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第2の祖母が亡くなった日。

茫然自失の状態を乗り越え、穏やかな気持ちでドビュッシーのアラベスク第一番を聴けるようになるまで実に二週間もの時間を要したので、書道筆ではないこそすれ、こうして筆を摂る。

これ小学校4年の頃から書道を始め、中学3年になるまで筆を取り続けた私の話。何をやっても三日坊主であった私が、ひとつのことに6年間という時間を費やすことができたのは、書道半紙に向かうにあたって何処か沸き立つものがあったのだと思う。高い墨汁と安い墨汁の値段の差には様々な理由があれど、そのほとんどは製法の違いにある。当時私が通っていた書道教室で使われていた墨は植物質由来のもので、硯になみなみ注いで香るにも決して心地よいものではなかった。今では頭から離れかけている匂いを形容しようというのだから困難を極めるが、強いて言うなら生乾きの洗濯物にほど近い匂いであり、硯にそれを移す時には必ず鼻をつまんでやり過ごしていた。それが今では恋しいような気もする。生来嗅覚ばかりが過敏な私が、噎せ返るような香りをもう一度感じたいというのだから、これは余程のことに違いない。

書道教室に通い始めた当時、先生は86歳。短大の講師を始めとする様々な職を経て実に40年近く、書道教室を開いていた。算数の筆算が全くダメで尚且つ時計を読むにも四苦八苦していた幼子の私にはその数字の重みが分からなかったが、90を跨がんとするその体躯で筆を握るパワーは凄まじいものであったということを、今となってはよく理解している。
「こんちわー」と間延びした声で戸口を開けた9歳の少年は道具一式を用意したかと思えば、カレンダーを敷き詰めた敷物の上でよく眠っていた。時に " うるせぇ " などと軽口を叩いていたこともある。その度に、彼女の口から 「お母さんに言うからね」とひと言、伝家の宝刀を抜かれる形でようやく書道机に向かうのだった。墨液の匂いには慣れる兆しはなかったが、その臭気が揮発した教室の中の空気は好きだった。ごくたまに良い字を書くと、柔らかな手でわしゃわしゃと私の頭を撫で付けられるのが癪で、ぎゃーと声を上げては逃げ回っていた。
書道歴を積み重ねてからは楷書一択であったものが行書と同時並行になり、一時間ばかりの教室で二枚書く必要があった。この頃から純粋無垢な少年の心には思春期が訪れていて、小狡い性格を生かして前週に書いたものを提出するなどしていた。そうして中学に上がる頃には準4段までの階級を会得する。サボタージュを決め込みたい日も当然ながらあった。塾に着く道すら引き返したことのある経験からすればちょうど良い所で手を抜くことも容易だった筈であるが、不思議なことに休みなく通えたのである。一人ひとりの子供に慈愛を持って接し、クリスマスが来ればクリスマス会を開いてもらった。普段は墨の匂いしかしない、陰陰とした部屋が忽ちぱあっと明るくなり、出てきたケーキを無心で頬張る少年はいつしか、彼女を第2の祖母として感じるようになっていた。中一の頃に行われたクリスマス会。こちらがフリクションのボールペンを並べたプレゼントを持参し、ラジカセの音楽に合わせて交換をすると私の手に渡ったのはディズニーランドの古びた袋だった。その中には食べかけのおかきといつ発刊されたかも分からぬ萎びた漢字練習帳が入っていて、当時私は烈火の如く激高してしまった。それすらも良い思い出としたいが、24になった今でも記憶の波を少しだけ荒らしてしまう。

書道教室を辞めると伝えた2週間後のことであっただろうか、清濁併せ呑むような煩雑な箪笥の中から小綺麗な桐箱を運んで来たかと思ったら、中の遺影を私に見せてくれた。「亡くなったらこれが飾られるのよ」と笑う隣でひとつも笑うことが出来ず、まだ死ぬわけないじゃないと戸惑いを隠すことで精一杯だった。中学3年の初めに祖父を亡くし、曲がりなりにも人間の死について考えていた私にとってそれはかなり リリカル な体験であったと思う。
筆を止めた後も暫く、祖母に言い付けられて野菜や茶菓子を持って教室に通った。教室が終わる頃に裏戸口から顔を出す度に、水槽の中で泳ぐ金魚を見せて貰った。13、4のらんちゅうがヒラヒラと鰭をはためかせて泳ぐ姿は何とも優雅で、ガラス面には苔ひとつ生えていない。荒廃を極めたような教室兼自宅とのギャップは大きかった。

訃報を受けたのはお盆に差し掛かる暑い日のこと。明朝あまりの暑さに目を覚まし、エアコンの温度を下げて寝入ってしまった。階下からこの報を伝える母の声も、夢か現実か判断が付かぬほどの昏睡具合で、3時間動きを止めつつようやく起き上がる、いつも通りの休日だった。
おくやみ欄を開くとなるほど、市町村表記の一番目に名前があった。寝起きの意識の薄明たる加減もあってか、現実と理解しながらも現実ではないような感覚だった。最も生前、病気は愚か風邪ひとつ患うようなことのない人であったからこそ、呑み込みにかなりの時間を要したものと思う。

しばらく使っていなかった礼服に身を包んで通夜の会場へと向かった。とはいっても通夜は事前から実施の予定がなかった為、準備がなされた式場に祖母と赴いた。暗い居室に、煌々と非常口の灯りが点っている。ずらりと並ぶ供花、豪華絢爛な祭壇もほの暗い中では現実すらも放棄しているようで、ここまでは不思議な気分だった。フライングも良いところで、腰を弱らせた祖母がごく勝手に棺桶の鍵を外した。止める頃にはもう遅く、薄いアクリル板の向こう側に故人の顔がある。眠っているみたいに、という月並みな言葉があるがそんなことはなかった。私の知らないところで細くか弱くなっていたようで、死装束の間から見える肌目には黄疸が窺える。 " ああ、もうこの世には居ないのだな " と思うと同時に前触れもなく涙が溢れた。会場の廊下にはこれまでの人生を物語る写真が飾られていて、私の知っている遺影もそこに飾られている。その中に亡くなる前に撮られたであろう写真があった。印字された日付を見るに今年に入ってからのもので、娘や友人と並ぶ彼女の頭上にはソメイヨシノが満開に咲いている。
花の咲き加減でもって数字を追わずとも大抵の時期を想うことができるのは日本くらいで、明確な四季は生への喜びを増幅させてくれる。同時に、死への痛みや哀しみも増幅させてくれるようだった。「桜が見れたんですね、」とひとりごつと、一度は裏にはけていた涙が再び溢れ出る。どの写真にも浮かぶ優しい微笑みから、私の知らない思い出までが何葉も思い起こされて、薄手のハンカチが湿るほど泣いた。

翌々日の葬儀の日は仕事がみっちりと入っていたが、無理を言って早出をさせてもらった。道中国道脇を走る白い自転車が、薄いレースであしらわれた大きなハットが、あらゆる形で彼女に見えてしまって信号待ちの旅に目元を拭わなければならなくて、日焼けと言い訳も聞かぬほどに紅潮させて斎場へと入った。親族焼香から親近者の焼香、果ては退場に至るまで流れ作業のようで、表に停められた霊柩車は今か今かと待っているようで、寂しい気持ちばかりがむくむくと膨らむ。享年98歳。ひと月後には99歳を迎える誕生日を控えていた。大正昭和と戦争に塗れた時代を生き抜いた、歴史の生き証人だった。" 食には決して困らぬように " と名付けられた " 米子 " の二文字は、戒名にも用いられる形でしっかりと刻まれている。

頑固で卑屈な祖母とは対照的に、第2の祖母は柔和で溌剌とした人だった。まだ自転車に乗れるほど健脚であった初春に、隣宅の祖母を訪ねてきたのを最後に会えぬままに別れを迎えることになる。その日祖母は確かに私を呼んでくれた。「お茶を飲みに来ているから顔を出しなさい」という華々しいお誘いを、くだらぬ理由で断ったことは、どうにも悔やまれる話である。
斎場を出る前に孫娘より、よく私の話をしてくれていたことを告げられた。暇さえあれば鉄砲玉のように辺りを飛び回り、減らず口を叩く少年をどう思っていただろうか、今、尋ねたい。

出来ることならもう一度、頭を撫でてもらいたい。香典返しを貰った直後、家族に願い出て火葬場まで着いていくことすら考えたが、私を私と知っている人間が肉体から切り離され、小さな壺に収まってしまう光景を見るのはとてもじゃないが耐えられるような気もせずに止めた。私の先祖が眠る墓より、少し歩いた先に彼女が眠っているという。明日こそ決別の気持ちを携えて、墓参りをせねばならない。

朝4時を超えて、少しずつ空が白やんでくる。蝉の声よりも秋虫の声が響き渡るようになってからが秋本番だ。8月の初旬から随分と風向きも変わって、日の出もかなりの遅れをとるようになった。20代そこそこでまた朝か、と思うのは何とも生意気であろうか。あの頃とまるで変わっていないが、あの頃より30センチばかり高くなった目線で遥か彼方の稜線を追う。ドビュッシーのアラベスクの再生ボタンをもう一度押す。どうか貴女の帰る道が月よりも明るく、そして華々しくありますように。



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