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現実が受け入れられない時は"視点"に着目せよ

生きていればいろんなことがありますよね。
時には、首が痛くなるほど高い壁にぶち当たることもあります。もう立ち上がれないかもしれないって感じる時もあります。

で、いろんな壁にぶつかった時いつも息が詰まるような苦しみを感じてはもがいてたんですが。
でも鬼の内省の結果、自分の思考が自分の首を絞めていることが多いんじゃないかと、感じはじめたのです。
なのでこのnoteを綴っている次第です。

世に蔓延る悪が自分を蝕む感覚が消えなかった

先日、うつ病治療のため病院に行った時。
精神科医の先生の対応がわだかまりとしてずっと心に残ってて。

私が何を聞いても、
”最先端で実績のある治療を受けていれば大丈夫”
と一点張りだったから。
まるで患者の気持ちなどお構いなしかのように、ただただ高額な治療方法を押し付けるだけのようにしか感じられなくて。

結局、私が聞きたかったことを聞く隙もないまま、スパッと診察が終わってしまいました。

デスクに山積みにされた分厚い専門書に目が留まり、ここまで相当な努力があったのかなと伺える。でも、今のこの振る舞い。
どうしても、そのお医者さんに不信感を持ってしまう。

"ああ。人は一度富を手にしてしまうと、その快楽に目が眩んで、人の心なんかお構いなしになってしまうのかな。"

この世界は悪だ。
この世界は悪で満ちた世界だ。

と、どうしても人間が性悪説としか思えませんでした。


世の中には優しさも、思いやりも、無償の愛も、たくさん存在してることは、知ってるつもりだった。

だけど、例え世界に優しい一面があったとしても、どうしても、人はすぐ騙そうとする。すぐ傷つけてくる。すぐつけ込んでくる。

人を信じたいのに信じれない。
いいところもあるのに悪いところばかり感じ取ってしまう。

まさに絶望でした。
でもそれと同時に、自分の世界の捉え方がかなり歪んでることも認識していた。

世界が性悪説にしか見えてないのは、きっと認知の歪みだ!と。
わたしに必要なのは、ものの見方を変えることでした。

全然考え方を変えることが出来ない...

なんとかこの世界を別の形で捉えるべく、まずは先人たちの知見を掘り起こしていました。

とある心理学者によると、
人間は理性によって情動のコントロール可能。でも、強い情動が脳をハイジャックし、誤った/行き過ぎた行動に走ってしまう人がこの世界には溢れてるらしい。

私欲が頭を支配して、結果人を傷つけるというのは人間の脳の仕組み上どうしても起こり得る、と。
私たちは、制御しきれなくなるほどに感情が暴走してしまうことがある、と。これは人間である以上しょうがないんだ!!と。
ふむ。

人類学の本によると、
人類が創りあげた”社会”は光の速度で発展し続けてるが、人間の脳は所詮、狩猟採集民族の時代のままらしい。

生物の進化には莫大な時間がかかるのに、社会があまりにも早く発達しすぎるから、正味みんなが右も左も分からないまま必死に生きている。
だから、混乱し衝突するんだ、と。これも歴史的観点で見てもしょうがないことなんだ!!と。

ふむ。

いろんな本を読んで、世界のこと人間のことを段々と理解してきた。

でも。

なぜかこの現実が、より鮮烈に残酷に見え始めてしまった。

力による暴力、言葉による暴力は無くならないという事実。
そして罪なき人々が傷つくことを免れない事実。

人間には狂暴で残酷な面もあって、それがいつ剥き出しになるのか分からないこの世界で、どうやってこの世界を肯定的に解釈すればいいんだろうか?と。
皆目見当がつかなくて。

もっと悪に対して鈍感になりたい、とか。
もっと悪が見えなくなってほしい、とか。

そんなユートピアみたいな解決策しか頭に浮かんでこないし。

あああ!
考え方を変えるって甚だ難しすぎる!!

自分の中にこびりつく黒くドロドロした思考回路が剥がれない。考え方が変えられない。変わらない。変わる気がしない。

考え方を変えることの圧倒的難しさにただただ絶望するだけでした。

そんな時過去の原体験を思い出した

魂が抜けたままカフェから街を眺めていた時。
どういうわけか、3年前にアフリカのタンザニアに滞在していた時のことをふと思い出したんです。

アフリカ、タンザニア。
この地域の治安は悪いし、生活水準もかなり低いし。妙に平和ボケしている日本とは、言うまでもなく環境が違う。

ここに暮らす人々はどういう思いで暮らしてるんだろう、ってあまり想像もできないままタンザニアの地に踏み入りました。でもそこに暮らしている人たちは、なんか思ってたのと違った。

なんかみんな楽しそうだった。

何か小さな幸せを見つけては、子どものようにはしゃいでて。それが、その当時の私にはどうも矛盾して見えて。

どうして?なんでそんなに楽しそうにいられるの?
と、純粋に不思議でしょうがなくて。

完全な思い込みだったけど、貧しさとか治安の悪さとかと幸福感がその当時の私の頭の中では繋がってなかったんですね。

でも、彼らは毎日を楽しそうに生きてた。すごく楽しそうに。

そんな彼らの、明日への希望を真っ直ぐ見つめるような澄み切った瞳が、私の目にずっと焼き付いてて。

たぶん、たぶんだけど、彼らはこんな風に世界を捉えてんのかな、と。

この世界に悪があるのは当たり前。
悪はあるしこれは逃れようがないけど、でも、この世界にも温かさや優しさ、喜びもある。

こんな感じかなと、そう見えたんです。
世界には悪があるけど、それを承知の上で、目を輝かせてた。
私に到底できなかったことをしてた。

事実を事実としてニュートラルに捉えることが、苦しい思考を断ち切るハサミとなる

アフリカの回想で気づいたんです。
自分がどれほど視野が狭くなってたかに気づいたんです。
歪みまくってて、狭まりまくってた悪魔の主観に気づいたんです。

そして、捉え方を転換するためには、感情を切り離してものを見る必要があったんです。

私は、世界に見え隠れする悪を、"あってはならないもの、あるべきじゃないもの”と捉えてた。この捉え方には強烈なエゴがあり、感情が介入してます。
もし世界の悪を、感情から切り離して捉え直してみると、「悪が存在している」ただそれだけになります。

簡単に言えば、物事を冷静に把握することが欠落していたんです。
そして理屈っぽく言えば、理性をうまく使えていなかったということです。

物事を、感情を通じてしか見れなかったから、
”悪に対して鈍感になりたい、どうすればこれが達成できるのか?"という感情視点での解決策し生まれてこなかった。
そして大体こういう感情視点の考えは実現不可能だったり、論理の飛躍が甚だしかったりする。

そう、めっちゃ苦しくてたまらない時は、主観は悪魔だと思った方がいい。

ものごとの捉え方を変えるには、感情視点で見ることを辞めること。
事実のみをただただ情報として抽出すること。

この視点をインストールしたことで、
悪が存在するのは、大気中に酸素が存在することのように当たり前。って思えるようになったんです。
悲しい現実なことに変わりはないけど。

そして、この事実を事実としてそのままを認識できたことで、

”悪が存在する世界だけど、善もまた必ず存在するんだ”とも思えるようになった。少しずつだけど。

この気づきによって、ものごとの捉え方を変えるとはどういうことなのかがすとんと腑に落ちたんです。

今を生きるために必要なマインドセットとは

人間の知性は、皆が平等に持つ賜物です。
苦しい時は、知性の出番です。
結局やっぱ、知性に帰結するんだなーと思うばかりです。

スティーブン・R・コヴィーの著書『7つの習慣』に、とある引用が記されていました。

主よ、私に与えたまえ。
変えるべきことを変える勇気を、
変えられないことを受け入れる心の平和を、
そしてこれら二つを見分ける賢さを。

この言葉、キリスト教世界の言葉なんですが、私が人生で出会った言葉の中で最も感動・尊敬する言葉です。今のところ。

生きていればいろんなことがあります。
たとえこの世が暗い側面を持ってたとしても、温かい側面だって存在してるというのも事実。

あたたかい一縷の光を自分の力で探し出し、それを握りしめて明日を生きていくこと。
そして自らが、あたたかい光をたくさんの人に届けること。

このことを忘れず生きていきたいものです。

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