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【小説12】麻子、逃げるなら今だ‼︎〜波乱〜


全話収録(フィクション)⤵️

前日譚•原案(ノンフィクション)⤵️


12.波乱

 パート介護職員麻子の休職は2ヶ月半に及んだ。
勤務中の怪我なので労災だ。
給付金は支給されるし医療費負担もない。
当初は痛みで眠ることも自力で移動することもできなかったし、まさか自分が労災で休職するなんて夢にも思っていなかった。

 浴室清掃中に呼びかけられ排水溝に踏み外した右脚は、グレーチングを受けるステンレス製レールで脹脛の肉を抉られた。
日勤看護師に応急処置をしてもらい、リクライニング車椅子に載せられ施設長の運転で市民病院の救急外来に送り込まれた。
 処置室に付き添ってくれた施設長が傷口をみて思わず「ひっ‼︎」と声を上げると、医師から「出て行って下さい」と冷たく言い渡されていた。
脹脛なので麻子自身は傷口を見ることができない。
 破傷風の注射、消毒、縫合後は施設長の運転で自宅まで送ってもらった。
労災の手続きは施設長がやってくれるらしい。
翌日から毎日通院だ。

 思いがけなかったのは長男修の優しさだった。
アルバイトだから正社員の由美より大学生の進より自由がきく。
修はふとしたきっかけから最近では麻子とは殆ど口をきかない。
麻子からは話しかけるが一方通行だ。
 その修が、枕元にミネラルウォーターやゼリードリンクを置いてくれる。
トイレに行きたくなると、肩を貸してくれる。
通院時には道路まで出てタクシーを止めてくれる。
食欲が出てくると、ゼリードリンクはおにぎりやお弁当に変わって行った。

 夫が出張から一時帰宅した。
麻子が働いていることについては訊かれもしないし麻子からも話したことはないが、夫の扶養から外れていることは確定申告のときにバレている筈。
仕事に行っている筈の時間帯に毎日自宅で横になっている麻子を不思議に思わないのだろうか。
 「どうした?」の一言すらない。
麻子から言う気もないが、不調なのは見ただけで判るだろう。 
これが赤の他人にはとびきり優しい夫の本性なのだ。
 結局、麻子の体調には一言も触れることなく再び出張に出かけて行った。

 順調な回復ではなかった。
血腫ができたり、検査の為の穿刺で神経に触ってしまったり一進一退を繰り返した。
 そろそろ歩行練習をと医師から言われても、痛みと痺れと恐怖心で右足を地面に着けることができなかった。
着地できるようになってからも重心はかけられないし、そもそも歩行時の足の動きを思い出せなかった。
 ひょこひょこと自力で移動できるようになった頃、復職の打ち合わせに職場に出てくるよう施設長から電話があった。

 指定された時間より少し前に職場に着くと、当日処置をしてくれた看護師に会えた。
 「前田さん、心配してたのよ。
自宅の前までしか送らなかったって施設長が言ってたから。
あの裂傷は安静よ、あの状態で歩いたりしたら後遺症が残るわよ」
勤務中に迷惑をかけた上に心配してくれていたことを嬉しく思った。
後遺症については既に手遅れだけど。

 施設長からの提案は驚くものだった。
痛みや痺れの後遺症を抱えたままでは身体的負担が重いだろうと言われたときには、退職勧告か時短勤務かと身構えた。
 「前田さん、デイサービスってどう?
凄く良いアイデアだと思うんだけど」
デイサービスは同じ建物内にある。
介護保険上は別事業所ではあるが、同一法人内での異動の提案だった。

 有料老人ホームでは使い物にならないという施設長判断なのだろうか。
てっきり元のユニットに戻れると思っていた麻子はショックを受けた。
 「違う違う、前田さん。
前田さんの人懐こさや明るさはデイサービスにぴったりだと思う。
介護度の高いご入居者の介助より体への負担は少ないし。
それに仕事の幅を広げるチャンスにもなるから。
一度前向きに考えてみて。
返事は今日でなくて構わないから」

 また異動か…
しかもデイサービス。
所内では何となく「有料老人ホームは格上、デイサービスはおまけ」のイメージが定着している。
職員もデイサービスは下に見られている気がする。
 「自分もデイサービスを下に見ていたのか」と気づいた麻子は愕然とした。
所内でデイサービスの地位を上げることができるだろうか。
今迄のユニットへの未練との間で気持ちは大きく揺れ動いた。

 逆の立場ならどうだろう。
怪我をして後遺症がある職員に気を遣いながら勤務する自分。
先回りして負担の重い業務を代わってあげる自分。
 不公平だと不満を持つことはないと言い切れるだろうか。
初めだけではなく、いつまでも優しい気持ちでその職員に接することができるだろうか。
損をしてると思うことはないだろうか。

 翌日にはデイへの異動を受ける旨を施設長に電話で伝えた。
有料老人ホーム主任とデイ管理者との打ち合わせについては施設長に一任した。
麻子が次に職場に行くのはデイ初勤務日だ。
 ユニットのご入居者やご家族との間に築き上げた関係が途切れるのは寂しい。
リーダーや深田さん達に事前に挨拶できないのも辛い。
雇われるとはそういうことなのだ。

 復職初日は9時にデイ管理者と面談することになっている。
デイ管理者からは、デイ職員に紹介するまでは異動について口外しないようにと事前に言われている。
 出勤して直ぐに有料老人ホーム主任に出会った。
 「えっ、前田さん今日からなの?
私は何にも聞いてないんだけれど」
 「施設長が主任とデイ管理者には言っておくからって…」
 「デイってどういうことっ⁉︎
有料には戻ってこないってこと⁉︎
施設長は今日休みなのよ。
一体どうなってるのっ⁉︎」
 9時までに何人かの職員とは再会を喜び合った。
 「戻ってきてくれて嬉しい」と言われても、管理者との約束があり自分の口から異動のことを言えないのが辛かった。

 9時にデイ管理者がやって来た。
 「前田さん、困るわ。
私が職員に紹介するまでは口外無用と言っておいたでしょう。
どうして異動のことを喋ったの」
挨拶もそこそこにいきなり言われた。
 「有料の職員には挨拶をしただけで異動については一切言っていません。
有料主任と話したのは、てっきりご存知だと思っていたからです。
主任には施設長が話しておくと仰っていましたから」
 「施設長を持ち出されてもね。
今日は休んでるんだから」
 それを言うなら、麻子は前日までずっと休んでいたのだ。
そちらの連絡不行き届きを麻子のせいにされては堪らない。
いきなり波乱のスタートになってしまった。
(2563文字)

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