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考古学者、人類学者、作家、アイヌ、さまざまな立場からのコメント、切り抜き

本項は考古学者や人類学者、作家、またはアイヌがどのようにアイヌ、北海道の歴史や文化、現代のアイヌ民族を捉えているかを、紹介するnoteです。
あえてこのようなページを設けるのにも意味があり、今回紹介した研究者の方やアイヌ民族の方の何人かは、時に前後の文脈を無視してあたかもアイヌ民族に対して否定的な言説を言っているかのように切り取られることがあるからだ。
そうです。読めば、考古学者や研究者の立場からは、皆さんほとんど同じことを言われている。
また、さまざまな立場からのコメントは物事が立体的になり、直接的に差別の現状を語ったコメントはなくても、行間からその憂いや深い傷が浮かぶ。
ページの最後に『明日に向かって/アイヌの人びとは訴える』のnoteへのリンクを載せた。50年前のアイヌ民族の苦労と厳しい差別を当事者たちから聞き取った勇気ある先住民たちの記述書だ。人間同士が差別し合うようなことが二度と起きないことを願い50年前に綴られたこの本から、今はどう変わったのだろうか。…SNSではいまだに差別と差別意識が拡散されている。
アイヌ民族である立場からの言葉も、いくつか勝手ながら紹介させていただいた。これらの言葉を読み、どう思うだろうか。僕も考えたい。

前後の文脈とできるだけ齟齬がないように切り抜いたが、気になったコメントがあれば、出典も明記したので個々に確かめてください。
(順不同)

瀬川拓郎(考古学者)

擦文文化から「アイヌ文化」への移行もゆるやかで連続的であり、そこに人間集団の交代を想定する研究者はいません。
(瀬川拓郎(2016)『アイヌと縄文』)

篠田謙一氏(国立科学博物館館長等)

(人骨からDNA情報を抽出し、アイヌ集団成立の歴史の解明を試みた)解析の結果は、北海道のアイヌ集団は在来の縄文人の集団にオホーツク文化人を経由したシベリア集団の遺伝子が流入して構成されたというシナリオを支持した。
(篠田謙一(2012)形態と遺伝子から解明する近世アイヌ集団の起源と成立史)

人類学の研究は、文献的には13世紀までしかさかのぼることのできないアイヌの人々の起源について、彼らが北海道の縄文人につながる先住民族であることを明らかにしてきました。
(篠田謙一(2019)『新版 日本人になった祖先たち』)

(アイヌ民族の遺伝子にオホーツク文化が栄えた時代に大陸からの影響があったことを受けて)一方で、こういう話をするときに必ず注意しておかなければいけないのは、13世紀に成立したアイヌ民族は北海道の先住民族ではないのではないかと言われる方がでてくることです。しかしDNAで分かったのはそういう話ではありません「民族」というものの考え方と遺伝子の構成には関係がありません。(中略)遺伝的な構成が変わってしまったから民族がいなくなった、ということを言う人たちがいますけども、それは明らかに間違いです。そもそもの考え方が間違っているのです。地域集団というのは様々な人が出入りをしながら、またあるいはある事情で人口を増やしたり少なくしたりしながら、その地域で存続していって、そこで生き続けていった人たちの中に独特の文化というものが生まれてきて、民族ができあがるということになるのです。遺伝子の構成が変わってしまったから別の民族だと考えるのは間違いです。もしそうなら本土の人間も、本土の縄文人と渡来系の弥生人が合体して出来上がっているわけですから、そういう意味では、そもそも先住の日本人なんか今はいないという話になるのです。どんな地域でも必ず人々というのは動いていて、その中で民族集団が形成されているということを頭に入れて おいていただければと思います。
(篠田謙一(2015)講演会「DNAで知る日本列島集団の起源」より『平成26年度 普及啓発講演会報告集』)

熊木俊朗(考古学者)

具体的には北海道の中央部で成立していた擦文文化が全道に拡散して道東北部のオホーツク文化を吸収し、中世アイヌ文化へ移行していくという変化である。
(熊木俊朗(2015)擦文文化期における環オホーツク海地域の交流と社会変動)

皆さん御存じと思うんですが北海道の時代区分は、本州の弥生時代以降独自の展開になりまして、狩猟採集を基盤とする文化がアイヌ文化まで続いていくんですね。続縄文、擦文、それから考古学で言うアイヌ文化と続いていくんですが、この間、人が途中で大きく入れ替わるということはなくて、それぞれの文化の内容はもちろん大きく違うんですけれども、基本的にはひとつながりのものと捉えてもいいと思います。
(北海道文化遺産活用活性化実行委員会(2020)熊木俊朗のコメント)
http://hhm.jpn.com/wp/wp-content/uploads/2020/05/2019forum-kirokushu.pdf

文化の連続性という意味ではアイヌ文化は擦文文化が変化したものとみるのが定説であり、文化要素についてもオホーツク文化の系譜に連なるとされたものはそれほど多くはない。
(熊木俊朗(2015)「オホーツク文化とアイヌ文化」『季刊考古学』第133号)

安達登氏(山梨大学教授、医学博士、医師)

アイヌは縄文時代人の遺伝的特徴を色濃く受け継ぐ他に、シベリア先住民族および本州日本人の遺伝的影響も想像以上に大きいことが明らかとなり、日本列島人の成立を説明する二重構造モデルに一部修正が必要なことを初めて実証した。さらに、北海道船泊遺跡出土縄文後期人骨について、世界初となる現代人レベルでの高精度ゲノム解析に成功した。このデータは今後日本列島人の成立を考える上で根幹となる重要なものである。
(安達登(2020)プレ・アイヌ期の人類集団を捉え直す:北海道先史時代人骨についての総合的研究)研究成果の概要から

斎藤成也氏(国立遺伝学研究所特任教授)

さらにくわしく調べたところ、縄文人にもっとも近いのは、アイヌ人だった
(斎藤成也(2017)『核DNA解析でたどる日本人の源流』)

蓑島栄紀(考古学者)

13世紀を「アイヌ文化の成立」とする歴史像には、近年、多くの疑問が寄せられている。「アイヌ民族の歴史」は、より広い時間と空間においてとらえられなくてはならない。
(蓑島栄紀(2023)「古代アイヌ文化論」『陸奥と渡島』)

「アイヌ史」を、より多彩で変化に富んだ、長期的な民族史としてとらえなおす上で、続縄文後半期や擦文文化期を「アイヌ史における古代」ととらえる認識には、大きな有効性と可能性がある。そしてそれは「先住民族」としてのアイヌ民族の地位を踏まえた歴史像をいかに構築するかという、きわめて現代的な課題にも深く結びついているのである。
(蓑島栄紀(2023)「古代アイヌ文化論」『陸奥と渡島』)

関根達人(考古学者)

「アイヌ文化期」という時代区分については「12、13世紀に突然アイヌ民族が現れた」とか、「明治以降アイヌ文化は消滅した」との誤解を生むとの批判がある。明治以降、アイヌ文化は大きく変容しつつも現在まで存続しており、今では日本政府もその継承と振興を掲げている。今日に続く近現代アイヌ文化を尊重するためにも、これまで擦文時代と明治時代をつなぐ時代区分として使われてきた「アイヌ文化期」は「前近代アイヌ文化期」とよび改めたほうが良いだろう。
(関根達人(2023)『つながるアイヌ考古学』)

丹菊逸治(北海道大学 アイヌ・先住民研究センター)

歴史学でしばしば見られる「13世紀にアイヌ文化が成立」という記述が意味しているのは、「アイヌの出現」ではなく「現代につながるアイヌ文化の出現」である。13世紀に大規模な人間集団の交替(入れ替わり)があったとは考えられていないからである。
(丹菊逸治(2015)「アイヌと「民族」をめぐる誤解」『アイヌ民族否定論に抗する』)

中川 裕(アイヌ文化研究)

北海道白老町に、日本で8番目の国立博物館である国立アイヌ民族博物館を含む、民族共生象徴空間(ウポポイ)が開設されるが、施設そのものより、私はそこで働くことになっているアイヌの若者たちに注目している、彼らはこの十年くらいの間に、各地でアイヌ語・アイヌ文化の知識や技術を積極的に学んできた人たちであり、すでにさまざまな分野のエキスパートである。彼らがこのウポポイ(民族共生象徴空間)でどのような活躍をするかを、私はおおいに期待しているのである。
(中川 裕(2020)現代のアイヌ民族とアイヌ文化)
https://www.jinken-net.com/close-up/20200803_1983.html

渡辺京二(思想史家・歴史家・評論家)

アイヌには国家形成の能力がなかったのではなく、その意思がなかったのだ。この点において、アイヌは今日もなお類ない光芒を放つ。忘れてはならぬが、初めてアイヌ社会を実見した本土の日本人たちは、国家を持たぬアイヌのあり方に羨望と郷愁を覚えた。
(渡辺京二(2010)『黒船前夜』)

池澤夏樹(作家)

民族というのは国籍ではないということも言っておかなければならない。民族というのは基本的には、その人が「私はアイヌです」という限り、いるんです。いわゆる単一民族神話に対する僕の反論はそれでした。勝手に人の民族性を奪うな、それは本人が決めることである。だから一人でもいれば、単一民族と言えない。
(池澤夏樹(2015)「アイヌの誇りを奪ってはならない」『アイヌ民族否定論に抗する』)

川越宗一(作家/『熱源』作者)

日本でも少数民族への抑圧が起こり、彼らは強引に自分たちの生き方を変えられた。自由に生きる権利が認められている現代に比べると、あまりにも生きづらい、矛盾と理不尽に満ちた世界なんですよ。でも、それでも懸命に生きた人々の熱を伝えたかったんです。
(川越宗一(2019)インタビュー「STORY BOX」)
https://shosetsu-maru.com/interviews/authors/storybox_interview/76

福永 壮志(映画監督/映画『アイヌモシリ』監督)

コロナ禍によって、日本人特有の排他的で村社会的なメンタリティが明るみに出たような気がします。このままでは、これからさらにグローバル化が進んでいく中で、時代の流れに逆行していくように感じます。大陸からの渡来民族と先住の民族が混ざって、今の日本人がある。そういうルーツに関する教育や議論が、あまりきちんとなされてこなかった。アイヌを知るということは、日本を知ることでもあります。日本という国が成り立つ時点から、僕らが一般的に認識している以上に、多様性があったのを知ることが大事だと思います。『アイヌモシリ』は、自分のルーツに対してフラットに向き合い、それを認め、折り合いをつけ、そして一歩前に踏み出す少年の物語です。人々が垣根を超えて、多様性に理解を示す世の中に向かってほしいという願いを込めました。
(ニッポンドットコムインタビュー(2020))https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030105/#.YpfmvHrAAuB.twitter

北原モコットゥナㇱ(文化人類学者)

(歴史的に北海道は)周囲を海と異言語に囲まれているため、縄文時代以降それほど大規模な人の出入りはなかったと考えられている。ただ、隣接社会との接触は不断にあり、周囲の民族がアイヌ社会に、あるいはアイヌが周囲の民族社会に溶け込むといった事例は、アイヌの伝承にも文献にも例を見ることができる。集団の成員は「身内」であることが前提だが、それは「純血」とは異なる意味であり、例えば他民族からの養子や婚入者も身内となり得る。その者を家系の一員として迎えることを神々と先祖に伝え、その者がアイヌの価値観・習慣に沿って生きていると見なされれればコミュニティに受け入れられた。
近代初頭から戦前にかけ、北海道島、クルリ列島、サハリン島のアイヌが順に日本国民に統合され、日本語の使用や生業転換を迫る同化政策が取られた。また、本州からの入植者が増える中で、アイヌ民族は少数者となった。結果として表面的な差異は見えにくくなり、社会の中でアイヌの存在が意識されにくい状況が起きている。アイヌ自身も、差別を回避するために民族性を表に出さぬように努めることが多いが、経済格差や文化的差に起因する偏見は根強く、それらの克服が現在においても課題となっている。そのような中でも、自らの先祖と文化への愛着、つながりの意識は現代まで息づいている。伝統文化を好む人、祖父母の食習慣や、家庭で使ういくつかのアイヌ語を大切に思う人、それらとはまた違った形で帰属意識を持つ人、重層的なアイデンティティを持つ人がいる。シンプルでわかりやすいアイヌイメージを追うのではなく、現実の多様なアイヌのあり方を理解することこそが求められている。
(北原次郎太(2014)「アイヌ民族とは何か」『別冊太陽 アイヌの世界を旅する』)

(差別を知ることで差別に気づくことができることを差別のワクチンとする考えがあることを前提として)
アイヌとしての当事者研究や著述、社会的活動にも尽力した萱野茂さんの『アイヌのイタクタクサ』(イタクのクは小さなク)という著書があります。「イタク」はアイヌ語で言葉という意味で、「タクサ」とは人に危害を及ぼす魔物を払うための祭具ですが、人の言葉にもタクサとしての力があるという考え方が紹介されています。差別ワクチンはまさにイタクタクサです。これを知って分かち持っていれば、差別という魔物に対する、心強い備えとなるでしょう。
(北原モコットゥナㇱ(2023)『アイヌもやもや』)

萱野茂(アイヌ文化研究家・政治家)

現在世界的に少数民族問題が真剣に考え直され、その民族が持っている文化や言語を絶やさない努力がされています。そういう世界の趨勢に日本も遅れないように本気で取り組んで欲しいのです。
アイヌは好き好んで文化や言語を失ったのではありません。明治以降の近代日本が同化政策という美名のもとで、まず国土を奪い、文化を破壊し、言語を剥奪してしまったのです。この地球上で何万年、何千年かかって生まれたアイヌの文化、言語をわずか百年でほぼ根絶やしにしてしまったのです。
(萱野茂(1980)『アイヌの碑』)

『縄文ZINE4号』記事中、札幌大学教授の本田優子さんのコメント抜粋

札幌大学の本田さんは、大学を卒業してからアイヌ文化を研究するために二風谷の萱野茂さん(アイヌ文化研究家、後にアイヌ民族初の国会議員になる)のご自宅に押しかけで居候していたことがある。二風谷は北海道内でアイヌ人の比率が最も高い地域だ。居候としての初めての夜、お酒を飲みながら萱野さんにこう言われた。
「あんたはこの村では少数民族だから大切にしてあげるよ」
萱野さんのこの言葉にはアイヌのプライドと優しさがこめられている。
(縄文ZINE編集部(2016)「アイヌに会いに」『縄文ZINE4号』)

知里幸恵

愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか、おおそれはあまりにもいたましい名残惜しい事で御座います。
(知里幸恵(1923)『アイヌ神謡集』)

私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある⁈ たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。
アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。
それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。
ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。
おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!」
(「知里幸恵の日記(1922年7月12日)」『銀のしずくーー知里幸恵遺稿』(1997)から)

バチェラー八重子(歌人)

短歌:
國も名も 家畑まで うしなふも 失はざらむ 心ばかりは
(バチェラー八重子(1931)『若きウタリに』)

違星北斗(歌人)

見よ、またゝく星と月かげに幾千年の変遷や原始の姿が映ってゐる。山の名、川の名、村の名を静かに朗詠するときに、そこにはアイヌの声が残った。然り、人間の誇は消えない。アイヌは亡びてなるものか、違星北斗はアイヌだ。今こそはっきり斯く言ひ得るが………反省し瞑想し、来るべきアイヌの姿を凝視のである。
(違星北斗(1927)「アイヌの姿」『コタン』創刊号)

短歌:
たち悪くなれとの事が今の世に生きよと云ふ事に似てゐる
(注:全語に傍点)

アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与へたく思ふ

滅び行くアイヌの為に起つアイヌ違星北斗の瞳輝く

(違星北斗(1926)「医文学」9月号)

結城幸司(版画家)

ヘイトスピーチを行う諸君、自分の姿が見えているか。
そしてそれを見つめる私にも鬼のように憎しみがこもっていないか常に問おう。
敵を作って自分を飾るなんて、そんな生き方が未来につながるなんて俺は嫌だ。
(結城幸司(2015)「ヘイトスピーチ」『アイヌ民族否定論に抗する』)

OKI(トンコリ奏者)

2019年は北海道命名150年というイベントが組まれた。道は開拓150年だとアイヌに失礼だと思ったのだろう。開拓でご迷惑をおかけしましたとさっさと謝ってしまえば良いのになかなかできないでいる。メディアに散々登場した武四郎だが今はもういない。
150年前の入植者の生活は過酷だったという。北海道を無主の地(持ち主のいない土地)とし入植者で分け合ってしまったからアイヌは居場所がなくなった。そんなことを葛野辰次郎エカシと話したことがある。エカシは窓の外を眺めながら「それにしてもアイヌはよく生き残ったわい」と独り言のようにつぶやいた。そのシーンは今でも脳裏に焼き付いている。今のアイヌは生存者の末裔なのだ。そういうことには一切触れずに祝うのが北海道命名150年記念行事だった。それに対しては別にどうも思わない。アフリカもアメリカも南米も同じ道をたどった。
(OKI(2021)「150年後」『アイヌからみた北海道150年』)

漁業権を主張している地域もあるがアイヌ全体が自治権を含めた権利を行使したいと思っているのかというとそうでもない。1992年12月10日国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説でウタリ協会の野村理事長は国からの分離独立はしないが民族自決権を要求すると演説した。ところが1996年、野村理事長の突然の辞任の後、自民党系の新理事長が就任するやいなや突然アイヌ文化振興法が制定された。それはアイヌがそれまで主張してきたものとは違いアイヌ文化の啓発に限定された法律だった。アイヌ親分衆は自治権獲得という気の遠くなるようなテーマより文化に限った法律を受け入れた。野村理事長の時代はアイヌが一つになろうとしていたが今はアイヌが多く住む各地域の個性が際立ってきたように感じる。これは先住民族の権利の主張が影を潜めアイヌは骨抜きにされたように見えるがそうではない。ここにはアイヌ流サヴァイヴァルの極意がある。アイヌは生き延びるためにアイヌと名乗ることもアイヌ語も一度は捨てた民族なのだ。不満はあるが波風は立てずに新しい法律を受け入れよう、先ずは先祖がいちど遠ざけたアイヌ文化を取り戻そう、そこから次のことを考えようという道筋が生まれたのだ。私たちは変化を受け入れながらもしたたかに生きて先祖の残したものを伝え続けるだろう。
(思想の言葉:OKI(2022)「思想の言葉」『思想』2022年12月号)

野村義一(元北海道ウタリ協会理事長)

(前略)私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするものであります。アイヌ語で大地のことを「ウレシパモシリ」と呼ぶことがあります。これは、「万物が互いに互いを育てあう大地」という意味です。冷戦が終わり、新しい国際秩序が模索されている時代に、先住民族と非先住民族の間の「新しいパートナーシップ」は、時代の要請に応え、国際社会に大いに貢献することでしょう。この人類の希望に満ちた未来をより一層豊かにすることこそ私たち先住民族の願いであることを申し上げて、私の演説を終わりたいと思います。
イヤイライケレ。
ありがとうございました。
(野村義一(1992年12月10日)国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説)https://www.ainu-assn.or.jp/united/speech.html

『明日に向かって/アイヌの人びとは訴える』note

(文責:縄文ZINE @jomonzine)(作成2024.2.2)(更新2024.2.7)


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