見出し画像

月日とともに、悔しがるのも下手になった。


月日とともに、悔しがるのも下手になった。

最近、悔しいことはありましたか。
叫びたくてどうしようもなかったり、思い出すだけで涙が出てしまったり、
どうしても誰かに話して楽になりたくなったり、そんな幸せな悔しさに最近出会いましたか。

僕は今日、そんな出来事があったので、このnoteを書くことにしました。
思えば、なんだか悔しくなることも、かなしくなることも、腹が立つことも、ここ最近少なくなった気がします。


振り返ると、小さい頃はよく悔しがっていました。
兄にゲームで勝てないこと、兄にサッカーで勝てないこと。自分はお下がりばかり着せられるのに、妹は新品を買ってもらっていること(これは僻み?)、テストで満点取れないこと、親友に塾の月例テストで負けたこと。50m走のタイムが遅くて、リレーの選手に選ばれなかったこと。スタメンのポジションが奪われたこと。
全部悔しくてたまりませんでした。

小さいころの僕はとても泣き虫で、その都度泣いて、父親に泣き真似をされて、それがまた悔しくて、なんども近所のおばあちゃんちに小さな家出をしていました。

もしこのころの僕のまま大人になっていたとしたら、毎日泣いているでしょう。仕事がうまくいかなかったり、やりたい仕事が回ってこなかったり、電車で空いた席に座れなかったり、発売してすぐ書いたい本が売り切れてしまったり。ほんとそれだけで号泣しているであろう幼い自分が目に浮かびます。

でも今は泣きません。悔しいとすら思わないことの方が多い気もします。

当たり前のことを当たり前のように書きますが、悔しいとすら思わなくなったのは、泣いていたら涙が枯れてしまうからです。
誰も保護してくれなくなった以上、自分の感情には自分で折り合いつけて、前に進まなければならなくなったからです。

だから泣かなくなった。あえて鈍感になって、前に進めるようになったんだと思います。気づいたら無意識に我慢ができるようになっていたという感覚が近いかもしれません。

問いが僕の中にふと浮かびます。
このままでいいのでしょうか。大人になるってこういうことですか。
感情を抑えて、仕事をした先に何があるんでしょうか。

正直僕はそこまで道を進めていないので、まだわかりません。
でも、我慢の先には我慢しかない気がします。
どれだけ前に進んでも、自分の感情は置いてけぼり、進めば進むほど置いていかれた感情との距離がどんどん離れていってしまう気がするのです。

僕が冒頭で幸せな悔しさと述べたのはここに理由があります。鈍感になる術を身につけていながら、それでも無視できない。感情が動いてしまう。置いてけぼりにできない悔しさと出会うことは、そんな簡単なことじゃないと思うからです。

今から、心が鈍感であることを改めて自覚し小さな心の動きにもしっかり目を向けてみませんか。置いてけぼりにしてきた感情を、ちょっと呼び戻してみませんか。

悔しさだけの話ではありません。例えば面白さ。コンテンツが世の中に溢れている今、面白いと思えるものは少なくなってきました。鈍感になったということと同義です。「うんこ」というクソくだらない言葉でも、でんぢゃらすじーさんではもう笑えないかもしれません。

悔しさも面白さも、他にも悲しさも切なさも怒りもやるせなさも全部、置いてけぼりにしてきた気持ちを呼び戻して一緒に前に進みたいなと思うのです。


いいこといった風ですけど、ほんと、枕に向かって叫ぶくらい悔しいことがあったんです。あぁ悔しい。自分のできなさに腹が立ちます。もっと頑張る!

今日も読んでくださりありがとうございます。また明日、この場所で。

サポートしてくれたお金は、しんどい時の焼肉に使わせていただきます。謹んで暴食します。一緒に来ます?