見出し画像

Gottes Licht

長い、一本道。
車窓から、横目に覗く。
つい先日の豪雨により薙ぎ倒された、穂の太った稲達が、蒼白い月夜の涙に濡れていた。

老いた線路の、静かな悲鳴を聞く。
生気を無くした車掌の声が、停車場の名を告げた。

私と、斜め向かいに座っていた彼女の二人だけが、鈴虫の音色が響き渡るこのホームに降りた。

一両編成のチンケな車両は、山並みの藍に消え征く。

蛍光灯に群がる蛾。懸命に旗めかす翅が、軈て光の熱に焦がされ、その身は地に還る。
私には、帰る場所など無くなってしまったから、駅のホームの傍ら、白茶けた長椅子に腰掛けた。火照った身体に張り付くシャツの首元、臙脂に染まる。
白いワンピースを纏った、黒く艶やかな長髪の彼女も、私と同様か、又は単なる自由心からか、ホームに留まっていた。そうして端正で、涼しげな横顔で、丸い、底無しの夜空を見上げていた。

「星が、綺麗ですよ」

彼女が一人、ぽつと呟いた。

私は、こんな夜更けに若い女が、一人の陰鬱な男に話しかけるなど全く不用心である、と思いつつも、その美しく澄んだ、ヴァイオリンの音色の様な声に、ただ一言。

「そうですか」

とだけ、返事をした。
無視を決め込むわけにいかなかったのだ。
此処に気取る私も、如何してか人間特有の、夜に感じる独特の寂しさを、飲み込める程強く生きてはいないからだ。
長年寄り添い続けたはずの“それ”に、私は未だ適応出来ずにいる、これは明確な証拠だ。

「見えますか。この星達が。幾千年も前に消えているかもしれない輝きが、今、こうしてここに生きている私達の眼に、脳に、心に、届いているのです」

ついに彼女につられて夜空を見上げたが、いかんせん、私の目は使い物にならないので、一つ、また二つ。目を凝らしてみれば、どうにかその輪郭が見えている気になる程度で、果たして其れ等が真実、星なのやも分からぬ、不鮮明な様相であった。

「私には、無数の星達が、そのそれぞれが、見た事も無い程の美しさを持ち、眩く輝いて見えるのです」

恍惚に語る彼女の横顔は、西洋の油画を切り取って貼り付けたみたく、鮮明に浮かんで見えた。

私は、思う。
彼女の見ている世界と、私の見ている世界では、そもそもの“綺麗”の数が違うのだと。

彼女の生きる世界にも、私の生きる世界にも、同等に“綺麗”は存在し、その中で彼女だけが、其れ等を拾い上げる事が出来る、能力や感性を備えているのだと。

彼女は、田舎の深い雪に浮かぶ、真紅のナンテンの実にも、雨の日の、薄鼠色に侵食された山の連なりの歪さにも、美しさを感じられる事だろう。

私には、そのどれもが、単なる光景に過ぎないのだ。

この、たった今見知ったばかりの、不思議で、純粋な暗さを持つ一人の女と、私とでは、明らかな生命の置き場、その互いの天秤の傾きに、違いがあるのだと知った、初めての夜であった。

蒸した、夏の終わりの空気の中。
彼女の華奢な肩から伸びた、柔らかな曲線を持つ腕が差す、この闇に広がっているはずの幾千もの中の、一つの星。
あれは、これから先の私が、どれだけ美しいものを目にしようとも、紛う事無き、一番星。
その輝きに値する。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?