サブリミナル
生まれつき、「待つ」ことを激しく苦手としていた私にとって、テレビゲームという存在は底の見えない退屈そのものだった。起動ボタンを押してから、動き出そうとするまでに必ず、相手側の都合で極めて無意味な猶予を与えられる。慣れている人たちはこの間を縫ってゲームの話をするなどして上手く遣り繰りするのだが、一方の私はと言うと、一定の周期でぐるぐると回るロード画面を見つめることがやっとで、それすら終わる頃には、コントローラーを握る気持ちも失せていた。かつて一緒に鬼ごっこをしていた友人達も、小学校高学年、ニュースーパーマリオブラザーズが発売されてからめっきり向こう側の人間になって、その頃から私は一人で虫網を振り回す羽目になった。側頭部から玉のような汗をダラダラ流して、クヌギの樹皮に掴まる蝉を見定めながら、一瞬の狂いもなく網を振るとたちまちそれらが手中に収まる。そうして、パンパンに詰まった虫籠を自宅で開く頃には、透き通っていた綺麗な羽もくすみきり、狭いプラスチックの中でボロボロになってしまっていた。徐々に私より弱い生き物たちに対する力加減をこの身で憶えるようになっても、生だとか死だとかを知覚する部分においては一向に育たぬままで、空に飛ばすことも叶わなくなった六本足の生命を、いくつも亡骸に変えていた。一度この手に預けたものを再び野に放ち、再び夏を待つことがどうにも納得のいかないことだったのだと今になって思う。
夏の隙間に、南の島へ旅をかける予定がなくなり、南端の地形を攫ったブックマークを、画面を撫でてほいほいと削除した。のっぴきならない理由で北端にも行けなくなった私はこれにて、どこにも行けなくなってしまった。労働に即して付き纏う艱難辛苦も何かを待つことで紛らわしていたものの、これでまた一向に待つことが苦手になる。
どれだけのお菓子を職場へ持ち寄っても、手持ち無沙汰な私はあればあるだけひょいひょいと口に詰めてしまっている。ひとつひとつの所作に落ち着きが感じられず、咀嚼を繰り返さないことには仕事が手に付かない。同じ世に暮らす人々にもこうした落ち着きのない部分があると解っていても、私は私の触れ得る感触しか確かめられないから、私だけがおかしいのではないかと思い続けている。きちんと自己を自己たらしめる名前があって、これに即したあだ名も存在するけれど、そればかりあっても不安で、私の性格の要所要所を虱潰しに調べると決まってアルファベットで形作られた名前が出てくるのだった。別の名前を探したがるのは世の常であるようで、動物占いのほとぼりが冷めたかと思えば今度は、MBTI診断なんていう代名詞が流行り始めてしまっていて、肩身の狭い思いをしている。両手両足ほどの質問に答えたことがもとで何億もの人間が限られたパターンに嵌め込まれると、これとこれが合わない、これとこれが、と無為な詮索を開始するのが、どうにも私には受け入れ難いものだった。なんだか私が私ではないようで、我に返った頃にいくつもの沈鬱を抱えている。
SNSの予約投稿機能で自死を伝えることが昨今パターン化して、息の根を止める情景が着々と身近なものになっていることを感じている。日頃感じる 「死んでしまってもいいだろうか」という衝動の根源にあるのは不意に訪れる悲哀や鬱屈に対する抑圧の為で、一日でも長く生きた先にまたひとつの悲しみが滴下されてくるそのサイクルがどうにも恐ろしく、もう一瞬、もう二瞬、惨めな思いをするくらいなら消えてしまった方が楽なのではなかろうかと思うのだ。この頃は大小様々な寂しさが私を包んでいて、これから来るかも分からない幸せすらも待つことができない。かつての落ち着きのなさは若さゆえの自由闊達な姿だと好意的に捉えられていたものが、大人気ない姿に書き換えられていくのがまあまあ恐ろしく思えてしまって、今夜は珍しく酒を買って飲んだ。美味しくないことに変わりは無いが、優しく吹いている風の塊が一本一本、線になって見えるようで、これもまた悪い気がしない。うまく寝付けない夜をあと何度、超えなければならないのだろうか。
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