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愛がなんだ / 創作

好きな男に振り向いてもらえないから。ただそれだけの理由で、マッチングアプリという空虚な繋がりを利用しながら、本名も定かではない違う性別の人間と共にラブホテルの一室にいる。趣味の悪い装飾が施された部屋。いくら居座っても拭うことの出来ない、絶妙な気持ち悪さ。好きな男に絆されて伸ばした髪に吸い付いた安いシャンプーの匂い。一刻も早く全てを洗い流してしまいたかった。窓のない閉塞された空間の中に詰め込まれていると、どちらかが死ぬまで出られないのではないかという錯覚に陥る。備え付けのダブルベッドにてすやすやと寝息を立てる男の顔は、全く私の好みではない。直毛だし、髭の手入れがなされてないし、頭から爪先まで日に焼けた肌は黒々としている。起こしてしまうと面倒だから、シャワー室に駆け込むのをぐっと堪えつつ、せめてもの払拭を試みて歯ブラシを咥えた。「荷物はそっちに送ればいい?」という最後のメッセージと、口当たりの悪い歯磨き粉の味が私を現実の方へと引き戻す。どんなときもくよくよせず、冗談でも弱気な言葉を吐かないところが好きだったけれど、別れ際まで変わらぬさっぱりとした態度は、流石に堪えられない。

生まれてから一度も、こんな不貞なことをしたことがなかった。今よりまだほんの少しだけ幼かった頃、この手のことに慣れている友人が「一度手を出したらハマってしまう」と教えてくれたことがある。しかしどうだろう。泡だらけの口を静かに濯ぎながらベッドの上を見つめると、どうもそこに眠っているのが同じ人間であるように思えなかった。大衆居酒屋で安酒を飲み、ここに至るまでまあまあ長い時間を共有していても、人間として認識することができなかった。ただ腕の数や顔の数が同じだけの、別の生き物に見えてしまう。こうなると相手が誰かというのは一切関係なく、これからもう一度ベッドに潜って、形式的なやり取りをする気持ちにはならない。
誰かと一緒にいたい。そう言うけれど、その誰かというのは始めから定めが着いている。同じパーツを持った人間を連れてきたとしても、これっぱかりの埋め合わせにもならない。

どうしてこんなに無防備な状態で眠れるのだろうか。口から流れた涎が、今にも枕に付きそうになっている。" 介抱する " との気合いも虚しく居酒屋を出てからホテルに向かう道中、嘔吐しそうなほど酩酊していたから、就寝中に戻してしまわないか、こんな奴でも心配になる。万が一喉に吐瀉物を詰まらせて死なれでもしたら、私の立場すらも脅かされかねないからだ。
家に帰るまでは、シラフでいようと決めていた。アルコールに弱いフリをして「飲めないんです…」と呟きながら見立て3パーセントくらいのカシスオレンジを流し込む姿ほど、みっともない瞬間はない。本当は度数の高い酒を浴びるほど飲みたい。しかしながら緊張と抑圧で悪酔いするタイプともなるとそうはいかない。
" 酔ったらリードしてあげる " なんて20点の回答を寄越す男の傍ら、デザートにカルーアミルクを頼むなんて小細工までして100点の演技を続けた私を、我ながら褒めてやりたいと思う。駅前のベンチにてよろしくお願いしますと丁寧に挨拶をしたかと思えば、メニュー表に目を落とす頃には「何頼む?」と耳障りの悪いタメ口。サラダが運ばれてきた後、私の皿がミニトマトで真っ赤になったところがピークだった。「俺さ、トマトだけはどうにも食べられないんだよね〜」気の抜けた語尾からは、知性というものがめっきり感じられない。こんな奴に虐げられたトマトすら可哀想に思えて、嫌いなことを我慢しながら無心で頬張る。味がしないってこういうことなんだ、皮肉にも人生で初めての感覚を味わった。
逆にシラフでない方が、ここまで嫌な思いをせずに済んだのかもしれない。最低の回想シーンに我慢の糸も切れて、腹の虫がグチグチと大騒ぎし始める。会計時に何かしら言われるかもしれない、一瞬頭に過ぎるものの、差し向かいの異性すら気遣えない奴が、合計金額も気にしないはずだ。そう自分を諌めながら、コンビニボックスのボタンを押して、ロング缶のビールを流し込む。こういう時は、慎重に深呼吸をすることで、自分を落ち着けることに徹すると相場が決まっている。鼻から抜けていく麦の香りを繰り返し反芻すると、トマトも好きになれそうだ。
ここのところ殆ど固形物も摂取せずにアルコールの手伝いで生きていたから、口腔内が口内炎の巣窟になっている。強めの炭酸は口にする度に痛みを伴うけれど、缶を傾ける手許は止まるところを知らない。改めてアプリのプロフィールを見返す。" 趣味 映画鑑賞 " の数文字を見て30度缶が傾く。元カノと撮ったであろうプリクラが切り抜かれたようなアイコンが目に入ると更に30度。底が頭になるように缶が動いていった。

そうして500ミリリットルの液体をあっという間に飲み尽くして、やり場の無くなった空き缶を洗面所の引き出しに強引に押し込む。その頃には気が抜けていて、部屋を劈く程の大きな音で横たえられた主を起こしてしまった。
仕事で大きな失敗をした時と同じように " しまった " とはっきり思った。「もう一回、しましょうよ」という中身のない言葉を聞いて、意味が分かってしまう自分に嫌気すらさしてしまう。これが大人か、と思う割に心に住まう私の姿はいつまで経っても少女のままだった。

「んー」とひと言返事にならない言葉を漏らして鏡の方に向き直り、剥がれたグロスを丹念に塗る。化粧ポーチから前髪用のハサミを取り出して今ベッドの上に居る男の喉に、というのは冗談で、静かに髪の毛を切ってみる。サク、サクと子気味のいい音を立てながら、塊になって洗面台へと流れていく。好きな男の為に髪を伸ばしていただけで、それは誰の為でもない。本当は。ぐるりと一周、銀色の刃が通り過ぎる間、男は唖然としながら私を見つめ、私は彼と行ったデートのことを思い出していた。「髪、伸ばしてるんだ」柔らかな声が、排水口の方へと落ちていってバラバラになる。二人で初めて行った公園、彼の行きつけの美容院、蛇口を捻るとみるみるうちに流れて消えていった。彼に恋焦がれ、愛に狂っていた時期を知る毛は暗闇を流れて何処へ行くだろう。こうして私は、いつ忘れることが叶うのだろう。

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