チタニウム / 創作
ボール遊びの出来ない公園。プライベートブランドの具なんか僅かも入っていない袋麺を食べる時のような、パッとしない最終回で終えてしまうドラマを見ている時のような、どうしようもない違和感を覚える。
区画整理も終えてしまって、ポツポツと家が建った場所に私は生まれた。ワンフロアに4つの部屋が立ち並ぶアパートの角部屋。隣にはもうひとつ、同じ形をしたアパートがあって、二棟ともレンガ色だった。私が小学校2年生の頃、お隣に工事が入ってあちらは明るい翡翠色へと変わった。毎朝、布団から起き出してくると私は一目散に掃き出し窓に向かい、そこから見える明るい色の建物を眺めては、母に「わたし、あそこに住みたい」と口癖のように呟いていたという。色が違うというだけで部屋の中身は何も変わらないから、 変わらず私はここに母とふたりで住んでいる。玄関を向くようにして設置されていた学習机はいつからかコンパクトな書斎机に代わり、窓の方を向くようになった。
休日になると決まって、何をするでもなく、そこから外の景色を眺めることが日課になっていた。風光明媚な山々が拡がっているとか、海原の奥に水平線を望めるなどというようなことはない。何事も煮詰まっている地区だから、家、フェンス、街灯、樹木、どれをとっても同じ光景が延々と流れている。
その中で唯一、人間だなぁという働きを刮目できる地域こそが、公園だった。朝になればウォーキングを趣味とする人々が行き交い、夕方になれば集まって遊ぶ子どもの姿が見える。休日になればゲートボールに励む老人の姿、時に体操で身体を動かしたりといったように、時間や時期ごとに変化する景色が個人的な励みになっていた。
公園を駆け回る子どもの姿が消えたのは少し前のことで、ボール遊び禁止という制約が設けられたことを知ったのはそれから間もなくのことだった。理由はよく分からないし、誰が問い詰めたところでまともな返事は帰ってこないことは、想像に難くない。
城を奪われた少年たちはそのご禁制に屈する形で、誰も遊びに来ている様子はなかった。ボール遊びは勿論、遊具にさえ齧り付く姿も伺えないまま、淡々と夏が終わっていく。生活を送るにあたって外を眺める傍らにある、ほんの一部でしかなかった子どもたちの存在は、思った以上に私の励みとなっていたようである。その頃から私は、表の世界を窺うことをきっぱりと辞めている。
私にはどうやら、眠い時に音楽を漁る癖があるらしい。布団に潜り、何かを想像するにも困難なほどに寝惚けきった枕元にて、好きなアーティストの好きなアーティストなどを眺めて、プレイリストに闇雲に投入しながら息絶えている。
" どうやら " というのも、前日夜半に聴いた、鮮明な音や記憶が何ひとつない状態で目を覚ますことがこの頃続いているからであって、
その前日の負債を消化する作業が、眠気覚ましの要領で毎朝行われる。今日は眠りの園から 「田園」というバンドと、「ひとひら」というバンドをそれぞれ拾ってきた。いつもより早くに目が覚めてしまって、白む空を見ながらイヤホンをはめる。ベランダに出てから再生ボタンを押すと、遠くの方に子どもたちの声が聴こえたような気がした。何回も聴き流しながらその声の主を探してみる。がらんどうの公園を眺めながら、その、ずうっと遠く。
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