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【小説11】麻子、逃げるなら今だ‼︎〜落とし穴〜


全話収録(フィクション)⤵️


前日譚•原案(ノンフィクション)⤵️


11.落とし穴

 「前田さん、良かったね」「もしかして未だ知らないの?」
朝から口々に言われるんだけれど?
前日が休みだった麻子には何のことだかさっぱり判らない。
 「谷川課長、本社に異動だって」
まさか、本当?
社内メールを確認したいが各ユニット2台しかないパソコンは夜勤明けと早出の職員が介護記録を入力するのに使っている。
トイレに行くついでに掲示板を見た。
 「4月1日付け 本社営業部兼研修担当を命じる」

 その日は退勤するまで、会う人ごとに「おめでとう」と言われた。
谷川課長とのことを口には出さないけれど心配してくれていた人がこんなに居たとは、麻子にとって驚きだった。
 愚直にやり続けていればいつかは理解してくれる人が現れるのではないかと密かに願っていた。
谷川課長怖さに行動や言動に出せなくても、実際にこれだけの味方が居たのかと思うとこれからも頑張れそうな気がしてくる。
 反面、居なくなることに対して「おめでとう」と言われる谷川課長が気の毒にも思える。
課長になるだけの人だ。
その才能を職員虐め以外に使えなかったのだろうか。

 「人に頭を下げたことがないのに営業が務まると思う?」「研修担当兼任ということは、本社に研修に行ったら講師が谷川課長ってこともあるのよね?」
暫くの間は谷川課長の話題で持ちきりだったが、当の本人がめっきり大人しくなってしまい次第にフェイドアウトして行った。
 麻子が挨拶をしても会釈も返さないのはいかがなものかと思うが、理不尽な叱責やご入居者の前での大声がなくなったのは助かる。
麻子に対してというより、離任する職場に関わる時間が勿体ないというような素ぶりだ。
私なら「立つ鳥跡を濁さず」の方が良いのにと思うがもちろん口には出さない。

 谷川課長最終日の3月31日、麻子は日勤シフトだった。
何と挨拶をしたものだろう。
 夕刻、夜勤職員に申し送りをしていると靴音高く谷川課長がユニットに入って来た。
 「お世話になりましたっ」
大きな声で言うなり、クッキーらしきお菓子の包みを音を立てて叩きつけて出て行った。
こちらから言葉を返す間は一瞬もなかった。
最後までこういう役を演じ通したんだと思うと「ご立派」以外の言葉が思い浮かばない。
 麻子がスケープゴートにされた(と思っている)介護記録や事故報告書は、ご入居者が退所か亡くなられたあと5年間の保管義務がある。
谷川課長が離任することで麻子有罪(?)の記録は修正されることなく残ってしまう。

 出張先の夫からの生活費入金が更に減っている。
 「足りない分は、取引先からの入金があり次第に」と言っていたのが「ないものは払える訳がないだろう」に変わった。
謝ってもらいたいとは思っていないが、
夫の辞書には「家族に謝る」という言葉はない。
代わりに「家族なんだから我慢するのは当たり前」という言葉があるらしい。
 カードローンを返済できなくなったらしく「返済のことで」としょっちゅう留守電メッセージが入っている。
自宅番号を登録しているので出張先の夫が直接聞くことはない。
麻子の借金ではないが、仕事から帰る度に再生して聞くのは気持ちの良いものではない。
カード会社に無駄な金利を払うくらいなら、麻子に泣きついてくれれば良いものを。

 「私だって1円も返してもらってないよ」
長女由美から聞いてショックを受けたのは、それから間もなくのことだった。
麻子に弱味を見せたくない夫は、由美から内緒でお金を借りていたらしい。
 「そんなこと全然知らなかったよ」
 「だってお父さんから口止めされてたからね」
麻子が働いていることには、いくら何でも気づいているだろうに、夫は何も訊いてこない。 
もちろん頼ってもこない。
夫婦なのに水臭いと思わなくもないが、大口を叩いて会社を辞めた夫のプライドなのだろう。
プライドでご飯が食べられるなら苦労はしない。

 由美に訊いたところ、金額は50万円。
返済期限の取り決めも借用書もない。
 「お父さんのことを悪く言いたくはないけれど、今からでも由美宛てに一筆書いてもらった方がいいよ。
お金に対しては案外大らかだからね」
「案外大らか」なんて生優しいものではないが娘の手前、言葉を選ぶ。
 「借用書なんて要らないよ。
どうせ返してもらえるなんて初めから期待してないから。
あげたつもりで貸したからね。
返してもらえたら、その方がびっくりするわ」
夫より由美の方が何倍も大人だ。

 就労支援の絹田さんが言っていた「手取りが20万円あれば」が実感として迫ってくる。
麻子の職場は業界内でも低賃金で有名だ。
パート介護職員では望むべくもない。 
少しでも時給を上げようと勤めながら実務者研修を履修し介護福祉士の国家試験にも合格したが、社員になるには夜勤が必須なのだ。
 由美にまで借金をしている夫のことは当てにはできない。
次男進が大学を卒業するまでは、日勤より早出を増やして少しでも収入を増やして行くしかない。

 谷川課長が居なくなってから離職者が減ったように思う。
ただそれまでに退職した職員の補充ができていない。 
 精神的な負担は軽くなったが、身体的な負担は確実に重くなっている。
早出を増やすどころか、早出から続けて日勤終了まで働かなければシフトが回らなくなっている。

 その日も早出•日勤のシフトだった。
午前中の入浴介助を終えたら着替えてリビングに戻る。
介助着のまま浴室清掃まで終えた方が楽なのだが、そうすればリビングで見守りをしてくれている夜勤明けの職員がいつまで経っても帰れない。
日勤•遅出の職員が出勤してくるまで浴室清掃は後回しだ。

 ユニットを兼務する職員も珍しくなくなった。
職員が足りないのだから仕方がない。
 昼食の介助を終えてご入居者を居室に誘導した後、見守りが必要なご入居者の車椅子を浴室前に停めチラチラと様子を観ながら清掃をしていた。
 「前田さん、大丈夫?」隣のユニットの職員が様子を観に来てくれた。
 「何とかね」と言いながら振り返ろうとして、グレーチングを外した排水溝に片足を踏み外してしまった。
慌てて引き上げた右脚を見た職員が
 「痛くないのっ⁉︎白い物が見えてるっ‼︎そのまま動くなよっ‼︎」と叫んで車椅子のご入居者を連れて行ってくれた。
取り残された麻子には状況が飲み込めない。
麻子の身に何かが起こったらしい。
(2558文字)


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