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「昭和の飲み方」が確立された1974年《日本ウイスキー文化史:前編》
■前回まで
昭和のウイスキーブームを支えた「一升瓶ウイスキー」=「昭和の地ウイスキー」=「当時の二級ウイスキー」について、ご紹介しました。
書き進める中で、『1974年』という年は「日本のお酒文化」において、非常に注目すべき年だと感じましたので、今回はそのお話です。
■日本酒にとって
日本酒の出荷量(≒消費量)が一番多かったのは1973年です。
日本酒の国内出荷量は、ピーク時の1973(昭和48)年には170万キロリットルを超えていました。
国内の日本酒製造量3位は新潟、2位は京都、断トツの1位に輝いたのは? | THE OWNER (the-owner.jp)
そのため、
1974年は、日本酒が
「絶頂期」を謳歌していた年。
と言えます。
ちなみに現在の日本酒の出荷量は、当時の約1/3程度です。
ただ、中高価格帯の「こだわりの日本酒」的な商品では、現在でも販売を伸ばしている事例もあります。
NYに完成した「獺祭」の酒蔵に潜入! 異国の地で日本酒作りに挑む理由 | GOETHE (goetheweb.jp)
■ビールにとって
ビールは第二次世界大戦後の1959年に、それまでトップだった日本酒の出荷量を抜いて「日本人の飲むお酒」のトップの座に躍り出ます※。(※居酒屋の戦後史 P126 橋本健二 祥伝社新書)
その後、ビールは高度経済成長(=お酒の総消費量の増加)と相まって、右肩上がりの成長を見せます。
そして、その時の主役はキリンビールでした。
キリンビールは当時、シェアが6割を超え、
1976年に
『日本のビール史上 最大シェア = 63.8%』
を獲得します。
沖縄が返還された1972年にキリンは60.1%のシェアを獲得。ついには6割を突き抜けた。この72年から85年までの14年間、キリンのシェア(販売ベース)は常に6割を超えていた。
最大は76年の63.8%。86年も59.9%と、ほぼ6割を維持していたので、圧倒的な首位だった期間は実質的に15年連続、さらに71年のシェアも59.5%あり16年連続だった、とも捉えられる。
この時代は、『瓶ビール』が主流で、「宴会の席で注ぎつ、注がれつ」の飲み方が一般的でした。
つまり、
1974年は、
みんながキリンの瓶ビールを飲んでいた年。
と言うことができます。
なぜここまでキリンビールがシェアを伸ばすことができたのか?は、またいつか記事化したいと思います。
ちなみに、ビールは、2024年の現時点でも「日本人が飲むお酒」のトップに君臨しています。
ただ、ビール系飲料自体の出荷量のピーク(発泡酒などを除いたビールそのものでも)は、1994年です。
(ちなみに1994年は、国内初の発泡酒「サントリー ホップス」が発売になったり、規制緩和で「地ビール」の製造が可能になったりと、ビール市場に大変革が起きた年です。)
現在は、
◇出荷量が最大だった年=1994年と今を比較
《ビール系飲料全体》 約7割
《ビールそのもの》 1/3程度
に大きく出荷数量を減らしています。
![](https://assets.st-note.com/img/1706384514430-DSvtv4BYvc.png?width=1200)
ビールの消費量の減少要因としては、ざっくり以下があげられます。
・少子高齢化による人口減
・1人当たり酒類摂取量の減少
・飲むお酒の多様化 (= ハイボール、レモンサワー、翠ジンソーダetc.)
■ウイスキーにとって
1983年に出荷数量のビークを迎えるウイスキー業界。
1974年はそのピークへ向かう『追い風MAX』な時期で、「日本酒に追いつき追い越せ」でイケイケドンドンな時代です。
![](https://assets.st-note.com/img/1706318466421-kyApiOZA2C.png?width=1200)
JWIC-ジャパニーズウイスキーインフォメーションセンター|JW物語
ビールや日本酒と違い『熟成』が必要なウイスキー業界にとって、原酒不足が深刻だった時代でもあります。
◇蒸溜所の開設年
《1969年》
ニッカ宮城峡蒸溜所(第2モルト蒸溜所)
《1972年》
キリン御殿場蒸溜所(ウイスキー参入)
《1972年》
サントリー白州蒸溜所(第2モルト蒸溜所)
《1973年》
サントリー知多蒸溜所(グレーン蒸溜所)
このように国産原酒の増産を急ぐ一方で、スコッチ原酒も大量に輸入され、ブレンドに使われました。
それが一升瓶ウイスキーの誕生にもつながったことは、前回まででご紹介しました。
つまり、
1974年は、蒸溜所が次々に開設され、
酒蔵が一升瓶ウイスキーに参入し、
ウイスキー業界が急成長した年。
ということもできるのです。
ちなみに、1974年のウイスキー課税数量の前年比は112%。
昭和では最大の前年比増を記録しています。
■チャーリーにとって
ウチの兄貴が生まれた年です。
■日本経済にとって
日本を世界トップクラスの経済大国に押し上げたのが高度経済成長です。
日本においては、実質経済成長率が年平均で10%前後を記録した1955年頃から1973年頃までを高度経済成長期と呼ぶ
つまり、
1974年は、高度経済成長を経験した先の
日本経済が一番イケていた年。
と言うことができます。
■日本人の家計にとって
この74年という年は、拙著『「格差」の戦後史』で明らかにしたように、日本の経済格差が近現代史を通じてもっとも小さくなった時期にあたっている。いわゆる「一億総中流」の時代である。
このように、
1974年は、
高度経済成長で日本経済が発展した上、
高所得者と低所得者の
格差が一番小さくなった年。
だったのです!
■1974年:一億総中流社会の姿
高所得者と低所得者の格差が一番小さくなり、一億総中流となった1974年の日本では、みんなと同じような「行動パターン」「思考パターン」をとることが当たり前とされた時代です。
例えば、
良い大学に行って、
大企業に入って、
定年まで勤めあげる。
みないな感じです。
そして、その同じ行動パターンは「お酒の席」でも一緒です。
■1974年:一億総中流社会のお酒の席
上座下座を確認して、席に着く。
まずは『キリンの瓶ビール』を、目上の人へ注ぐ。今度は逆に、注がれて飲んで、そこからは注ぎつ注がれつ。
(目上の人のグラスが空にならないように気を配る)
ビールで一旦、喉の渇きが癒えたら、次は『日本酒』へGO!
日本酒の銘柄などは気にしない。
(というか飲食店には1銘柄しか置いていないので、「日本酒」というメニューしかない)
「24時間働けますか?」の昭和日本のモーレツ・サラリーマンは、1軒で終わるわけがありません。
食事が終われば、スナックへ直行。
スナックでは、サントリーやニッカの『ウイスキー』を飲みまくる。
(なんならもう1軒スナックや、〆ラーメンなどにハシゴ)
このムチャクチャ『昭和な感じ』の飲み方が決定づけられた年。
それが1974年なのだと思います。
■次回は
この『超・昭和的な飲み方』に変化が訪れます。
それについて次回、ご紹介したいと思います。
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