

 これらの歌は技法としては成功しているのですが、ややすっきりと美しく整理されすぎ、抽象的になっている感があります。「人間」がすり抜けてゆく感じがします。私が千種さんに期待するのは、塊としての人間と個の深い心とを貫いて表現する言葉です。それはたぶん、千種さんなら可能だと思います。

 千種さんが持って居られる繊細な陰影を歴史的な人間やら群れとして、塊としての人間に投影できたらどんなに強くダイナミックだろうか、と期待をしています。基本は持って居られる恋愛文体ですが、近距離で交わされる「私」と「あなた」の内向きの恋ではなく、「人間」やその営為を背後に感じさせるような恋をしてほしいと勝手に思っています。


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