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【小説8】麻子、逃げるなら今だ‼︎〜急転〜


全話収録(フィクション)⤵️

前日譚•原案(ノンフィクション)⤵️


8.急転

 麻子は講座を修了したことをハローワークの担当者と女性就労支援の絹田さんに報告に行った。
実習報告書のコピーを見せると両者とも「私の目に狂いはなかった」と喜んでくれた。
 夫はゴールデンウイーク明けに一度帰宅したものの翌日には次の出張先に出掛けて行った。
お陰で今後暫くはパートのことを知られずに済みそうだ。
深く考えて選んだ職場ではないが、バス1本で通えるのも帰り道にスーパーがあるのも良かった。

 年も年なのでゆっくり慣れれば良いと職場から言われていたが、フルタイムで働くことにした。
もちろん社会保険にも加入した。
夫からの生活費の入金が遅れるだけでなく、金額が減ってきた為だ。
 初めのうちは「ごめん、足りない分は来週に」等と連絡があったりしたが、次第に翌週になっても翌月になっても差額が入金されなくなった。
詫びの言葉がなくなり連絡がなくなり「学生のお小遣いか」と思うほどの金額しか入金されなくなった。
 何ヶ月かに一度夫が帰宅したときに訊こうものなら「どうして帰って来たばかりなのにそんなことを言うんだ」と不機嫌になった。
帰って来たときにしか訊けないではないか、留守電にメッセージを入れても折り返してもくれないのに。
 夫が次の出張に出掛ける朝、お互いに気不味くなるとわかってはいたが思い切ってもう一度訊いてみた。
 「ない金をどうやって払えと言うんだっ‼︎
ない金は払える訳がないだろうっ‼︎」
予想していたこととはいえやっぱり夫の仕事は上手く行っていないのだ。
夫の姿が遠去かって行った。
麻子の心の中からも遠去かって行った。

 子ども達には心配をかけたくない。
実家の両親にも絶対に頼るまい。
義両親は「また出張?本当に感心なほど働き者ね」と手放しで喜んでいるので問題外だ。
望んだ仕事ではなかったけれどパートとはいえ働いていて良かった。
余程のことがない限り非正規でも辞めさせられる心配はない。
どうせ働くなら自分のモチベーションを上げて行かなければ。

 麻子の職場は有料老人ホームという施設だ。
職業としての介護には興味がなかった上に介護保険の知識も講座で習った程度しかない。
絹田さんが言った通り、家事や育児の経験が助けになる職業ではある。
慣れてきても進んでやりたいとは思えないが。
 配属されているユニットは比較的お元気な方が多く「介護」というよりは「お手伝いさん」のような仕事が多い。
洗い物や洗濯や掃除をしていると「これが仕事なの?」という疑問が毎日のように湧いてくる。
反面、今まで当たり前のように麻子が担っていた家事や育児には一体どれほどの経済的価値があるのだろうかと考え込んでしまう。

 アラフィフの新人で良かったと思うことがいくつかある。
見た目はともかく、若い職員達より圧倒的にご入居者と話が合う。
スキルが高いかどうかは別として、経験量と経験値が違う。
年下の先輩職員に教えを乞うにしても、自意識が邪魔をしないので自然と謙虚に振る舞える。
 時給が安いことも「介護だから」というより麻子の年齢を考えれば仕方がないと諦めもつきやすい。
夫からの入金は相変わらず少ないが、ゼロではないし問いただす気もない。
絹田さんから言われた「手取り20万円」には程遠いが、今直ぐに一人暮らしをするつもりはないので気持ちには未だ余裕がある。

 末息子進の大学入試の時期は、麻子がパートを始めて丁度1年経ったときだった。
2年の担任から「頼むから国公立大を受けてくれ」と言われていた進は携帯電話を買った途端に勉強しなくなり、3年で成績が急降下した。
 センター試験2日目の朝、麻子は進に声をかけて職場に向かった。
姉の由美は職場が遠いので先に出掛けていたし、兄の修は前日バイトが遅番だったので未だ眠っていた。
出張中の夫は入試の日程すら知らないだろう。
 仕事中は思い出すこともなかった麻子だが帰宅して目にしたのは、布団の中で寝ている進だった。
 「どうしたの?何があったの?試験は?」
矢継ぎ早に訊くべきではなかったか、進は朦朧としている。
慌てて検温すると39.5℃、インフルエンザか…

 私大もセンター試験利用を予定していた進はどこにも出願していなかった。
主要私大の一次締め切りはとっくに過ぎている。
2日目を欠席したのだから国公立大はもちろん論外だ。
出願しようにもインフルエンザでは高校に成績証明書をもらいに行くことすらできない。
 仕事があって良かったと麻子は思う。
専業主婦のままだったら本人以上に落ち込んでいたのではないだろうか。
何とかしようと走り回っていたのではないだろうか。
今望むことが進の回復だけというのはいっそのこと清々しい。
職場は出勤停止にならなくて済んだ。

 少ない選択肢の中から、少しでもマシな大学を受験できるようにと考えてしまうのは麻子のエゴだろうか。
本人は意外と暢気だ。
一緒に居ると言わなくても良いことまで言ってしまいそうだが、仕事の間は忘れていられるのが有難い。
 結局進は中の中の私大を受験した。
理由は明解、入試日が高校の学年末テストと重なっていたからだ。
入試の為に休むのだから高校は欠席扱いにならない。
しかも学年末テストを受けなくて済む。
我が息子ながら何て合理的なんだ。
でもこんな理由で選んだ大学に4年間も通えるものなのだろうか。

 麻子にも試練が訪れた。
確定申告の準備の為に帰宅していた夫に
仕事をしていることがバレた。
夫は負い目があるのか麻子には何も言ってこない。
麻子からも強いて言わないでおくことにした。
 もう一つは異動だ。
漸く自ら段取りを考えて先輩職員達にも勇気を出して指示できるくらいに慣れてきたのに。
次に配属されるユニットは介護度も認知度も高い方が多いらしい。
 施設長は「前田さんのこれからの勉強の為に」とまことしやかに言ったが、現在のユニットリーダーも知らされていない急な異動だ。
「あの大人しい施設長がそんな決断をする筈がない」「パートの異動は今まで殆どなかった」「谷川課長の虐めに決まっている」と耳打ちしてくれた人が何人か居た。
初めて見学に来たときにコーディネーターという名目で面接に同席した女性が、谷川課長だ。
前々から何かと嫌味を言われることが多いと感じてはいたが、他人から見ても「虐め」と感じられるほどだったのか。
麻子はため息をついた。
(2558文字)


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