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不登校4年から生徒会長になって、今の自分になった話#5『趣味も特技も人とつながる大事なこと』

こんばんは。ChaRiです。

前回、前々回と親のことや周りの環境のことを多く書きましたが、今回は私のことを中心に書こうと思います。

(今回だらだらな文章になってしまいました。下の方のーーーここまでーーーというところまでだらだらしてますので、さらっと流し読んでください。)

不登校をするようになり、不登校生が通う教室に行くようにはなりましたが、教室は火曜日休みでした。そのため火曜日は母の実家でお世話になることが多くありました。

祖父母も母と同じような考えで、『いきたくないところは行かなくていい』と言うタイプでしたので、私としても居心地の良い場所でした。

祖父は私に将棋を教えてくれました。将棋といってもいきなり本将棋をしていたわけではなく、将棋崩し、回り将棋、はさみ将棋を最初の頃はやっていました。祖父も私の扱いがうまかったのでしょう。しばらく経ってから私に本将棋を教えてくれました。駒の動かし方を教わったり、詰将棋の本を買ってもらったりして、何度も何度も祖父に挑みました。最初は飛車角落ちでずっとやっていました。途中から飛車落ち、下手先になっていきました。祖父は下手先だけは譲りませんでしたが、中学生の頃には下手先ではほぼ勝てるようになりました。「お前には下手先がちょうどいいんや!」と言い続けていた祖父が懐かしいです(余談です)。

不登校生が通う教室には将棋をやっている子がいました。私は自由時間でその子と将棋をしたり、先生の中にも将棋をする人がいたので将棋をしました。将棋は子どもでやっている人は当時でもだいぶ少なかったと思います。そのため、将棋をやっている同い年とは自然と仲良くなりました。中学校に進学後、他の小学校から来た子とも将棋を通して仲良くなった子もいます。

祖母は私に切り絵を教えてくれました。祖母は絵を書いたり、切り絵をしたりといった趣味がありました。絵は正直そこまで私は好きではなかったのですが、祖母がやっていた切り絵に興味を持ちました。やり方を教わり、簡単な切り絵の題材をもらって切り絵をやっていました。小学6年生の頃には「この絵、切り絵でできるかも?」と思うほどになり、アニメのキャラクターやディズニーキャラクラーを切り絵にしたりするほどになりました。

切り絵は今まで、やっていた同い年、同世代の人とは出会ったことがありません。しかし、切り絵をやっていたことが私にとって将棋以上にたくさんの人とのつながりを作ってくれました。そして、学校復帰の支えになった部分とも言えるかもしれません。

中学生になると他の小学校から人が集まってくるため、最初に自己紹介があります。自己紹介で私は好きなことに「切り絵」、「将棋」とあげると「切り絵って何?」と先生に言われ、作って持って行ったことが始まりです。切り絵を作る子として一気に他の学校の子と打ち解けました。

ーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーー

さて、ここまで書いて自分でもだらだらな文章だなと思い始めたので、いきなりまとめます。

今回私の言いたいことは

『特技や趣味を大切にしよう』

と言うことです。ないなら作ればいい。それだけです。

将棋や野球とかもそうですが、早い子はもっと小さい頃からやっています。だからと言って「いまさら」なんてことは何一つありません。今でも私は新しい趣味を持ちたいと毎日思っているくらいです。

『なんでもやればいい、やってできなければやめればいい。でもやってみないとできるかできないも、楽しいか楽しくないかもわからない』

私が人生でずっと思い続けている考え方です。

『できるかできないかじゃない、やるかやらないかだ』

誰かが言っていた座右の銘です。ここから私なりに上記の言葉と進化していきました。私には挑戦する気持ちがありました。しかし、私の親も私に対して一つの挑戦でした。不登校になった息子をどうするか。

挑戦はなかなか一人ではできません。そして挑戦は身近な誰かがしていると自分もと思うはずです。もしこの記事を読む不登校に悩む方々がいたなら、是非自分自身がまず何かに挑戦することを勧めます。悩むより動く!です。

過去一でだらだらな文章になりました。

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。


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