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花巻東が負け、佐々木麟太郎くんが第四打席の三球目にバットを振らなかったのは事実か。 論理で正確な読解などできない

 「われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか」が面白い。進化と幸せの関係についての本。

 先祖たちは、正しいことをしたときに必ず報酬がもらえるという動機づけシステムを進化させた。それが「幸せ」だ。(中略)「動機づけ」は人間の生き残りと繁栄を手助けするように進化してきた。それは、悪い感情に大切な役割があるのと同じように、良い感情にも大きな効果があることを意味する。われわれの進化した心理は、幸せとそれを追い求めることと密接に絡み合っている。つまり豊かな暮らしを送るといことは、主として進化の命令にしたがうということなのだ。

ウィリアム・フォン・ヒッペル「われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか」

 私たちは日々、幸せを追って生きています。レストランで美味しい料理を食べるのは食べた際の幸せを得るためだし、休日を使って本を読むのは知的好奇心を満たす幸せを得るため。けれど幸せは、論理的に説明できるものではありません。どうして幸せを感じるのか、ハッキリとわかるものではないでしょう。例えば、私たちは糖分を摂取したときに幸せを感じます。スタバに並んでいる〇〇フラペチーノや、ファミレスのメニューに載っている季節もののパフェ。これらを食べれば糖分を余分に接種することになる。糖分を余分に接種することは体に悪く、体に悪いことはいずれ不幸を招く。それでも私たちは、糖分の接種に幸せを感じるのです。それから、面白い本を読んでいても幸せを感じます。今日中にこなさなければならないタスクがあるにもかかわらず、読書を優先する。タスクをこなさなければ後で泣きを見るのがわかっているのに。

 このような幸せは、進化によって形作られたもの、というのが本書の主張です。チンパンジーから枝分かれ、森林から草原へ出て、ホモ・エレクトスを得て人間に至る。二足歩行し、言葉を操り、捕食者の頂点に立ち、そして社会を作るまでに至った。この進化の過程が、「なぜ幸せを感じるのか」に説明を与えるのです。そんな進化の歴史と、幸せという動機づけの関係についての本。

 この本の中に、論理についての記述があります。

 人間の精神が論理的な議論を処理する能力を進化させてきたのは、世界情勢を見きわめるためではなく、自らの利己的な信念が正しいのだと他者を説得するためだ

ウィリアム・フォン・ヒッペル「われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか」

 この記述はつまり、論理的思考は事実を読解するためのものではなく、他者を説得するためのものだ、という意味です。論理的思考の効果は主に2つあると考えられます。読解と説得です。論理的に考えることは、他者とのコミュニケーションを円滑にするうえで大切。相手の言っていることを飛躍をもって捉えては、いつまでたっても相手を理解できません。それに自分の頭の中にある考えをうまく言葉に出来なければ、相手はいつまでたっても自分を理解してくれません。読解と説得、両方の場面で論理的思考は必要なのです。

 けれど本書の著者は、論理的思考は説得する際に役に立つのであって、読解する際には役に立たないと述べます。それは、事実を客観的・正確に読解することなど、たとえ論理的に考えたとしてもできないからです。

 欺き行動、というのがあります。私たち人間は多かれ少なかれ誰でもしている、他人を欺いて利益を得ようとする行動のこと。オレオレ詐欺のようにあからさまに他人を欺く行動もあれば、SNSの投稿のように意図しない欺き行動もあります。SNSでは、プロフィール写真には少しでも自分をよく見せる写真を使い、投稿する内容も主として「自分がいかに人より勝っているか」です。

 人間以外の動物にも欺き行動はあり、顕著なものは異性に対するアピールです。自分が遺伝子を残すに足る優秀な個体であることを示すため、動物は異性に対して「自分がいかに優れているか」のアピールをします。鳴き声であったり、派手な羽の見た目であったり、力比べであったり。

 人間や動物の自己アピールが正確に事実を伝えているのかというと、そうではありません。そこには必ず誇張が入ります。SNSのプロフィールは誇張です。より魅力的に写っている写真を選んで載せているのですから。動物の異性に対するアピールも誇張です。盛っているのですから。遺伝子を残すに足る優秀な個体であることと、鳴き声・見た目・力強さは、関係なくはないとしても隔たりがあります。これら欺き行動は、事実を正確には伝えていません。相手の意見を客観的・正確に読み取ろうとしても、その意見を伝える言葉や文章が、すでに事実ではないのです。

 これはレトリック学者・香西秀信氏も著書の中で頻繁に指摘していること。「レトリックと詭弁」の中で香西氏は、議論を有利にするテクニックの一つとして「具体例を限定する方法」を上げています。

 説得力のある例証は、必ず我々の判断に都合のよい「偏った」具体例によってできあがっている。

香西秀信「レトリックと詭弁」

 私たちは相手を説得しようとする際に例証をつかいます。「例えば」といって具体例をあげ、意見が、実際に事実に裏打ちされたものであることを伝えようとします。けれど、この具体例がすでに偏ったものです。たくさんの事実の中から、自分に都合のよいものを選んでいるに過ぎません。事実は星の数ほどあるのですから、使っていけばいずれ都合の悪い事実も出てくるでしょう。それらに目をつむり、自分の主張に合致する事実のみを具体例としてあげる。それが例証なのです。例証によって説得力を出す者はうまく、自分に都合の事実を拾っています。

 例証においては、いかに巧みに偏るかが論者の腕の見せ所となります。

香西秀信「レトリックと詭弁」

 私たちは事実に説得力を感じ、事実とは世界を客観的に伝えるものだと考えますが、そうではありません。説得力のある事実とは、論者によって歪められた世界の見方であり、決して客観性があるわけではないのです。

 もしかしたら、こう思う人もいるかもしれません。「世の中そんなに悪い人ばかりではない。客観的に事実だけを説明しようとする人もいるはずだ」と。けれど、偏っている人は意図して偏っているだけではありません。自分としては意図せず偏っている人もいるのです。

 同じ香西氏の本からの引用になりますが、「論より詭弁 反論理的思考のすすめ」の中で香西氏は次のように述べています。

 いかなる客観的な陳述も価値判断であることから流れることはできない

香西秀信「論より詭弁 反論理的思考のすすめ」

 これは何ということでしょうか。いかに事実だけを伝えようとしても、私たちにはそんなこと出来ない、と香西氏はいうのです。

 たとえば、私が友人との会話で甲子園の話題を持ち出し「昨日、花巻東が負けたね」と言ったとしましょう。単純に考えれば、これは事実のみを表現しています。西暦2023年8月20日の前日、高校野球甲子園大会で仙台育英VS花巻東の試合があり、この結果、9回が終わった時点でスコアは9対4でした。野球のルールによれば、これは仙台育英が勝ち、花巻東が負けたことを意味します。であれば、私が友人に伝えた「昨日、花巻東が負けたね」は正確に事実のみを表しているでしょう。この表現のどこに事実でない価値判断、個人的意見が含まれているのでしょうか。

 それは、私が高校野球の話題を、花巻東が負けたという事実を言おうとしたことにあります。というのも、「花巻東が負けた」ことが野球のルール上事実だとしても、その話題を選択した行為は、意見としての性格を帯びているからです。
 どうして私は「昨日、花巻東が負けたね」という話題をわざわざ選択したのでしょうか。それは、私が高校野球の話をしようとしたからであり、仙台育英VS花巻東に興味があったからであり、その勝敗が印象に残ったからです。さらには昨日の話をすることに意味があると思ったからです。
 何気ない会話の中の、ただ昨日起こったことを告げただけでも、その裏には数えきれないほどの意見が潜んでいます。私たちは、事実のつもりで意見を言っている。他人に対して、意図せず自分の意見、偏った事実を伝えようとしているのです。

 このように、「われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか」「レトリックと詭弁」」「論より詭弁 反論理的思考のすすめ」の3冊を紹介する中で、事実を伝えることは不可能だということを話してきました。
・人間を含め動物は、誇張して物事を伝えようとする生き物。
・例証とは、論者に都合のいい事実を拾い集めたもの。
・どんなに客観的に見える陳述にも、意見が含まれている。
なので、どんなに私たちが相手の意見を客観的・正確に読解しようとしても、その意見がすでに十分に偏っているのです。たとえどんなに論理的思考を鍛えたとしても、客観的・正確な事実の読解などできようはずもありません。



参考

 感情の出処を進化の過程に求める本。そう考えると、感情はあながち短絡的ではないのでしょう。
 理屈と感情を対立させて、理屈を長期的視座に立った、感情を短絡的だとする考えがあります。例えば甘いデザートを見て、「美味しそう」という感情に任せて食べるのはいかにも短絡的。けれど、この「美味しそう」という感情ですら、永い進化の過程で得られた動機づけシステムが起こしたもの。だとすると、感情に身を任せてデザートにむしゃぶりつくのは広く多くの人類のためであり、長く遺伝子を残すための動機づけかもしれません。


 私がロジカル・ハイを意識するようになったきっかけの本。「まえがき」が逸品です。

 人間は論理的な生き物であり、論理を、理屈を通すことを最も重視するがゆえに、自分が論理で説得されることを嫌う

 この文章を読んで、いくつもの現象が説明付けられるようになりました。質問すると反感を買うこと。納得のいく説明をしようとすると余計に人が離れていくこと。マウントを取ろうとすると理屈っぽくなること。すべて理屈を通すことを最も重視するゆえに、論理的であることの気持ちよさ・ロジカル・ハイゆえの現象として説明できます。


 本文でも紹介しましたが、言葉で何かを表現することはすべて詭弁です。事実と意見の区別は困難ですから。例えば「佐々木麟太郎くんは第四打席の三球目、バットを振らなかった」という文があります。バットを振らなかったことは、映像を見たりすれば検証が可能。けれど実際の事実は、彼はただ「バットを構えて立っていた」のであり、「振らなかった」のは語り手の期待あるいは予想が生み出した疑似事実にすぎません。「佐々木麟太郎くんは第四打席の三球目、バットを振らなかった」のもやはり、語り手の意見となります。


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