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自分の幸せから目を逸らさない「自分軸」の生き方は他者の幸せも守る


とあるコミュニティで小耳に挟んだ話


約3年前から、私はある依存症研究のコミュニティに参加させていただいている。
そこで日頃親しく交流いただいている方から、ある日こんな話を聞かされた。

「いつも自分の運勢を気にしていたり、大きな幸運が空から降ってこないかな~、って言ってるような幸せへの欲が深い人に限ってなぜか、悠々自適で幸せそうにしている他人の脚を引っ張ろうとする人、やたら多い気がします。
その人の悪いうわさ流したり、やたらと雑用押し付けたり。なんか幼稚な人が多いですね(-_-;)」

私はこの話をうかがった時、心理学的に多くのことを考えさせられる話だな、と思った。

他人の脚を引っ張ったり、本人に言えない悪口を陰で吹聴するような行為を手放しで肯定することはできない。
しかし人の心の複雑さ・多様性に思いを馳せれば、こうした陰湿な行いをする人をひたすら責めて終わりにはできない。

もちろん嫌がらせ行為の被害者側は直ちにそんな嫌がらせをされる環境から距離を置いたほうがいい。
それを踏まえた上で、陰湿なイジメをする加害者側の心の問題にも対峙しなければならないだろう。

ではどうするべきか。

こうしたネガティブ行動に及んでしまう人々の心理を(肯定も否定もせず)
しっかり読み解くことがなにより重要だと思うし、自分や周りの人が似たような対人トラブルに巻き込まれた際、その考察を基に冷静かつ毅然とした対応ができるよう、心に備えておくことが大事なんだと思う。

もちろん、その嫌がらせ行為の中に法的な問題が含まれる場合は被害者が泣き寝入りせず、加害者に対し法的措置に踏み切ることも必要となるだろう。
しかし、本記事では心理学的な考察をベースに私の思うところを述べたいので、法学的な考察はさておくこととする。

前置きはこのぐらいにして、以下、私なりに思ったことをまとめておきたい。


①今の自分に集中する思考の樹立


幸せの概念は人それぞれあっていいし、
どんな幸せを望むかも個人の自由。

たとえば私の場合、自分の好きな音楽を聴いたり、
ミシンで好きな服を縫製したり、
好きな花の種を播いてそれが発芽した時など、
日常の中にたくさん「幸せだな~(*^_^*)」と感じることがある。
また、それ以上の幸せがほしいとも思わない。

好きな趣味を愉しむ時間がある、
好きなことを仕事にできる、
これらは運に恵まれなければ叶えられないこと、
と思えるからだ。

つまり、日々の暮らしの中で「私は幸運の持ち主だ」と実感できている。
他人の幸福
自分の幸福を比べる気も全く起きない。
自分とは違う幸せを手にした他人を羨んだりもしない(人それぞれ
つらいこともあるだろうし、私も含めて悩みのない人なんていないと思うから)。

さらにアドラー心理学に出会ってからはなおさら、自分らしい幸せとはなにかを考え、自分の機嫌を取ることだけに意識を集中させてきた。

アドラー心理学では、
過去と他人は変えられない、と説き、
今を生きる
今の自分を充実させる
このことの重要性を強調する。

そしてこれらのことを教訓としている私はいつの間にか、
他人の行動や未来への不安に振り回されない自分を確立できるようになったのかもしれない。



②今の自分を幸せにできない苛立ちを他人にぶつけてしまう人々


さて、ここまで記載した私のような思考、生き方は自分軸と呼ばれたりする。

反面、他人の生き方や幸不幸と、自分のそれとを比較して一喜一憂するような思考は、他人軸の思考、他人軸の生き方、などと呼ばれる。

そして冒頭で紹介した、
これからもっと大きな幸せが訪れてほしい、
もっと運の良い人生を生きたい、
と願いながらもつい、自分よりも自由を謳歌し、楽しく幸せそうに過ごしている他人を見ると嫌がらせせずにはいられない、
少し憂鬱な気分を味わわせてやろう、などと考える人々は、
他人の不幸は蜜の味」という心理状態に陥っていると言えるだろう。

これはドイツ語でシャーデンフロイデの心理、などとも表される。
あなたの不幸は私にとっての喜び」という意味だ。

しかしこの感情はけして攻撃的な人だけに生じる感情・心理ではない。
私も含め、すべての人が有している感情。

たとえば何かを競っているライバルがいたとして、そのライバルがミスをした時に思わずホッとし、胸を撫で下ろす。
いつも嫌がらせをしてくる相手が風邪で寝込んだりすると、「ざまあみろ」と思う。
実はこれらの感情もシャーデンフロイデの一種。
だからけして排除する必要はないし、そんなことは不可能だと認識しておいたほうがいい。
この感情を過度に強めたり、拗らせることが問題なのだ。



③自分も他人も尊重できる人になるために


ここまであれこれ考察してきたが、最もお伝えしたいことはタイトル通り、自他共の幸福を尊重できる人になるために、まず自分の望む幸せとはなにかを見つめ直し、自分軸の生き方、考え方を身につけることだと思う。
またそのの上で、今の自分が望む幸せを手に入れるため、行動を最適化できているかどうかを見つめ直すことだと考える。

人の心はポジティブ100%で作られてはいないし、ネガティブ100%でもない。
どちらの感情も必ず持ち合わせている。
まずこのこと知り、どんな自分からも目を逸らさない、優しく見守っていこうと心がけることで、他人の自由・幸福に対してネガティブな視線を向ける自分にもきちんと気づく、ケアする、ということができていくのではないだろうか。

かく言う私自身、若い頃は随分と不幸な経験をしたし、
そんな時代の私は幸せそうな他人を視界に入れたくなかった。
こんな不幸な目に遭った私は、二度と人前で笑顔を見せることはできない、と自分を責め立てたりもした。
不幸な出来事が襲ってきた時、自責と他責、どちらの感情が強まるかというと、私の場合は自責の念に苛まれるタイプなのだ。

しかし、そうした自己分析を早い段階で行えたことにより、
他人の人生と自分の人生を比較して一喜一憂しない、私らしい幸せ、私が望む暮らし、そこだけを考えられるようになった。
いわば、自分の心の弱点を把握することが「自分軸の人生への目覚め」を促進してくれた。

おそらく、この世の誰もが常に「自分軸の思考」「自分軸の生き方」を実践できるなら、
自分よりも幸せそうに見える他人、
自分より自由を謳歌しているように見える他人、
才能豊かに見える他人、
そのような他人様に嫌がらせしてやろう、などとシャーデンフロイデを拗らせる人はいなくなるかもしれない。

しかし、私も含めて人の心は常に揺れ動いているし、なんらかの認知の歪みも持っている。

まずはそんな複雑な自分の心を自己受容し、なぜ他人を傷つけたくなるのかと、自問できる人が増えてほしいと思う。

そして、そこから導き出される答えが、

 ●今の自分の生活や置かれている環境に納得がいかない
 ●望む幸せが手に入らない、うまくいかないことが続いて苛立っている

このような事柄であるとするなら、けして他人に嫌がらせしたり、八つ当たりするようなことをしても本質的な問題解決には至らない、ということに気付いてほしい。

その嫌がらせ行為をエスカレートさせれば法的な問題に問われることもあるかもしれないし、自分のストレスの捌け口として誰かを苛め、迫害したという人生の履歴が残ってしまうだけだ。

つまり、そのような不健全なストレス発散は自分をも他人をも不幸にする結果しか生まない

誰かを貶めて得られる幸福、誰かを故意に傷つけて上昇する自分の価値などというものはないんだよということ。

この世の全ての人がそこに気づき、自分らしい幸せ発見の人生を生きられますように、と願ってやまない。


〈終わりに〉

ここまでの長い文章にお付き合いくださった全ての方に、心より感謝申し上げます<m(__)m>


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