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【小説10】麻子、逃げるなら今だ〜罠〜


全話収録(フィクション)⤵️

前日譚•原案(ノンフィクション)⤵️


10.罠

 次男進の大学から封書が届いた。
 「もう後期の授業料かぁ…」
麻子のパート収入、長女由美が毎月入れてくれる5万円、つもり貯金で払えない訳ではない。
長男修は生活費こそ入れてくれないが、アルバイト先のスーパーでお米や野菜を買って帰って来てくれる。
それも絶妙なタイミングで。
進は定期代や昼食代を自分で賄っている。
出張先の夫には、金額と入金期限を留守電で伝えた。
相変わらず何の返事もないが、来週には一時帰宅するから伝えてみよう。

 「進の後期の授業料をお願いしますね」
夫には余計なことは言わずに単刀直入に伝える。
たまにしか顔を合わせないのに、帰宅時にもめっきり会話が減った。
世間話などすることもない。
最後に笑顔を見たのは一体いつだっただろう。
 「隠してるつもりでも俺は知ってるぞ。
奨学金を受けてるんだろう。
俺が払う必要はない」
払う必要はないですって?
生活は変わらないと、進学費用の心配は要らないと、入学金は追って払うと言ったのは夫ではなかったのか。

 決して快適な職場ではなかったが、仕事をしている時間は夫や家計のことを忘れていられる。
まさか仕事が気分転換になるなんて。
現実から目を背けたくて、日勤だけではなく早出のシフトにも入るようになった。
リーダーや深田さんが出勤しているときには、麻子が谷川課長と関わらないで済むように何かと盾になってくれたのも有り難かった。

 最近、退職者が続いている。
しかも谷川課長お気に入りの職員や主任クラスの職員達だ。
麻子には隣のユニットとの兼任を言い渡された。
新しい職員を採用するまでの繋ぎかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
職員の増減があっても対応可能なようにシステムを変えて行くらしい。
 職員、ご入居者とそのケア、ご家族…
また一から覚え直しだ。
どうしていつもパートの麻子が標的になるのだろう。
確かめようもないが谷川課長の思惑が絡んでいるのだろうか。
 「前田さんがよくできるからじゃない?
だってね実際よくやってるなぁって思うもの。
多分ね、谷川課長は前田さんのことを怖れているんだと思うよ」
麻子より少し先輩のパート職員が言ってくれても何の慰めにもならない。
谷川課長が麻子を恐れてるですって…?

 人員不足を補う為、施設長が前職のコネクションを利用して3人の男性をヘッドハントしてきた。
事業所の所長や介護研修講師の経験がある経験豊かな人達だ。
どういう取り決めがあったのか知る由もないが、平社員からのスタートという待遇に不満を抱いているのは明らかだった。
 二つのユニットを兼任している麻子は、そのうちの2人と一緒に勤務する機会を得た。
入職は彼等より早いとはいえ経験が浅いからこそ訊くことに抵抗はなかったし、彼らも麻子には惜しみなく教えてくれた。
その中でも講師をしていた加賀さんからは受講料を払ってでも知りたいことを教えてもらえた。

 今日は隣のユニットで早出勤務、夜勤は加賀さんだから安心だ。
 「山根さんの食前薬をここに用意したんだけど、前田さんに服薬をお願いしてもいいかな?
その間に他のご入居者を起こしてくるから」
体格の良いご入居者を率先して起こしに行ってくれる加賀さんは頼もしい。
 薬は夜勤の看護師が、ご入居者名と薬の種類と数を確認してケースにセットしてくれている。
介護職員が再度ご入居者名と薬を確認してから、ケースから取り出す。
砕いても支障のない薬、トロミをつける薬、事前に服薬ゼリーでふやかす薬、オブラートで包む薬、ご入居者によって様々な準備が必要だ。
更に服薬介助するときにはご入居者名を確認する。
麻子は加賀さんが準備してくれた薬を山根さんに服んでもらった。

 「服薬手順はマニュアルで決まっているでしょう。
どうしてこんな事故が起きるんですか」
谷川課長の声が頭にキンキンと響く。
どうしていつもご入居者がいる所で大きな声を出すのだろう。
 加賀さんが準備してくれた食前薬は山根さんの薬ではなかった。
加賀さんが何度「僕が準備して前田さんに頼んだ」と説明しても谷川課長は聞く耳を持たない。
「どうして」と問われて麻子が説明しようにも「言い訳は要りません」と遮られてしまう。
 谷川課長と麻子では話にならないと判断されたのか、副施設長が麻子にヒヤリングをしに来た。
時系列に沿って説明をしようとする麻子に対し、誘導とも取れるクローズドクエスチョン。
副施設長の中では既にストーリーができ上がっていた。
山根さんの体調が悪くならなかったことだけが救いだった。

 「前田さん、本当にごめん。
僕が薬の準備をしたと言っても、前田さんを庇っていると思われてしまうんだ、そうじゃないのに…」
加賀さんが申し訳なさそうに何度も謝る。
谷川課長から言われた言葉が甦る。
 「講師までして人に教える立場の人がそんな事故を起こす筈がないでしょう」
麻子はミスをしても事故を起こしても当然の存在だと思われているのだ。
加賀さんのことを悪く言いたくはないけれど、やってもいないことをやったとは言えない。

 その日のうちに加賀さんから衝撃的なことを聞いた。
そもそも夜勤看護師が薬をケースにセットするときに入れ間違えていた可能性があるというのだ。
ご入居者がいつどんな薬をどれだけ服むのか、本来なら看護師も介護士も把握しておくべきだろう。
 ただ、夜勤看護師は派遣で勤務回数が少なかった。
加賀さんは入職して日が浅い。
麻子は隣のユニットでの早出は未だ2回目だ。
3人ともが、山根さんの朝食前薬が何であるかを即答できる状況ではなかった。

 麻子が加賀さんから服薬介助を依頼されたときには、薬はケースから出されて服薬ゼリーと混ぜた状態だった。
加賀さんがケースから薬を出すときには「山根さん、食前薬」と声出し確認をしたと言っている。
夜勤の派遣看護師はどうだったのだろう。
薬情と突合しながらケースに入れて行くときに、入れ間違いはなかったと言えるのだろうか。
どうして派遣看護師はヒヤリングすら受けなくて済むのだろうか。
麻子に一切の責任がないとは言い切れないが、少なくとも連帯責任ではないのだろうか。

 程なくして、ヘッドハントされた3人の男性職員は一斉に退職した。
表向きは処遇に不満があるということではあったが、山根さんの服薬事故への対処に失望したのも一因らしい。
いつしか派遣看護師の姿も見えなくなっていた。
(2581文字)



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