表現すること
言葉にしたり、形を与えることは、ひらひらと飛びまわる美しい蝶をつかまえて、檻に閉じ込めてしまうことに似ているなあと思う。
つかまえればその美しさを手に取って、翅の模様を知ることができても本来の自由に飛んでいた姿を失ってしまう。悩ましい。
我々は、表現することで初めて、目にみえない自分にしか分からない本質や概念を可視化し、誰かと共有できる。しかし表現とは入れ物なので、全てを内包できるわけではないし、形のないものをその中に注げば入れ物の形に押し込められてしまう。
美しい蝶が自由に飛びまわる姿を本質とすれば、表現という名の檻の中で蝶の美しさを手にとることができても、蝶の本質の全ては檻の中に入れることはできない。表現をして形になったものは、厳密には本質の全てそのものではなく、本質を瞬間的に切り取ったものであるように思う。
大切なことは言葉にならないのに、言葉にならない部分を見捨ててでも言葉にしなければ、私は誰とも何も分かり合えない。いやまあ「分かり合う」ということすら不確かではあるのですが。
でも表現としてあらわれたもの、つまり言葉にできることや可視化され形に残るものが全てではなくて、語りえない本質があること、それも含めて世界であることを忘れたくない。
なんかすごい哲学的でポエミィな話になってしまった。文章を書くと、表現の過程でとりこぼしてしまうものにどうしても想いを馳せてしまうので、墓標と自戒のような気持ちで置いておきます。
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