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この世に存在する美しいものを絶えず探しにいきたい

大曲花火大会に行った。秋田県。

大曲花火大会は日本三大花火大会の一つだと、母から聞いた。あと2つは新潟の長岡花火大会と、茨城の土浦らしい。日本といってるくせに、かなり東に寄ってる。

そういえば、私の地元広島は宮島の花火大会が豪勢だったんだが、なくなってしまったらしい。厳島の鳥居と水中花火のコラボはとびっきり美しかったのに。
まあ、幼かった私にとっては、水中花火は水中に投げ込まれた爆弾でしかなくて、心臓と耳を守るのに必死だったんだが。(それらを全部守るためには腕が2本では足りなかった。)

話はそれたけど、そういえば大曲花火大会には、他のとは違うある特徴があった。
それは、「競技大会」だってこと。
若手花火師が一つ一つ丁寧に火薬を込めた花火玉が、秋田の暗闇を照らし合うのだ。そういえば、秋の東北は寒かった。普通に油断していた。

競技大会という謳い文句の通り、大曲の花火大会には、一般的な花火大会にはない演目があった。それは、たった一発の花火玉を丁寧に一つ一つ打ち上げる章だ。花火が上がる前には、都度花火師の名前が読み上げられていた。

そのたった一つで輝く花火は、ドンと大きな花を咲かせてまもなく、秋田の夜空に溶けていった。一瞬で。

刹那的。あんなに大きい花火玉は、この一秒で、この一瞬で消えてしまうのだ。なんて儚いのか。

一つの花火玉を完成させるのにどれだけの時間と労力がかかるのか、わたしは何も知らない。でも、何も知らない人間でも、この大きな花火を一つ作るのがどれだけ大変かは、何となく分かる。

こんな壮麗な花火が一瞬で消えてしまうことが本当に儚なかった。
でも儚いからこそ、心に響くものがあった。

真っ暗の空にひらひらと光の筋が伸びていく。
そして轟音とともにブワっと花が光って、それが目の奥を刺激する。
その花は眩しくて、美しくて、暗闇の世界すらも彩り照らしてくれるようだった。まるで私だけに輝いてるように思えるくらい、まっすぐに、ぐさりと心に届いた。
そして消えていくの金色の光は、煌めきながらそのまま夜空に溶けて、星になりそうだった。


何発もの花火を一度に打ち上げる破壊的な美しさはそれだけで感動する。
だけど、大曲で花火師の存在をしっかりくっきり認識した途端、花火玉をいっぺんにたくさん打ち上げようという彼らの献身に胸が熱くなった。

花火が終わり、余韻で未だ感動が止まず呆然としていると、周りの人たちが次第に様々な色のライトを振りはじめた。なんだ?何が起こってるんだ?と辺りを見回すと、どうやらお客さんたちが振っているのはペンライトだった。そして対岸に目をやると、数々の赤いライトが揺らめいていた。

花火師とお客さんがライトを通じて会話してるのだ。
互いのありがとうをペンライトに込めて、贈り合うのだ。気持ちを伝えるためには、時には言葉よりももっと強力な手段があることを私はその時はじめて知った。

なんて美しい文化なんだろう。
その光景を多分この先忘れることはないだろう。
その感動はくっきりと心に刻印された。


帰り道、つい撮ってしまった動画を再生してみた。この美しいものを自分のものにしたいとつい思ってしまった。
その刹那性がもたらした感動そのものは、画面には映っていなかった。映像という永遠のものになった途端、刹那性が持つ美しさは陽光を浴びて瞬く間に灰になるドラキュラの如く、風に舞って消えるのだ。
その映像には、ただただ夜空に乱れ咲く色とりどりの花だけがそこにあった。

でも、思い出はちゃんと映っていた。

あの時感じたほどの美しさまではカメラに映り込まないけれど、美しい思い出はしまいこんでくれる。大切な人と見た、心を震わせ瞳を潤ませた思い出。
カメラとは、美しさを納めるものじゃなく、思い出を納めるものだ。少なくとも私にとっては。

美しさが刻まれるのはカメラフィルムじゃなく、いつだって私たちの心だけなのだ。
画面越しの花火が教えてくれた。

思い出は永遠だけど、目に見えない。
だから思い出を形にしたくなる。本当は、形のないまま、心に仕舞い込んでいたいんだけど。
でも、私はまだ形のないもので心を満たせるほど大人じゃなかった。
思い出を目覚めさせてくれる引き金が、まだわたしには必要なんだ。


この世界には、人々の心を焼き尽くすものがたくさんある。
そしてまだまだ未開の美しさもたくさんあると思う。
その感動を、ずっとずっと探し続けていきたい。
この世界に生きている限りは。

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