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★東京の地下鉄は川をどのように越えているか?:②では、神田川を越える銀座線は?

東京には、色んな川が流れているので、地下鉄は実に様々な形で川を越えています。どうやって越えているか?については、地上を走る電車だと、橋などを確認できるのですが、地下の場合はほとんど確認ができません。前回は、日本で最初の地下鉄、銀座線が日本橋川をどう越えているかを調べたことを書きました。銀座線は、何と日本橋を巧みに避けてその脇を越えていることを確認しました。(前回の記事はこちら)

今回は、同じ銀座線が、神田川をどう越えているか、ということについて述べたいと思います。日本橋とは全く違った物語が展開されます(笑)。

■万世橋と銀座線

銀座線が日本橋川を渡るのは、日本橋。
神田川を渡るのは、秋葉原にほど近い、万世橋です。

銀座線は、万世橋を通って南北に走っています。Googleマップで見ると、万世橋の真ん中に銀座線が通っているように見えます。

Googleマップでは、銀座線は万世橋の真ん中を通ります。
日本橋でも、そうだったですね(笑)。

じゃあ、日本橋の時と同様に、国土地理院の地形図を見ると、真相がわかるのでしょうか?

国土地理院の地形図でも、銀座線は万世橋の真下を通っているように見えます。

銀座線は、万世橋の真下を通っているようです。どんな橋なのか?見てみたいと思います。

■万世橋を歩く

こんな感じの、立派なアーチ橋です。
とても立派な親柱。後ろのレンガアーチは、旧・中央線万世橋駅跡です。
万世橋は、東京駅ができる前の中央線のターミナル駅だったことがあります。
「萬世橋」と書かれています。
昭和5年3月に完成しています。
いわゆる関東大震災後の「復興橋梁」の一つです。

今昔マップで関東大震災前後を見てみると・・、

震災前後の街並みの比較。震災復興前と後で、神田川の南側の区画が大きく変わりました。

このあたりは、関東大震災で焼け野原になり、そこからの復興のために、区画整理がされ、万世橋も新しい橋に架け替えられることになりました。実は、銀座線はこの区画整理によってできた新しい道路下の敷設することが決まったのです。銀座線は、新しい万世橋と一体化施工(つまり、銀座線の躯体の真上に万世橋を作る)する計画となったのです。

■万世橋仮駅のこと

実は、東京地下鉄道は、1923年(大正12年)に工事開始の準備が整っていたものの、その年の9月に発生した関東大震災の影響で復興街路の計画に合わせて計画変更され、1925年(大正14年)に着工。1927年(昭和2年)に浅草~上野間が開通。1930年(昭和5年)に万世橋駅(仮駅)が開通しました。まだ万世橋の工事や、その南側の区画整理事業に時間がかかる状況だったため、先に工事の進む北側だけ開通させ、「万世橋仮駅」が作られました。

このあたり、前回の日本橋でも登場した、国会図書館のデジタルコレクション「東京地下鉄道史 坤」に色々と記載があります。

万世橋仮駅の断面図。複線の線路の片側のみ列車を通し、
片側の線路分をホームとする構造でした。
万世橋仮駅の縦断図。神田川を越えるために下り坂の途中でしたが、
駅は平らにしたいために、ホームは水平に作られたとか。
万世橋仮駅の平面図。仮ホームから分岐して階段があるシンプルな構造。

で、万世橋仮駅は、今も換気設備として、その名残をとどめています。今は地上までの階段は撤去されていますが、開口部から1段下がった場所からは、まだ階段が残存しているようです。

この人孔が、旧万世橋仮駅につながる開口です。

■万世橋と一体化施工された銀座線

さて、万世橋と一体化された銀座線、果たしてどんな形をしているのでしょうか?

万世橋部分の縦断図。本当に橋の基礎の一部に
銀座線躯体が一体化しています。

銀座線は、万世橋のアーチの基礎の一部になっており、万世橋の荷重が銀座線の躯体にも作用する構造になっています。なかなか画期的な構造をこの時代に採用したものです。

この工事をするために、神田川を完全に締め切ることはできないので、川の締切は行うものの、仮の樋管を設置し、上流からの水の流れと舟運を確保したようです。

神田川の仮樋の図。真ん中の縦長の長方形が、銀座線の躯体で、
幅広い平行四辺形が、新しい橋です。その右隣りに、仮設の端があります。
橋の下の銀座線トンネルの施工状況。
意外と今の施工とあまり変わらない風景かも、というのがすごいです。
こちら、仮橋の奥に新しい万世橋のアーチが見えます。
仮樋とそこを通過する船。やはり当時は舟運が主要な交通手段だったようです。

(おまけ)
この付近、過去に街歩きをした際にアップした記事があります。こちらにもいくつかここに掲載されていないことも含め、掲載していますのでご覧ください。

■終わりに

銀座線が神田川を越える方法は、何と「震災復興事業により架け替えられる橋の直下に基礎兼用の躯体を構築する方法」でした。日本橋とはちょっと違った悩みがあり、それは「帝都復興事業が終わらないと、地下鉄工事に着手できない」という悩みでした。そのため、仮駅を構築し、なるべく利便性を確保したうえで、橋や南側の工事を進めていたようです。そんな歴史が、デジタルアーカイブスからわかったのは、とても良かったと思います。

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