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書くたびに醜くなっている気がする。

毎日投稿つまんねえ。

やってみて気づいた。楽しくない、というか苦痛だ。面白くないことが多すぎる。
好きで始めたことだった。好奇心に従った。その道の門出がこのザマですか? よくもこんなものを厚顔無恥にも利用者に背負わせたものだなあ、note.com(株)よ。フザケンナ。

まあ、やるんですけどね。今日くらいは。いちおう10日目標にやるって言っちゃったんだ。やめるかもと無責任に言い放しておいてほしょぼしょとやってることほど心内尊厳が高まることはない。やりますよ、誰にも強制されないぶんやめられないってもんだ。誰にも責任転嫁できないからね。

毎日投稿をしてみて気づいたことがある。書きたくない日もあるもんだ。書いているうちに弱さが、醜さが抑えようもなく溢れ出てきてしまうような晩の暮れだ。情けなさに押しつぶされ、布団に組み敷かれることでようやく人としての理性を閉じ込めておけるような冬の夜だ。そんな日だって、頭蓋の外では数字の板が針を回す。やらなくてええんかとちゃらけてせかす。
わすれろわすれろわすれろわすれろわすれろわすれろ。
そんな義務なんかわすれろおまえはそんなことをしている場合じゃないんだ。ひとりで苛まれろそれこそがつみだつぐなえつぐなえつぐなえつぐなえつぐなえ。
だが、手を引かれて連れられる先、そこには言い訳の甘美なる宴。わすれているあいだ、獣になった気がした。そのあとには、楽になってしまった自分だけが残った。嗚呼

醜いなあ。こんな自分は知りたくなかった。見たくもなかった。感情を一刻も留めておくことすらできないなんて。

楽しいことだけ書きたかった。ウケることだけ見せたかった。つまり、書きたいことだけ書きたかった。なんで、こんな書きたくもないこと書かなくちゃいけないんだ。なんで弱い部分を見せないといけないんだ。俺が見たかったのはこんなゴミみたいな自分なんかじゃなかった。
そして、ゴミみたいな部分を面白がられたことに救われてる自分がいた。
おい、救われたらだめだろう。
そんな、自分も嫌いになった。

他にもある。どうしても面白いことがない文章、自分でも面白くないことを”頑張って”書いている自分だ。
そんな時でも書いてみてわかった。1000文字が遠すぎる。なんでくだらないことならスラスラスイと書けるのに、頑張ったらつまらない面白くないことしか取り出せないんだ?
だが、つまらないのは書いている時だけで、頑張って書けない自分を少し好きになれた。願ってもない収穫だった。

スマホを見る時間が増えた。わかったことは、PCであろうとスマホであろうと記事を読むには集中できる場所と時間が必要だ。椅子に半腰掛けただけで通知だけ開いて何かをした気になっている時間が多かった。自分を開示している以上、反応は気になるものだ。そんな自分は少し嫌いだ。大抵は更新されないyoutubeをだらだら眺めるコースへと動線誘導されてしまう。昼間にいつものチャンネルを再訪し、やっぱ俺って働いてないんだなとむなしく終わるだけならまだいい。新規ジャンル開拓が成功してしまった日には目も当てられない。日単位で時間が飛ぶ。スマホは常に意識し続けるという意味では悪いことではないのだとは思うが、その代償に図書館に全くいけなくなってしまった。弟に問題集も課されているというのに。フルコミットするしか自分を律する手段はないとわかりつつ、改善の余地は大いに見られた。まあ、そういうシステムで動いてしまう自分はかなり好きだ。

毎日投稿、やってみて知らない自分に出会うことが出来た。そういう意味ではやってよかった。だがこれは実質、三食の租餐を馬鹿丁寧にインスタにあげている廃どもと本質的には変わらない。自身のアーカイブ化だからだ。そういう意味では記事の不調も含め、良質な記録であることには変わりがない。今後もぜひ続けるべきだと思った。すくなくとも、理性部は。

さしづめ、今後は臆面もなく100文字の記事を上げられるようになりたいものだ。