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中学受験をするかしないか、SAPIXでイキっていた小学校の同級生に捧ぐ…元風俗嬢の妻と大手社員の筆者の見解の相違について。

大学に行ったから次郎系ラーメンにハマる

子どもが2人に増えて、教育費の見通しがつかない。とりあえず昨年夏から死ぬほど焦って積み立てNISAを始めた筆者。貯金は満額の投資信託emaxis slim(S&P500)一本槍のみである。はっきり言って風前の灯。焼け石に水。

何のアルゴリズムか知らんが、筆者のGoogle Pixel7aに表示されるGoogle Discoverが中学受験関連ニュース、ブログばかり出てくる。はっきり言って、愚の骨頂である。

筆者が大学を卒業したのは、もう10年も前の話(!)になるが、その頃の記憶をたどれば、結構な人数「中高一貫校」出身の同級生がいた。余談であるが、筆者の小学校の同級生の家にシャンデリアがあったカワちゃんは、中高一貫校を受験したのちに筆者と同じ大学、学部、学科を1年遅れで入学してきた。

SAPIXだのなんだの、スマホに出てくる塾の名前。筆者が小学生のころ、教室でカワちゃんが言っていた「俺はSAPIXに通っている」というイキり。入塾テストがあって、頑張らないとクラスを落とされるらしい――。筆者は「焼肉さん太郎」を食べながら「へぇ~カワちゃんはやっぱすげぇや!」と言いながら、落ちていたエロ本を蹴って眺めたものである。

時間は流れて、20年後。
筆者は都内の一流企業に勤め、めちゃくちゃ左遷されながらも積み立てNISAで”シサンケイセイ”しながら、2人の娘と、元風俗嬢の妻を養っている。そんなときに妻が言った。

「長女は中学は私立だな」

よくある話であるが、夜の商売から足を洗った女性(=水揚げ女子)は、基本的に「自分と同じようになってほしくない」という意識からか、子どもの教育にやたら熱心なのである。信じられない話だが、筆者の妻は、全身に入れ墨が入っているにも関わらず、そして元エロマッサージ屋であるにも関わらず(この辺は筆者のマガジン「私の妻は元風俗嬢」を読んでほしい。なお、連載再開は未定である)、これなのだ。

分かる。言いたいことは分かる。
筆者も妻と同じような人生を歩んでほしくはない。
「高校(私立サポート校)の先生がたばこを買いに行ってくれた」(おそらく、生徒が勝手にたばこを買いに行ってあたりかまわず吸うからであろう)
とか
「学校が就職のサポートをしてくれないから、卒業式の翌日にハローワークに行った」
とか
「エロマッサージ屋で働いているときに同級生が同僚だった」
とかを聞いているからだ。

彼女は言う。「大学出ていれば人生が変わっていたはずだ」と。
たしかにそうである。悲しいことにおそらくこの国の富の大半は、大卒の人間にしめられている。筆者がemaxis slim(S&P500)を買うのも大学に出ているからだし、30歳を超えてから初めて次郎系ラーメンにはまっているのも、大学を出ているからだ。次郎系ラーメンは大学の友達が、学生時代から食べていた。大学はすごい。先進的である。

だが、しかし。あえて言う。中学受験、いくらなんでも「ムダすぎないか?」

そりゃ、マジですごいやつもいるだろうけど、それはマジですごいからだ。

例えば、「将来のため」中学からめちゃくちゃ良い学校に行ったとする。ちなみに、超難関校の相場は小学3~4年生の時には受験勉強を始めているらしい。よく知らんが、この時点でかなりの人間が振るいに掛けられているはずだ。つまり、9~10歳くらいから「お勉強」が始まる。

そして念願叶って超名門校に入ったとしよう。そこからの6年間である。
(「将来のため」という当初の目標を貫徹しようと思ったら)そこから中学3年間、高校3年間まためちゃくちゃ勉強する。どんなに頑張っても、この時点で10代の大半が勉強に費やされる。

もちろん、フィジカルな意味で縛られる時間は6年間丸々ではないだろう。
だが、頭の片隅に「受験」がある。幼少期といってもいい小学6年生の成功体験なのか、失敗体験なのか、妙な質感を持ってそれは迫ってくる。

そんでめちゃくちゃ勉強して、受験を迎える。
はっきり言って、受験当日に寝坊したら終わりだ。事故に遭っても終わりだろう。もしくはめっちゃ気分が落ち込んでいるかもしれない。いろんな状況があって、それを乗り越えて大学に受かったとしよう。大半の人のトップは「東大」である。

大学や大学院で4年なり6年なり8年なりを過ごして、就職活動したら、今度は(とてつもなく理不尽なことだが)学力以外のことが問われる。主体的に取り組めるかとか、やる気があるかとか、考えられるかとか、親にコネがあるかとか。

就職してからはさらに複雑だ。仕事で成功するかしないかはかなり時の運にも左右されるし、自分がどれだけ仕事に向き合えるかが問われる。
恋愛だって、多難を極める。結婚する気でいても相手がいるかもわからない。しない気でいたっていいが、それはそれで大変だ。考えなくてはならないことだらけなのだ。

そう考えると、人生で「何も考えなくていい」「自由に過ごせる時間」、言い換えれば「ヒマでいてよい時間」は10代にしかない。
20代以降は責任が伴ってくる。30代以降のそれはどんどん重くなっていく。
そんな自由に過ごせる時間の10代を、受験なんて無為なものに費やしていいのだろうか――と思うのだ。

いろんな反論はあるだろう。(というか、反論しか生まないだろう)
医学部があるじゃないかとか、海外の大学に行くかもしれないだろとか、受験勉強を通じて得られるものがあるとか、そもそもその年の子どもを育ててないのに偉そうなことを言うな――とか。
もちろん、その通りである。筆者は自分の言葉に責任を全く持たない。子どもが中学受験をする年齢になれば、受験させるかもしれない。必死になって東大に行かせようとするかもしれない。言葉はいつも、無責任である。

大切なのはどれだけヒマな時間を過ごせるか、だと思う

勉強なんて(基本的に、ある程度は、という留保をつけて)やればやっただけ結果が伴うものだ。
学歴なんて金があればいくらでもつくものだ。
世間は甘くない。みんな学歴を褒めてくれるが、それはかなりの「共通項」として「頑張ったこと」が分かるからだ。だが、世間は学歴にお金を払ってはくれない。頑張っただけでは報われない。

自分が何をなそうとしているのか、何を作り、誰を喜ばせることができるのか……。そういうのが必要だ。
筆者は明確に17歳まで一切の勉強ということをしてこなかった。自分の就きたい仕事を見つけ、大学を卒業していないといけないことが分かった折、死ぬほど勉強した。大学に入ってからも必死にいろんなことを学んで、結局、就きたい仕事についた。

大人になってから思う。
本当に大事だったのは、小学校の時に焚火をして近所の人に追い掛け回されたり、中学の時に手痛い失恋をして吐きそうになったり、高校の時に友達としがらんで学校をサボって繁華街で隠れながら煙草をふかしたり、そういうことだったのだ。


今から考えれば何でもない、下らないことに心を取られ、低俗な友達たちと卑しい遊びに興じ、金がないことすら楽しかったあの経験が大切なのだ。
冬の夜、全身が凍るように寒く、財布には小銭しか入っていない。だけど、時間はある。ヒマがある。家に帰るのは、だるい。じゃあ、なにしよっかな。
そんな経験が、クリエイティビティと忍耐力を生んでくれる。

受験しても、しなくてもできることなら、なるべくヒマな時間を作ったほうがいい。ヒマな時間をどう過ごすかという力は、いずれ2人の娘を強く、しなやかに育ててくれるはずだ。

とはいえ、それは教育費をねん出できるようになってくからするべきなのだ。今日も筆者はemaxis slim(S&P500)を積み立てる。大人にはヒマがないのだ。


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