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母と過ごした2ヶ月半

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2022年8月。私は27歳、母は59歳。急に足が動かなくなった母は、ガンが脳に転移しており、余命1,2ヶ月と宣告される。私は仕事を休み、自宅で母の介護がスタートしました。母と過ご…
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#訪問診療

48 最後の

人工呼吸器をつけだしてから 母は言葉を発することもままならなく もちろん飲み食いはできなくなった。 最後に口にしたのは、オロナミンC。 母が必死に、何かを私たちに伝えようとしてくれた時 頑張って聴き取った言葉が『オロナ』だった。 嚥下機能は低下していて、誤嚥性肺炎の危険もあった。 吸う力だってもう殆どない。 家族みんなで、オロナだって!!どうしよう!!と考えて 口腔スポンジにオロナミンCを染み込ませて口に入れた。 ガブっと噛んでしまうのでスポンジを噛み切ってしまわ

47 水分を取らないのになぜ尿が出るの?

死期が迫った時の特徴として 尿量が減る ことがあげられる。  さて、うちの母はというと 一向に尿量が減らない! 数時間〜数日でしょうと宣言されたにも関わらず、変わらない量出ている。しかし下腹部はぺたんこで骨が浮きでいる状態。 もう膀胱には尿など溜まっていないのでは…? 看護師さんにたずねてみると… 「飲み食いせずに5日くらい経ってますが…なぜ尿が出るのですか?」 「体に溜まった水分、むくみなどが尿として排出されているんです」 なるほど。 体の水分が尿として抜けて、

44 私にくれた最期の言葉

何が正しい処置なのかわからない。 ただ、怖かった。 苦しむ母を目の前にして何をすればいいかも分からず、 看護師さんの指示通りにやっても、苦しみ続ける。 今の状況が、死の直前なのか、死へ向かう過程なのか。わからない。お医者さんでもわからないのかもしれないけど。 とにかく苦しむ母をなんとかしたくて、 何が緩和ケアなんだと悔しくて、 友達が話してくれたことを看護師さんではなく、(看護師さんは酸素マスク導入について決められないらしい)お医者さんに電話相談した。 このときは既に

34 よく食べたものは

母がよく食べたもの&飲んだもの 1位 サクレレモン 2位 オロナミンC 3位 ウェルチのぶどう 母はよく、アイスをたべました。 液体にとろみはつけずに提供しましたが 完全な液体よりも、氷のほうが水分摂取がしやすいようでした。 私が、「アイスはどうー?」 と言って食べるアイスを選んでもらったあと食べさせようとすると… 「ちゃぴおは何を食べるの?」 と聞いてくる。 「私は寒いしいいよ〜」 と返しても 「せっかくなら食べようよ!」  とすすめてくる。 一人だけ食

32 今を無駄にする人に未来はない

明日、実家に行きたい。 母がヒステリックモード全開で怒りながら伝えてきた。 しかし、こちらは母を連れて行くとなると福祉車両の予約やなんやかんやいろいろ準備が必要になってくる。 「今度の週末にしようよ」 みんなでそう返した。 するとさらにヒートアップし 「今いかないと、もういけるかわからないんだよ!」 その言葉でハッとした。 なんてことを言ってしまったんだと 心が苦しくなった。 私が日々一緒に過ごしているこの人に この世の明日が来る確率は物凄く低い。 それなの

31 カウントダウン

8月下旬に退院してから、私達は毎日母の様子をカレンダーに記録していった。 この記録を見返しながら姉が言う。 「毎週、火曜日がターニングポイントなのかも…。」 退院して一週間近くは、もちろん来客の嵐。 その中でも母はいろいろな人と楽しくお喋りができていた。 しかし、火曜日になると 痰が絡み苦しそうな様子になっていた。 その後も一週間ごとにせん妄のような症状が出始めたり、尿の不調や食欲のさらなる低下、睡眠時間の増加、意識障害…… 『あ!これが、週単位か!』 終末期に

29 たとえ明日、母が滅びるとしても私は母を保湿する

「この身体、どうせ焼かれるんだから もういいんだよ」 私が、母の身体に保湿クリームを塗っているときだった。 そんなこと言わないでくれよ、と思いながらも私は直ぐに返した。 「そんなの、みんな同じだよ。私だって焼かれるんだから。」 明日、母は死ぬかもしれない。 それでも私は母の身体を保湿する。 あれじゃん、ルターが言ってたやつ。 『たとえ明日世界が滅ぶとしても私はリンゴの木を植えるだろう』 同じことしてる、あたし。 でも、あたしだって、みんなだって 生きていたら明

28 ボタンをポチッとから人権を考える

母は、我慢強すぎる。 痛み止めにはオキノームを処方されていた。 (少量の水で溶かし、飲む粉薬) 痛い、というのでオキノーム飲む?と聞いても 「飲まない。」 「まだ、飲むほどの痛みじゃないから。」  と返ってくることがしばしばあった。 しょっちゅう飲んでしまうと効かなくなるから、ということ。 その代わり本人が飲むタイミングは 相当の痛みなのだろう。 夜中3時でも、朝の5時でも、 痛いといえば起きて対応した。 しかし、飲む作業さえ本人に負担になっているように思った

27 尿バッグしんどろーむ?

母は入院中に、尿のバルーンカテーテルをいれた。(尿バッグと呼んでいたので以下、尿バッグ) 退院後、600ml程出ていた尿も 1ヶ月後には半分になっていた。 水分摂取量にも寄るが、腎機能が正しく機能しなくなり、尿も徐々に出なくなるという。 「死ぬ24時間前には尿が出なくなるらしいよ。」姉が教えてくれた。 今日はまだ尿が出ている。ということは 今日も明日も生きる、大丈夫だ。 なんて安心材料にしていた。 尿関連でびっくりしたことがある。 1つは 紫色採尿バッグ症候群 だ。

16 処方箋?

退院して一週間が経ったとき、 急に痰がからむようになった。 ゲホゲホ。 ゴロゴロ。 喉の下辺りに痰が絡み苦しそうな様子。 往診の際、相談してみると 痰の薬である アンブロキソール、カルボシステイン を処方された。 ところで、訪問診療って 紙の処方箋があるわけじゃないし、 薬が無くなったらどうするんだ? と、思っていたら 先生と薬の相談した後、先生が自宅近くの訪問診療対応の薬局へ連絡を入れてくださり…そこに受け取りに行くというだけだった。 様々な医療機関がこうや

12 訪問看護の看護師さんってなにするの?

自宅で看る、となると必要になるのが 訪問看護(看護師さん) 訪問診療(お医者さん) 訪問介護(介護士さん) でした。 すべての手配はケアマネさんがスムーズに行ってくれ、3つそれぞれ別の会社にお願いしました。 とりあえず、病院の先生やケアマネさんからのアドバイスの元利用回数などを考えたが… 一体何をしてくれるんだ? どのくらいの回数が適当なのか? 初めてのことでさっぱりでした。 一番多く来てもらったのが ①訪問介護の看護師さん はじめは週に2回お願いしていましたが、

6 救急車

今朝は通院。 朝起きて、通院の身支度をしながら 母の異変に気づいた。 片目の視線がズレている 呂律が回らない 加えて下半身不随となった身体で普通の乗用車への乗車も難しい。その中で30分も車に揺られて通院はもはや不可能だった。 「救急車を呼ぶ!」 父の判断は正しかった。 救急車で通院となった母。 近所の目を気にする母は、 「ピーポーは鳴らさないで!」 と強く言っていた。 しかしピーポーサイレンは必ず鳴らさないといけないらしい。

3 母のそばにいる くまさん

私が高校生のとき、母は乳がんが再発し片方の乳房が全摘となる。 ーーー 入院前一緒に出かけたジャスコ。(田舎) 母が、 「これかわいい!🧸」 と珍しくくまのぬいぐるみを見ていた。 その時は何気なく聞いていただけだったが 母が入院後、くまさんのことをふと思い出し、買いに行き病室へ届けた。 「覚えていてくれたんだ!」 ぬいぐるみで、キラキラと喜ぶ母。 想像以上の喜びように、母が可愛いと思った。 ーーー そのくまは今年の8月、最後の入院時も側にいた。 くまさんのこ

2 乳がんのはじまり

17年前、乳がんを患った母はその時に温存療法として乳房の一部を切除した。 私は小学生だったか。 その頃から母は痛いが口癖になっていたように思う。 天気が悪いと傷が痛むようだった。 正直そのくらいの記憶しかない。小学生の記憶なんてそんなものなのかもしれない。 しかし、一つだけ、覚えていることがある。 彼女は、自分が障害者になったみたいと言った。  みんなと違って、変な形になってしまったんだと小学四年生の私に切なく口にした。 彼女は周囲と異なることを極端に嫌っている。