I’m bored.
ひと通りの投稿を見終わってから無意味にスクロールを繰り返して、新しいものがいよいよ出てこなくなる頃に初めて感じる、仄かなる生活への行き詰まり。
楽しみにしていた予定すら通過してしまうと残るものは寂しさのみで、項垂れながら銀行口座を開くとボーナス、基本給もまるまる無くなっていた。経済を全力で回してやるのだ、そう息巻くことが出来たのも金がそこにあるからであって、不必要な出費を繰り返していたら真夏の最中にスカンピンになってしまった。そこで、長らく封印していた読書に手を出すことにする。自宅の本棚は二段構えのレコードラックの下段に位置する。とは言っても元来求められている正しい使い方ではなく、レコードラックが埋まりきるまでという契約を持った非常に粗末なものだった。二日に一冊というペース配分を守りながら本を開く生活。読みかけたままだった「コンビニ人間」「ペスト」「怪物」を読み終えて、昨今では「52ヘルツのくじら」「金閣寺」を二冊同時並行といった形で読み進めている。昔より圧倒的に本が読めなくなっているようで、本の虫と銘打たれた中学生時分に較べればページを捲るその手は格段に遅い。
学生の頃から金を使い、万策尽きると残った小銭で文庫本を買う癖がついた。とは言っても書店で出版社を探しながらお目当ての本にピントを絞り込む、なんてことはしない。あくまで「金がない」ことを前提に動く必要があった。最寄り駅の裏にある眩い書店の波を抜けて、自宅から20分の所にあるディスカウントショップへと自転車を走らせると、中古本の棚には目もくれないように屋外に据えられた残りものの本の中から適当な本を選んで買う。適当、とはいっても金がかかるのだから、背筋を延ばしつつ独特の確認を経て、レジへと持参することになる。
真夏の暑い時期は店前に植わったポプラの樹表でよく蝉が鳴いていた。埼玉の中でもトップクラスの暑さを誇る町の駅前はタワマンこそあれど高層ビルこそ疎らで、鉄コンの間隙からまともに陽光が照り付ける。足元にはマンホールがあるようなロケーションは劣悪極まりなく、物色するには最悪の環境だったが、自動ドアが開く度に涼しい風のやり取りを感じられることにつけては、この上ない醍醐味だった。
毎週水曜になると、爪弾きにされた本が並ぶ。ベタで流行り物の書籍をフリマアプリが担うようになってから、売れ残りの顔色はみるみるうちによくなった。とりわけ春先は店舗へ持ち込まれる冊数も増えるようで、右上からリニューアルされていく本の背表紙を食い入るように見つめる。買う前の独自の確認作業として、匂いを嗅ぐ必要があった。かつて何の因果か掴まされた中古本の一冊に独特な腐敗臭のするものがあって、遠くの方に人間の屍を感じた、という経験に基づくひとつの調べである。発行年数が過去に大きく遡っていくほど、紙の材質によるものなのか匂いを多量に吸収する特性を持つので、旧いものを手にする時はより入念に嗅神経に訴えかけなければならない。一方で煙の香りがしたり一種の家庭的な香りがすると読みもの以上に、歴史を紐解く塊になりうるから、こちらも入念に調べてはレジに通した。
今となってはその香りすらも全て禿げ、私の家の空気と同化してしまっている。時間を過ぎるとトカゲやネズミに戻ってしまうような、童話時かけの物語を感じる。もし仮に私がこの本を売ったなら、その先に見えるのは私の匂いなのかもしれない。もしかすると誰かの手にも渡らないうちにその匂いすらも消えてしまって店の匂いや物置の匂いに換わってしまうかもしれないが、私はそういうの " 綾 " を好んでいる。過去の愛し慕っていた人々にやたらと本を貸し付けていたのも、こうした理由あってのものなのだろうか。
節制しようと意気込むもバンド練習の往復に5000円を溶かし、乗り継ぎの駅よりホームに向かう頃には「沈黙の春」がその手に握られていた。生活への行き詰まりを解きほぐすために買ったのだから、と自分を上手い具合に慰める。駅のゴミ箱は缶とペットボトルの口を分けているが、ふたつの穴の行先はどうやら同じ場所であるらしかった。缶の方へと流し込みそうになり慌てて止まり、ペットボトルの口へと入れた。一見無意味にすら感ぜられる機構によって、こちらの出方は窺われているらしいと思うとそこには真の恐ろしさがある。金属のノリ面に浮かぶ印字の意味を私はよく食んで守らねばならない。
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