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ネット文芸誌の「平等感」が好きだ。

今回は久しぶりに文学の話をしよう。

文学好きの方なら知っていると思うが、毎月7日は「すばる」「新潮」などに代表される文芸誌が発売になる日だ。私も時々買うけれど、最近は買う頻度が落ちてきて、代わりにネットで読める文芸誌の方に自分の興味の対象が移行している。

というのも、紙媒体の文芸誌はその表紙からして、有名な作家たちの名前と掲載作品がど~んと全面に出ていて、なんか最近「押しつけがましいな」と感じるようになってしまったからだ。

商売なのだから、有名な作家の作品を目玉にして売り出すのは当たり前のこと。もちろん、そうなのだが、中堅どころやまだ無名の作家たちの作品が、有名作家たちの陰に隠れてしまっているような気がして、つまり、世の中の「力関係」のようなものが、これら純文学雑誌の中にはっきりと見えてしまって、最近なんだか興ざめする。冊子を開くと、最も読者の注目を集めやすいページ位置に有名作家たちの作品が掲載されていて、中堅どころはその隙間を埋めるように載り、無名の書き手に至っては、巻末にちらほら、という始末なのだから。

しかしまあ、これは文芸誌に限ったことではなく、ファッション誌などもそうだろう。人気女優の特集は大々的に掲載するけれど、今月の占いや、お薦めの映画や、立ち上げたばかりの無名の化粧品ブランドの宣伝などは、いつも巻末に掲載される。

しかし私が腑に落ちないと思うのは、ファッション誌と違って、文芸誌に載るのは、たとえそれが誰も知らない物書きの手によるものだろうと、が込められた小説作品だということだ。物語の中に主人公がいて、主人公は様々な登場人物たちと共に人生を歩んでいき、そして読者に何らかの感情を残して結末を迎える。書き手が自らの情熱を注ぎ込んだ作品に優劣はつけられない。

もちろん、文章の力や、内容の濃さや、展開の緻密さなどの小説作法的な優劣は、プロの編集者の目から見て一目瞭然だろうけれど、私のような文学好きの一読者からすれば、書き手が捧げたにページ位置で優劣をつけないでほしいと思うのだ。

ここ数年、私が感じてきたこの漠然とした「不平等感」を払拭したのが、ネット文芸誌だった。

ネット文芸誌なら時刻に合わせて作品が順番に配信されていく。有名作家も中堅どころも無名の書き手も関係なく、すべての作品が電波に乗って順繰りにフォロワーに届くのだ。

クリックひとつで文字の羅列がスクリーンに立ち上がる。指先でスワイプしながら読んでいくと、「こんな作家さんもいたのだな」とか「一世を風靡したあの作家さんって、最近はこういう作風の小説を書いているんだ」など、新たな発見も多い。

しかも作品ごとに配信されるので、紙の雑誌の目次を広げた時のあの「力関係」が、ばっと目に飛び込んでくることはない。インクの匂いがする紙のページをめくる時のどこか温かい手触りはないけれど、私はこの無味乾燥なまでのネットの「平等感」をとても気に入っている。


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