自己の形成と破壊を繰り返す中で全部が無意味と思えたその先に何を見出すか

突然だが、読者の方々は何に価値を認め、見出しているのかを考えてみたことがあるだろうか。僕自身はよくわからないものの、自己の人格を形成しては破壊して焼け野原にして、また形成してしていくというのをそこそこ頻繫に繰り返していたと思っている。

僕は昔から忌避されることがほとんどだったので、何故忌避されるのか、何故受け入れられないのか、ということに頭を抱えていたのは事実だ。よく、「お前は異常だ」と言われたりすることもあったのだが、僕にとっては普通としか思っていない以上、なぜ異常扱いされるのかも分からなかった。他にも、他人を陥れて狂喜に浸るという人や他人の個人情報を平気で他言して楽しんでいる者たち、事あるごとに囃し立てて炎上を扇動する人々やそれをなんともしない社会というものを見て嫌気がさしていたのも事実だ。その中で時には「この社会をぶち壊す!」という強い破壊心を抱いたこともあれば、時には人の面白さ・善さというものに触れたことで人間への可能性なるものを期待してしまう己もいた。つまり、人間の善なるものと悪なるもの、社会における善なるもの・悪なるものを知覚する度に己が何故この世界で生きているのか、自身の存在価値はどこにあるのか、自己とはそもそも如何なるものなのかというものをぼんやりながらでも考え、破壊と創造を繰り返していた。

そういう過程を繰り返す中で善とか悪とか、普通とか異常とかそういうカテゴライズには価値がないと思えたし、いろんなことにあれこれ頭を抱えすぎて激しく「こうあるべき」とか「こうするべき」とかいう「べき論」とか、どこかに所属していることの意義とかに辟易するようにもなった。更にはそういうカテゴライズが生まれる究極の事柄は自身の存在及び他者の存在にあるのだと思い、全ては無価値だ、無意味だと思えるようになった。所謂全てへの失望・失意という状況への到達である。

それだけではない。人間そのものは無力であることも思い知らされた。世界の偉人とは何かを成した存在ではあるものの、特定の分野で何かしらのことをしたに過ぎないのだ。例えば、アインシュタインは、物理学という特定の分野で功績を出したに過ぎない。すべての世界の在り方そのものを根底から破壊するほどのことを先人のうちだれがなしたか?誰もなしえなかった。世界を変えることのできた人間など、どこにも存在しないのである。それならば、世界を変えたいと努めたところで結果は生じないのだ、ということを思い知らされたのだ。つまり、世界一つ破壊して再創造するということすらできない人間という無能さを知ったのである。ここに人間そのものの無価値・無意味・無駄というものを見出した。

では、ありとあらゆるものに失意を覚えて何もかも意味や価値がないと思えた先に我々は何を見出すのだろうか。

究極的には自分自身にしかわからないだろう。即ち、どれに価値を見出すか、なんて個人に委ねられたことで、そのことへの是非なんてごみクズみたいにどうでもいいのだ、ということである。例えば、バラエティー番組に価値を見出したとしても、それは僕からすればクソみたいにどうでもいいことだし、ある服装がその人の好みならそれをとやかく言うだけ無駄なことだ。それが変だと思うならそれでよし、そういう服装を自分がしなければいいだけのことである。

既存の制約・虚構(法律が一番わかりやすいんじゃなかろうか)の中でもやれることはあるし、そこではある程度自由は利く。何をしようと別に個人の勝手なのだ。その制約の中で異なる世界同士があぁだこうだ言うのも自由だが否定する必要もない。物理学的に言うならば、加速度という単位を有するものと、㎩という単位を有するもの同士を比較して是非だの優劣だのつけようとするものだろう。単位が違うということは物理学における次元(世界)が違うものであるから比較しようがないし、するだけ無駄だ。そもそも究極的には何もかも無価値なのだから、ZEROから1、2・・・へと価値を付けていくのは個人次第で、個人が何に価値を見出そうが勝手なのだ。どうでもいいのである。他人が見出した価値にグダグダいうくらいなら、自分が見出した価値を高めたり、何らかのアクションを起こしたりする方がよっぽど合理的だし、有意義であろう。

皆違って皆どうでもいい、ととあるメディアアーティスト等数多の顔を持つ人が言っていた。僕は彼とは別の過程ではあろうがそれについて同意見であろう。

すべて無価値と化した、価値の破壊された世界からあなたは何を目撃しますか?

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