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3.1 mon ここは知らない地獄じゃなかった。地続きの地獄だ

 友人たちの卒業式に出向いた。元同期が修了する年だったので、花を渡しに。ご時世である、式を見たり学校の中までは入れなかったけど、校舎前でみんなの写真を撮らせてもらった。自分が彼らの姿を拝みたかったりその写真がほしい一心で出向いたので、来てくれてありがとうと何回も言われてほっとした。
 朝から晩まであたたかく、とても穏やかだった。

 人に会うことが格段に増えた。そういう機会が春は多い。本当に機会のおかげ、話したり何か見たりすると何かしら熱をもらえるもので、面白いという感情が素直に湧く。ずいぶんのんびりした頭で、一人でいたからこんなに腐っていたのかな、とか思った。逆も然りであるが、外に出るのも大事っすね。



 たまたま出会った人がとても大事な人になるのは、当たり前だがたまらなく不思議だ。そういうことがこれからも起こるとは到底思えない、そんな話を友達とよくする。卒業して一年が経とうとしている今も、なかなか思えない。
 自分の卒業に際して、まわりのお兄さんお姉さんから「これからもっと色んな人に会うよ」と言われた。友達がいなくなりそうで不安だ、と私がしきりに口にしていたからだ。確かに顔を合わせる人はがらりと変わった。ただ忙しさや不安に呑まれて、親交を深めるようなことは少ない。職場は立場が絡んでくるのでここではノーカンだ。

 ただ親しい人は増えずとも、知っている人は増える。なんかもうそれでよくないか、と思うことがある。たまたまそこにいた人と立ち話したり、お客さんに顔を覚えてもらったり。やはり自分の生活は、人の往来に溢れていた。その多くの人と深く親しくはならない。考えてみたら大学に入った当初と同じようなものだ。このまま親しくならないとしても、人はなんだ、とにかくたくさんそこにいるわけで、悲観することでもない気がした。

 恐れたくない。元気なとき、たまにそう思える。引きこもりの気質が再び顔を出し始めたここしばらく、人と関わるのが怖くなった。人と人の間に責任があると思うとそら恐ろしい気持ちになる。会うたび何かを果たさなくてはいけない。そんなふうに考えていることが、当たり前にそこにいてくれる人のおかげでふと緩まる。幼稚な責任感の形をぐにゃりと掴んで引っ張られて、そういえばそういうことって前にもあったな、とか思い出した。
 なんてことない、好きにすればいいのである。みんな都合のいいように人と関わって、自分の都合よく生きてくれ。私もそうしていたい。

 いつだって卑屈や不安に呑み込まれてしまいそうになる。社会人だからそうなるわけじゃないんだよっていうことを、本当に学生である友人・後輩たちに胸を張って言い続けたい。あなたのいる場所はすべて社会だ。どこだって地続きの地獄なだけである。だから大丈夫ですと、まだ学生上がりの気分で生きているだけかもしれないけど、今のところ私はそう思っています。

 人のおめでたいにあやかって、自分が元気をもらってしまった。ありがとう。卒業おめでとうございます。


おはなしの続きはなくて分岐点ちらばっているだけの平面
(2020.10)

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