矛盾を抱えるのはしょうがない。宗教史すらそうなのだから、ましてや職場や子育ての矛盾なんて
『サピエンス全史』を再読中です。
1.一神教の崇拝対象が一つではない矛盾
キリスト教は一神教と言われているのに、どうして崇拝対象がたくさんいるのか、前から気になっていました。
三位一体などといって、神とイエスと精霊の三者をワンセットにして崇拝している。これって一神教としてどうなんでしょう? 一神教とは「崇拝対象が唯一の存在」ということ。であれば、三位一体という信仰をしているキリスト教は、一神教としての性格が弱いのではないでしょうか。
宗派によっては主として聖母マリアを崇拝対象にしているところもあるといいます。これも一神教の定義に反しているように思える。聖母は神そのものではなく、イエスの母。であれば、神の他にも崇拝対象を認めているということでしょうか。
そもそもイエスを崇拝する事自体、一神教ではありません。イエスが神の子だというのであれば、イエスを崇拝して神聖を認めること自体が、もはや一神教ではなくなっている。イエスを神の子として認めるのなら、「神」と「その子・イエス」と、崇拝対象が二人になってしまっているので。これでは一神教とは呼べないでしょう。
悪の問題もそうです。キリスト教の教義としては、全知全能至善の存在である神がこの世を作ったという。この、唯一の存在である神がピラミッドの頂点にいるのがこの世。それなのに、私たちは神のライバルとして悪を想像します。正義の陣営VS悪の陣営の構図。これはどういうことなのか。神が絶対者としてピラミッドの頂点にいるにも関わらず、それに対抗しうる存在として悪がいる。悪が神に対抗しうる存在なら、それは一神教と言えないのではないでしょうか。
それから聖人というのもいます。聖〇〇ニウスとか聖〇〇ヌスとか。海外の有名な大聖堂の映像を見ると、聖人の像が室内に飾ってあったり、教会の外壁に装飾されていたり。これら聖人も立派な崇拝対象なのでしょう。聖人で有名なのは、聖バレンチヌス。バレンタインデーのきっかけになった聖人です。結婚を禁じていた皇帝に逆らって、男女の愛を肯定したとか。それが皇帝に見つかって斬首されてしまう。後の人々はバレンチヌヌスの行動を讃えるため、バレンタインデーができた。このような聖人は、おそらく何人もいるはずです。公式に聖人と呼ばれる人物に加えて、非公式ではあるけれど聖人と讃えられている人物も。さらにキリスト教圏の地方に行けば、「ウチの村では聖〇〇ヌスを崇めています」のようなローカルな聖人もいるのだと想像できる。崇拝対象としての聖人は、膨大な数に上るでしょう。こんなに崇拝対象がいるのに一神教って……。
さらには聖職者の存在も気になります。この人らも、崇め奉られているのではないでしょうか? 神やイエスの教義を説くのが彼らの主な仕事なのでしょうけれど、荘厳な教会で風格ある服装をして、厳粛な雰囲気で話して……。聖職者に会おうとか一目見ようという人が沢山いるのなら、やはり彼らも崇拝対象なのでしょう。このことからも、やはり一神教としての性格は薄いと言えます。
2.どうして崇拝対象が複数なのか
……とまあ、そんな疑問を常日頃もっていたのですけれど、『サピエンス全史』のこの辺の箇所を読んで解消されました。
二番目の引用は、若干の説明が必要でしょう。人類史の中で宗教は、アニミズム→多神教→一神教、という移り方をしていったと考えられます。
我々の祖先がまだほら穴に住んでいた時代、我々の多くはアニミズム信仰でした。記録が残っていないので想像や推論するしかありませんが、元々宗教とは自然や自然災害との対話を目的としていたことや、狩猟採集民の時代に地球には小規模のコミニティが膨大な数存在したことを考えると、まずは「何にでも神が宿る」といったアニミズムが信じられていたのではないかと。どうしたら獲物を狩って生き延びることができるか。明日の天気はどうなるか。そんなことを、身の回りの現象から論理性をもって導けるように考え出されたのが、霊的な存在でした。森の木々や水の精霊をとおして自然を理解する。それが宗教の始まりでした。アニミズムにヒエラルキーは馴染みません。というのも、自然は偉大で人間がどうこうできるものではありませんから。採集対象の木の実とも、狩猟対象の動物たちとも、仲良くしなければならなかったのです。そうしなければ、彼らから分前をもらうことはできませんでした。万物に皆、霊が宿っていたとの考えだったのです。
それから時代は流れ、農業革命に伴って、人間はアニミズムから多神教に移行していきました。崇拝対象から動物たちを排除したのです。農業革命の時代に王国がつくられ、やがて動物を家畜化する試みが広まりました。そんな中で、動物は人間と同格ではなくなっていったのです。狩猟採集時代は意思疎通する必要があった動物も、家畜となってはただ人間が所有するのみ。加えて王国の必要性に応えて、多くの神々が出現しました。王国というヒエラルキーが発生し、権威の象徴として神々。豊潤の神や、戦争の神や、天候の神など。彼らに供物を捧げることで、人々は望みを叶えてもらおうとしたのです。
さらに時を経て出てきたのが一神教です。権力者らは多神教の神々のうち、自分に都合の良い神が一番の神で、それ意外は偽物の神だと考えるようになりました。知られている一番古い一神教は紀元前1350年のアテン信仰とのこと。古代エジプトにいた神々のうち、当時のファラオ・アメンホテプ4世が、アテンという神を至高の存在だと宣言したのです。
ローマ帝国を支配したキリスト教も、勢力を拡大する中で多神教や二心境の影響を含んでいきました。元々、崇拝対象は神だけだったのかもしれませんが、地元ヨーロッパの多神教の神々を、守護聖人として崇拝対象に加えていったのです。実際、現代のヨーロッパでは聖人の信仰が認められます。イングランドはに聖ジョージがいて、スコットランドには聖アンデレがいて、フランスには聖マルティヌスというのがいるのだといいます。
3.つまり
つまり、矛盾を抱えるのはしょうがないのです。人類史はそういうものなのだから。世界に多大な影響を与えているキリスト教ですら、矛盾を完全に消化しきれていません。一神教と言いつつ多神教の名残が色濃く残っているし、二神教の影響も加わったのが今のキリスト教です。現実の世界に論理学のような無矛盾性を適用するのは難しく、ほころびが出るもの。けれどそれを事さらに悲観してはいけません。そういうものだからです。日常の中で矛盾に出会ったとしても、特段に煩わしく思ったり憂う必要もありません。
例えば仕事での矛盾。私は以前、警察官の仕事をしていましたが、論理的に説明すればするほど相手の反感を買う、という状態に陥ったことがあります。相手を説得するための論理なのに、駆使すればするほど、説得は違う方向に話が進んでしまう。例えば交通違反者を説得して切符処理するとき。違反者の運転状況を説明し、その運転が違反となる法令基準を示す。感情抜きに説明すればするほど相手のボルテージが上がっていきます。人は理屈で説得されることを拒みます。それは、理屈で説得されると、あたかも知的に劣っているかのような印象を受けるのでしょう。理屈がいかに人の内面に入り込んでいるか……。
例えば子育てでの矛盾。「子どもには主体性をもって成長してほしい」なんて思って子育てしていますが、実際にそのような子育てをできているのかというと決してそうではありません。事あるごとに口出しをして、本人の主体性を捻じ曲げながら子育てをしてしまっています。子どもも学校と自宅を往復しながら生活していれば、そのルーティンが嫌になって壊したくもなるでしょう。たまにはいつもと違った出来事を生活に挟みたくなる。部活を休みたくもなるし、習い事の宿題をおろそかにもする。私はそれを指摘して、無理にルーティンに戻します。子どもが「今日は休もう」とか「今回は行かないでいいや」と主体性をもって決めた判断を、「主体性をもって成長してほしい」と願っている私が、主体性をくじくような接し方をしているのです。
例えば私生活での矛盾。車とかファッションとか、くだらないと思いながら、ネットでそれらを探している自分がいます。私はイキったような車が嫌いです。警察官をしていたからだと思うのですが、イキった車を見ると敵を見ているように感じる。型落ちした高級車とか、ギンギラしたフロントマスクの車とか。そんな車に乗りたくないと思っています。が、これは「気になるってことなのかな」とも思います。ユーチューブで車の動画が流れてきたときに、それをクリックして見ている自分がいる。そんな、気に入らないのに気になる、という矛盾した感情を高級車や速そうな車に対して持っています。
『サピエンス全史』を読む限り、私たちの思想や世界の動向に大きな影響を与える宗教ですら矛盾に満ちているようです。ましてや、一般市民である私たちが矛盾のない生活をおくれるはずがありません。生活や思想の中に矛盾があるのは、しょうがないのでしょう。
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