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【かわむらという生き物】僕の人生③

ニセコ出兵時代


北海道には独特の空気感があると思います。

その中でもニセコは羊蹄山の麓に位置し、羊蹄山(蝦夷富士)とアンヌプリの間を縫うように伸びた町で、ニセコから倶知安までをエリアにして生活しています。海外の富裕層がこぞっって新年を迎えるために、家族でスキーをしながら高級ホテルでバケーションしにくるリゾート地です。

記憶の中にあるのは肺に刺さるような清涼感のある空気と白いいびつな形をした樹木。夏には見上げるほどに有り余る生命力を見せたかと思えば、冬にはすべての草木が姿を消して、深い眠りを感じさせる、時間が止まってしまったかとドキリとするような美しさに見とれます。

そんな地域の店舗でぐるぐるする視界をこらえながら店舗に立っていました。頭が回っていないので店舗に入るとき、かなり頻繁にセコムのロックを解除し忘れて、警報を鳴らし、怒られまくってました。


事の始まりは、僕の家がなくなったことです。

とある事情から来月には家を出なければいけなくなり、貯金はなく、引っ越しもできない。新しい家に引っ越せる貯金もない。というアホみたいな状態になったことでした。

親の反対をぶっちぎって大学を辞めた手前、「家なくなっちゃった(てへっ)」なんて周りに言えるハズなく。毎日青い顔をしながら店舗に立っていました。「来月からリアルホームレスだ。。」と本気で思っていました。


そんな時、店舗のFAXに社内公募の連絡が来ました。

ル〇シアにはお茶の部門以外に、食品の部門もあって、北海道のニセコに地元食材をふんだんに使ったレストランがありました。どうやらそこのレストランに併設されたブティックのスタッフ募集であると店長が紙をもって僕に教えてくれました。その紙を受け取り、目を通した僕は心の中で吠えました。

なんたって、家電付きの社宅完備、家賃は出向手当で半分どころか無料。車は社用車を使っていいと書いてあるし、引っ越しのお金も出向手当から。社員登用もあるし、今より給料がいい。

完璧じゃないか!今欲しい僕のわがまま条件を100%満たしている!なんだこれは!?こんなことあるの!?と、テンションぶち上げてエントリーシートをねじ込んでいきました。


速攻で応募・面接・引っ越しを終えて、北海道行きの飛行機に乗り込みご機嫌で飛んでいきました。面接のときに社長と、人事部長とエリア管理長の3者に囲まれて「川村君、本当に行くのかい?」と再三聞かれたけれど、僕は社宅のことしか考えていませんでした。


後から分かったことですが、店舗から出向で来た人は皆な辞退。本社出向者でも一年間フルで在籍し続けた人は一人のみだそうです。ほぼ現地のスタッフで構成されたきわめて特殊な職場だったようです。


大阪~札幌まで飛行機2時間、札幌から小樽まで1.5時間ほど、小樽からニセコまで2時間。合計5.5時間の引っ越し。

いつまでたってもゆっくり走っている電車。とっぷり日が暮れ、墨のように黒い車窓が延々と続く。だんだんと、とんでもない所へ来てしまったな、、と実感していきました。

やっと着いたニセコ駅。ここからニセコライフがスタートしました。


まず、ついて社宅がないことに衝撃を受けました。

正確にはまだできていないということでした。ニセコに来たのは10月。11月にはできている予定、とのこと。

なので、大きなロッジに仮で寝泊まり。一か月。20人くらいで。

もはや合宿。学生の合宿ならよかったのですがこれは社会人の合宿、しかも会社の創始者様と一緒に。ちょうど新事業立ち上げで本社から多くの人が溢れていて、本社上層部の人もちらほら。

朝食の時間が早くて、早起きした人から作っていく。当然一番新入りで、若年層の僕が朝食を作ったり、買い出し掃除などを進んでしなければならず。夜は遅く、朝は早い。


しかし思ったより、辛くはなかったです。はて?と考えてみると、そういえば自分体育会系にしごかれまくってましたわ。と思いだしました。


自分、、こういうの慣れてましたわ。とそんな感じで一か月を乗り切り、11月には無事予定通り社宅完成。ようやくお引越しできました。しかしここから春までが長かった。。

店舗に配属されてすぐに正社員に昇格して店長になってしまった。

ル〇シアのスタッフ経験のある人材がおらず、専属の責任者になってほしかったようです。そして、12月からの繁忙期に今まで店舗を回していた方がレストランの戦力に回るとのことで、仕事が分からないまま店長に。

しかも、商品の幅が広い。併設されたレストランから毎日上がってくるテイクアウトのデリ。これがメイン。ほかにベーカリー、パティスリー、ワイン、自社製造の冷凍食品、茶、グロッサリー類。これ全部一人で管理。

これに加え、発注、賞味期限管理、在庫管理、商品説明のための勉強、報告書作成、店舗のディスプレイスケジュール管理、施設の外観維持の掃除、設備の掃除。そしてスタッフは、日本語が分からない英語が喋れる台湾出身の方、地元の主婦の方、のみ。

出勤日は早朝、社宅近くの工場によって、ベーカリー工房とパティスリー工房、工場のキッチンに行き挨拶と、その日の商品とレストランへの届け物、自社製造の冷凍食品の在庫をどさっと受け取る。見たことがないものがよく混じっているので必ずその場で一緒に検品して詳細を聞く。

ベーカリーの人が機嫌悪いときとかあって、なぜか質問しただけなのにめちゃくちゃ怒鳴られた時もありましたがそこは「はい!さーせんした!!」と大声で言っておけば大丈夫。それらを軽バンにしこたま詰め込んで、レストランまで爆走。雪道の運転怖いとか考えてる暇がない。スタッドレス最強と信じて毎日ひた走る。

着いたらそれぞれに荷物を届けて、置いて、店舗の掃除、レジ確認、食品チェック。店舗の営業時間が終わったら、レストランの応援に。

皿洗い、送迎。なんでもやりました。

一番覚えているのは、○○ホテルに名前わかんないけど2家族分の予約が入ってるからお前迎え行ってこい!と言われ、英語話せないし、名前の分かんない人どうやって探せばいいんですかと返すと、おっきい紙にレストランの名前書いてホテルの前で立っとけばいける!!と言われて、ホテルの前うろうろしていたら万事解決したことがありました。僕は yes と yeah しか喋ってないけどなんだか会話も成り立っていた気がするし(成り立っていない)、お客さんも喜んでた。


その時、手段は泥臭くても汚くてもかまわないのだ。ズルだけしなければたいてい何とかなる。手段などどうでもいいのだという心理を学びました。あと言葉は割とどうとでもなるから、気にせずコミュニケーションをとろうとする姿勢だけ大事にしとけばOKということも学びました。


こんなことを一年続けていました。お陰で、茶だけでなく、北海道のお美味しい食材を沢山食べれて舌が肥えました。パン食文化も知れたし、ワインも好きになりました。何よりめっちゃ精神が強くなりました。

途中どうしてこうなったと何度も立ち直れないような事件もあったけれどいろんな人に支えられて、店舗に立ち続けることができました。

突然トウモロコシの収穫に駆り出されたり、社宅の前の雪かきを僕以外の住人がしてくれなかったりとか。

一日中クッキーを箱詰めするだけの日々もあったし、一日中トウモロコシを芯と粒に分ける作業をした時もあった。休みの日にスキー場のてっぺんで上司からひどいパワハラ電話を受けたときもあったけど,

めちゃくちゃ今の自分の財産になっています。


また、人に恵まれた時期でもありました。とても大切な思い出です。

特に影響を受けたのは、2歳年上の料理人のKダマさんと、台湾の茶問屋の息子のSヤン、そしてスパイス使いの料理人Mシタさん。

Kダマさんは、料理の腕前が本当にすごく、海外の星付きのお店や、有名なレストランでスーシェフとかされていたそう。年が近いのに別次元のステージのいるKダマさんをめちゃくちゃ尊敬していました。独立して自分のレストランを持つと言っている姿はめちゃくちゃ刺激を受けましたし本当に色んなことを教えてもらいました。ただ割とクレイジーなひとで、プライベートでは、なんか、こう、すごい人でした。でもいっぱい遊んでもらいました。

いっぱい遊んでもらったというより、ほぼ一緒に生活してました。一緒にいすぎてレストラン長に「Kダマ大丈夫?かわむらに襲われてない?」と言われたことあったみたいです。いやなんで僕をゲイみたいに思ってんですか。しかもどちらかというとKダマさんが足しげく僕の部屋に通ってたんですけど。毎日せっせと仕事終わりに来てビール爆飲みしてましたけど。

Kダマさんに、たまにはKダマさんの部屋で飲みましょうよというと「かわむらさんの部屋の方が家財がそろってて居心地いいし、自分の部屋臭くなるの嫌。」と言われました。おいこら。


Sヤンは同い年で、仲が良く、台湾の話をいっぱいしてくれました。台湾では雪をあまりお目にかかれないようで、しこたま降る雪にはじめは感動していましたが、一冬越すと「もう雪はいいです。」と遠い目をしていました。真冬の小樽に一緒に遊びに行って、凍結した道路で僕が豪快に滑り、Sヤンに突っ込んで一緒にずっこけたこともありました。

本当にむかつくことがあったとき、大変そうな彼に大丈夫?と聞くと遠くに向かってめっちゃ怖い顔で「〇ァック!!」と中指立てて吠えたときは、なんか、心配よりも面白いの方が勝ってしまって、おお!いいぞ!と言って、僕も一緒に〇ァック!!と中指立てて笑いました。楽しい思い出です。今でもよく連絡を取っていて、将来的にSヤンの茶を輸入したい。


Mシタさんには、本当にお世話になりました。書ききれないので書けませんが、鍛えてもらったし、仲良くしてもらえましたし、自分の許し方を教えてもらいました。今でも頻繁に交流しているかけがえのない方です。大好きです。Mシタさんが下ネタとキノコが大好きすぎて、たまに話しててヒきます。


他にも、沢山の方が、可愛がってくれました。仕事は大変でしたが、人や土地は本当に素晴らしい、温かい思い出の残る時期を過ごさせてくれました。

ありがとうニセコ。



そんな感じで、人との出会いや知らなかった文化への出会い、新しい価値観を知って、僕はある決意をしました。そしてニセコに来てから一年経って、会社を辞めました。


地元に戻り、身辺整理をしていざ引っ越し。行先は、台湾。

ワーキングホリデーで一年。海外生活をすることにしたんです。

期待を胸にいざ台湾へ。


そして、台湾に来て4か月が経とうとしていた時。僕は無職で部屋に引きこもっていました。

人生って厳しいですね。



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