明日に向かって/アイヌの人びとは訴える

郷内満/若林勝 編 1972年9月30日 第一刷発行 編者:郷内満 若林勝 発行者:…

明日に向かって/アイヌの人びとは訴える

郷内満/若林勝 編 1972年9月30日 第一刷発行 編者:郷内満 若林勝 発行者:牧 芳枝 発行所:株式会社牧書店 印刷所:東洋経済印刷K.K. 製本所:ナショナル製本所 (分)8395(製)06053(出)7909 復刻責任:テトラグラフ:雨宮康子/書き起こし:奥野明美

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00. 目次

01. この本の再編集にあたって https://note.com/tetragraph_books/n/n5502cfdd2465 02. はじめに https://note.com/tetragraph_books/n/n333a58c207f9 03. I 差別と偏見の中で https://note.com/tetragraph_books/n/n1071662ca613 04. 暗闇の中から灯火を       会社員 四十四歳 https://note.com

    • 46. 編者略歴

      郷内 満(ごうない みつる)  1934年、北海道日高浦河町に生まれる。道立静内教員養成所を卒業後、新冠町や静内町内の小学校に勤め、現在は三石町立本桐小学校に在任中。  昭和41年(1966)、日高の教師数人とアイヌ問題にとりくむ「北海道ウタリと教育を守る会」を結成し、事務局長として活躍中。昭和42年と同5年の全国教育研究会に提言者として参加、アイヌ問題を日本の人間解放の問題として告発。その他、地域のアイヌ運動に参加、シャクシャイン顕彰会理事としてアイヌ復権の運動を続けて

      • 45. あとがき            郷内満 若林勝

         私たち人間は、よく知らないのに知っているという錯覚をおこす事があります。そしてその事は、価値を歪めるどころか真実の姿を見失わせるという、おそろしい体質をもっているのです。  アイヌに対する日本全体の認識は、最もよくそれを示しているでしょう。  みなさんは、この本を読んで、きっとたくさんの事に気づいてくださったと思います。そして、もっともっと知りたいとか、考えたいと思ってくださったかも知れません。  ここに手記を寄せたアイヌの人たちは「あたりまえの現代日本人」として自分

        • 44. 対談・今日から明日に向かって   郷内満 若林勝

          ー知られていないアイヌ問題 若林  つい最近のことですがね、東京都内で”差別問題を学習しよう”とい若者たちのグループが出き、その会に参加した人がわたしのところにきて、こういうんですよ。 「会のリーダーの人が、日本における差別問題といえば、部落問題、沖縄問題、在日朝鮮人問題‥‥、その他いろいろあげたけれど、アイヌ問題ということばがでてこないんです。それで、アイヌ問題のことを聞いてみたら、まったく認識されてないんです。」 この話を聞いて、驚きましたね。差別問題に関心の深い人にで

          43. Ⅶ 対談・今日から明日に向かって

           なぜ、現代に生きるアイヌの人たちの姿を知らない人が多いのでしょうか。  ‥‥知らされていなかったから!‥‥  そうかも知れません。なぜ、知らされていなかったのでしょうか‥‥。  アイヌ問題は、わたしたち一人ひとりの問題です。  わたしたちが、正しくこの問題を知ることによって、解決へとすすんでいくのです。

          43. Ⅶ 対談・今日から明日に向かって

          42. フチのウパシクマ

           わたしは、七歳のときに母を失い、八歳のときに父を亡くしたので、エカシ(祖父)とフチ(祖母)に育てられて、どうにかおとなになった。  そのフチが亡くなったのが昭和三十年(1955)の三月二日である。  あれから数えて十八年、こうして現在まで生きてこられたのも、このフチたちの力であったと、年月を重ねるごとにむかしをなつかしく思い出す。  アイヌ語に「カツケマツ」ということばがある。  誠に、フチこそは、そのことばにぴったりの女性であった。カツケマツとは、すなわち、美人で利

          41. 雷神の怒りにふれた姉妹

           大正七年(1918)の春、三月、わたしが右左府村千呂呂(現在の日高町千栄)の高山に働いている姉を尋ねた時のことでした。  叔母と連れ立っての、山合いの小道を沙流川添いの峡谷と、残雪との調和の美しさに目をたのしませる旅でした。  小道の半分ほどが残雪で、大変歩きにくかったことも記憶しています。  密林の中からは、小鳥の鳴き声が、また小さな動物たちがわたしたちに驚いて逃げていくというのどかな風景でした。  今の国道は、対岸に変わりましたが、振内市街の外れ、農協スタンドの

          40. Ⅵ 新しいユーカラ

           ユーカラ(物語)、それは語りつたえるものです。  アイヌの人たちは、数多くのユーカラをもっています。 どのユーカラも、アイヌの心を、そしてアイヌの姿をうたったものです。  ユーカラは、本にまとめられ、多く紹介されています。  ここに収められた二つのユーカラは、まだどの本にも発表されていないものです。

          39. Ⅴ 座談会・現代の問題点      -歩みを振り返って-

           今日までのあゆみを振り返りながら、「アイヌ問題」話し合いました。  参加された方は、十代の若者から六十代のお年寄りまでで、また住んでいるところも、それぞれ異なっています。  それぞれの立場で、活発に話し合いがすすみました。  アイヌ問題とは‥‥、その根の深さが、よくわかると思います。  ※この座談会は、昭和四十七年四月一日、札幌・ホテルアカシヤで開かれたものです。  出席者(発言者)   平取町 農業   六十歳  K   札幌市 木彫師  二十八歳 N   静内

          39. Ⅴ 座談会・現代の問題点      -歩みを振り返って-

          38. 観光地のアイヌウタリ      木彫り師 二十八歳

           よくいわれることですが「アイヌはもう一般和人と変わりない日本人なのだ」‥‥と。  そうなのです。たしかに一見してそうなのですが、しかしそのことばを全面的に受け入れるには、どこかシックリいかないのです。外見だけではわからない何かがあるのです。  今のアイヌの生活は、むかしながらのアイヌ様式の生活をとどめてはいません。普通の和人様式の生活そのままなのです。ただ、ほとんどのアイヌ系の人びとは、大変に貧乏な場合が多いのです。  なぜそうなのかは、アイヌ民族がたどらされた過去数

          38. 観光地のアイヌウタリ      木彫り師 二十八歳

          37. 観光コタンに勤めて       会社員 二十五歳

           ”アイヌ”ただこれだけのことで、なぜ、差別されなければいけないのでしょうか。毛深い、ということは、いけないことなのでしょうか。  こんなことが、自分自身におおいかぶさってくるとき、わたしは苦悩します。そして、この苦しみ悩みが、私一人でなく多くのウタリたちの苦しみであり、悩みであると自覚するとき、わたしはじいっとしていられなくなります。  どうにかして、この差別をなくさなければ‥‥。そのためには、多くの人たちに、わたしたちウタリの胸の内を、そして現実の姿を訴えなければ‥‥

          37. 観光コタンに勤めて       会社員 二十五歳

          36. Ⅳ 観光の中のアイヌ

           「北海道はまねく」  「森と湖の北海道へ」  日本中にくまなく貼られている北海道の観光ポスターには、このことばといっしょに、民族衣装を着飾ったアイヌの姿が描かれているものが多く有ります。  なぜ、自然をうりものにしている北海道にアイヌの姿が必要なのでしょうか。  観光地を訪れる人たちのアイヌを見る目は‥‥、また、そこに働くアイヌの人たちの生活は‥‥。

          35. ことばの命・アイヌ語       民芸品製作 四十六歳

           私は大正十五年(1926)、S、はTの子として生まれました。  当時、家には、兄が二人、姉が一人、そして、祖母がいました。  兄が二人いるということで、私は親戚の家の養子にとなり「K」という姓になったのですが、どういうわけか、その家には一度も行ったことがありません。  父はお酒のみで、子どものころは不和な家庭に育ちました。でも、そんな家の中でも、祖母はいつも「むかし話」をしてくれました。  今、思うと、そのむかし話が一番たのしかったなあと思います。  ですから、ア

          35. ことばの命・アイヌ語       民芸品製作 四十六歳

          34. 差別への提言          民芸品製作 三十八歳

           北海道がアイヌの領地であったことは、だれしもが知るところである。その領地を奪われ、生活にかかせない狩猟まで取りあげられ、そのあげく、差別と暴力によって苦しめられた‥‥、それはアイヌだけが知る悲しみである。  ほんとうに、ことばでは語りつくせぬ、どん底の生活の毎日であったのだ。  こんなことを考えるとき、また、祖父母や父母の悲惨な姿を思い出すとき、私は、どうしてアイヌだけが別物に扱われ、悲痛な苦しみに追いやられなければいけないのか、と考える。祖父母や父母のその姿は、一生私

          34. 差別への提言          民芸品製作 三十八歳

          33. 東京ウタリの会を呼びかけて   主婦 三十八歳

           わたくしが生を受けたのは、北海道の日高地方の漁村でした。  当時は、第二次世界大戦の戦時下で、食糧が不足し始めたために、農村地帯に移り住むようになりました。  わたくしは、六人姉弟の三番目でした。  わたくしは、自分がアイヌ系であると知ったのは、小学校に入学してからです。自分たちとなんら変わったところのないと思っている相手、つまりシャモの子どもたちから、わたくしをさして、 「おまえはアイヌだ、アイヌ、アイヌ‥‥。」 と、ばとうされたものでした。  わたくしは、はじめ

          33. 東京ウタリの会を呼びかけて   主婦 三十八歳

          32. 我らシャクシャインの血をひくアイヌなり! 牧場主 五十三歳

           北海道の南岸、太平洋に面した日高地方のほぼ中心、静内町の市街を一望に見下す真歌の丘に、わたしたちが敬愛する同族の英傑”シャクシャイン”の像が建てられたのは、昭和四十五年(1970)九月のことでした。  アイヌのことを知らなくても、シャクシャインの名を聞いた人は、全国でも数多いことと思います。  シャクシャインは、今から三百数十年前に、この静内のコタンに実在した酋長です。  シャクシャインが生まれ育った時代というと、天然の宝庫である野や山、川、海の資源は徹底的に和人に乱

          32. 我らシャクシャインの血をひくアイヌなり! 牧場主 五十三歳