誰からみたわたしが正解なのか
今回はルッキズムに関連して、ここ数年わたしがもやもやしていることを書いてみようと思う。
ミスコンとか、脱毛の広告とか、SNSのコメントとか、わたしは日常のあらゆる瞬間に、だれかからジャッジされているような、あなたは不正解だと告げられているような、そういう息苦しさを感じる。
わたしはわたしを好きでいたいのに、わたしはわたしを肯定しているのに、それだけでは生きていけないこの苦しさはいったい何なんだろう。
今回は、わたしがこれまで思ってきたことを一旦言葉にしてみる、という状態に過ぎないので、まだまだ考えられていないところとか、知らないこととか、そういうことがたくさんある状態になってしまっていると思います。
誰かを責めたり、怒りをぶつけたりしたいわけではなく、ただ、わたしがこういうもやもやを抱えているのだ、というふうに読んでくれるとうれしいです。
はじめに
ルッキズムとは、外見至上主義と訳されたりもするように、ざっくりいうと、容姿などの視覚的情報によって人の価値を評価するような考え方のことをいいます。
わたしの苦しさはルッキズムときっと繋がっていると思うんだけど、ただ、「ルッキズム」と調べて出てくるような定義とはしっくりこない部分もあって。
だからわたし自身、ルッキズムについて話しているのか、なにか別の問題について話しているのかよくわかっていないところがあります。
なんというか、ルッキズムの問題としてずっと指摘されているのは「ルッキズムによって生み出される差別や偏見」で、それはもちろん問題だとわたしも思うんだけど、でも、日常に潜むもっと小さなルッキズムがわたしたちの首をゆるゆると締めていて、差別や偏見に満たないようなもっと小さい「それ」をわたしは言葉にしてみたい。
わたしは、日常の些細な瞬間に、「わたしの正解」がへし折られることが苦しい。
たとえば、自分なりにかわいいと思っていた自分の格好が、SNSやテレビに出ている人たちと全然ちがったときとか。「あ、わたしのかわいいは、世間のかわいいとはなんか違うらしい」っていう、チクッとした感覚。
たとえば、奥二重でそれに違和感を持ってこなかった自分が、YouTubeでも駅でも二重整形の広告があることに気づいたときとか。わたしはこれでいい、と思っているのに、それじゃだめなんだよって言われてるような気持ちになる。
たとえば、「太っている人は自己管理や努力ができないだらしない人だ」という言説に出会ってしまったときとか。
他にもあげればキリがないけど、「わたしの正解」だったはずのものが、だれかの正解と照らし合わされた瞬間に押しつぶされてしまって、不正解になるような感覚がいつもある。心をどんどん折られて、みんなの正解に無意識のうちに取り込まれようとしてしまう自分がいる。
これが、わたしの感じるルッキズムの息苦しさで、わたしはこんなの正しくないって思う。
外見によって何かを判断することは、生物的な本能だから仕方ないという主張もある。
たしかに、動物の本能としてより美しいもの・より強いものを選ぶ機能は実際にあって、人間も動物の一員としてそれが起こるという説明は納得できる。
でも、「本能だから仕方ない」っていう、倫理や哲学とはそういうものではなくて。いかにそれが自然なことであろうとも、本能だろうとも、それに反することが「正しい」かもしれないし「倫理的」かもしれない。倫理とはそういうもので、人間とはそうやって社会を作ってきたのだから、わたしはルッキズムが「それでいい」とは思わない。
これがわたしの立場というか、もやもやに対峙するときの基本的な姿勢です。
もやもや① 誰からみたわたしが正解なのか
わたしのもやもやひとつ目は、「誰からみたわたしが正解なのか」ということ。
わたしたちは、自分で自分を外側から見ることができない。
鏡にうつる自分と、誰かから見た自分と、自分から見える範囲の自分と、写真にうつる自分と、いったいどれが「自分」の外見として信じるに値するものなのだろう、ということがわたしは不思議でならない。
たとえば、わたしは恋人が「かわいいね」と言ってくれたときに、恋人フィルターかかってるからだな、と思ってしまったりする。おばあちゃんに「かわいいね」って言われたときにも、孫フィルターでかわいく見えてるんだなあ、と思う。
この人たちは純粋にわたしを見ているわけではなくて、好意的な感情とか甘さとかいろんなことを含んだフィルターを通してわたしを見ているんだ、と思ってしまう。
でもみんな何かしらのフィルターをきっと持っているはずで、だから、恋人の「かわいい」という言葉を信じないのと同じように、ナンパ男の「かわいくねえな」という言葉を信じる理由はどこにもないじゃないだろうか。
だれに「かわいい」と言われようとも「かわいくない」と言われようとも、フィルターなしの純粋な「わたし」を見ている人なんて誰もいないはずだから、どれも同じように信じられないんじゃないのか。
でも、だとしたら、誰から見たらわたしが正解なのかな。不正解って烙印を押されたように感じるとき、その「不正解」は誰の決めたもので、どうしてわたしはそれを受け入れてしまうんだろう。
だれかの正解を信じるなら、わたしはわたしの正解を信じてもいいはずで、鏡でも写真でもなく、「きっとかわいいはず」っていう想像上の自分を信じてもいいんじゃないのかなあ。
世界にわたし1人だったら、わたしはきっとわたしを美しいと思うだろう、と思う。わたしはわたしなりの理想像とか好みとかそういうものに従ってこれまでの自分を構成してきたし、だれかに評価されるのでなければ自分のことをかわいいとも好きだとも思っている。
でも、世間一般の価値観にさらされた瞬間に、わたしの正解はどこかへ消えてしまって、不正解になっちゃうだろうな、とも思う。
じゃあ、わたしは自分の正解をただ盲目的に信じていればいいのか、と考えてみると、そうでもない気も実はしていて。
哲学という、ひとつの答えを探し求める学問をしている以上、「なんでも多様性」「なんでも人それぞれ」で終わらせることに違和感を感じざるを得なくて、うーん、ほんとうに「美しさは人それぞれなの?」と考えると、やっぱりどうしたらいいのかわからなくなって、それがぐるぐる、もやもやしてしまうところ。
もやもや② ミスコンってなんなのか
わたしの二つ目のもやもやは、「ミスコン」ってなんなのか、ということ。
ミスコンに感じる違和感はたくさんあって、気持ちと混ざっていつもぐちゃぐちゃしてしまうんだけど、整理すると次の2つに大きく分けられるかなと思う。
ひとつは、いままでも書いてきたように、あなたから、世の中から見たわたしが正解なのか?わたしからみたわたしは不正解なのか?ということ。
ミスコンを見ていると、「これが美しさです」「これがかわいさです」みたいなスタンダードが定められる感じがして、それって何?って思う。
たとえば髪はみんなミディアムで、サラサラストレートかゆるふわ巻き、アナウンサーみたいな格好をして、細い女の子しかいない。
じゃあ、ミスコンに出れなかった子は、ミスコンの基準とは異なる美の感覚やかわいさの価値観がある人は、不正解になってしまうの?
わたしなりにわたしをかわいいと思うちっぽけな勇気は、ミスコンみたいな強い思想のなかでへし折られて踏みつぶされてしまう。そんな気がする。
ふたつめは、容姿という生まれ持ったものだけで勝負する、それって親ガチャとかそういうことじゃないの?ということ。
身体的な特徴って自分で選び取ったものではないことがほとんどで、たとえばもっと背が高く生まれたかったなとか、胸が大きかったら良かったのになとか、そういうことって本人の意志や努力とは無関係に先天的に与えられる部分が大きい。
かわいく生まれた人がかわいさで勝っていくミスコンの仕組みって、「たまたまそう生まれた人」が評価されているだけのはずなのに、それが武器になるってなんなんだろう、と思う。
能力主義をよしとする現代で、実は環境などのさまざまな条件で格差のある人たちがさも同じ土俵で闘っているかのように見せられているのと同じことがミスコンでも起きていて、わたしはそれってどうなんだろうって思ってる。
親ガチャ、身体ガチャ、容姿ガチャによる不平等って、自己責任なんだろうか。それでいいのかな。
でも、最近は整形やダイエットによって自分を変えることのできる社会になっていて、容姿も努力で変えられるっていう価値観が広まっている感じがする。
たしかに、努力すれば勝ち上がれるかもしれないから不平等は問題ないっていうことはできる。
でも、そもそもなんで「勝ち上がる」必要があるのか、ガチャに外れたら余分な努力をするのは当然なのか、そういうところにまだまだ問題はいっぱいあるように思う。
もやもや③ なぜ美しくなければならないのか
わたしの三つ目のモヤモヤは、「なぜ美しくなければならないのか」ということ。
美の基準に多様性があるということとは別の話で、そもそもなぜ「美を求めない」ような価値観が締め出されているのだろう、と思う。
美しくなければならないのか。なぜ、美しくなければならないのか。
たまに、わたしって平安時代に生まれてたらめっちゃモテただろなあと思うことがあるのですが、でもモテるために生きてるわけじゃないし、誰かのためにかわいくなりたいわけでもないから、やっぱりそれって意味がないなって思って。
わたしにとって美や外見よりも大切なことがあって、たとえば寝食を忘れて研究に打ち込んだり、外見を顧みずに勉強に励んでいたり、そういう場合にも「美しくない」という判断をされるのっておかしいなって思ったりもする。
こんなふうに、美しさを「求めていない」「重要じゃない」だけで、美しく「なれない」わけではないのに、どこか欠けているとみなされてしまうのも、ルッキズムの問題なのかな。
見た目でジャッジすること自体に価値がないとしたら、その視線や空気を感じなくて良くなれば、わたしの息苦しさは消えるんだろうか。
おわりに
まだまだ言葉にならない部分もありながら、誰かと一緒に考えることに意味があると信じて、もやもやをわたしなりに言語化してみました。
ただ、間違えないでもらいたいと思うのは、わたしはこのもやもやを表明することで誰かを責めようと思っているわけでも、責めたいと思っているわけでもないということ。
わたしにはわたしの正解があるといいながら、でもわたしの正解や美の基準があらゆるものから切り離されて独立して成立・醸成されうるかといえば絶対にそんなことはなくて。わたしの正解も、きっとみんなの正解から影響を受けているし、逆にわたしの正解が誰かを傷つけることもあるかもしれない。あるいは、正解なんてそもそもないかもしれない。
ミスコンに出ている人も、SNSのインフルエンサーも、わたしたちの誰もがルッキズムの被害者で、だから誰かを責めるんじゃなくて、その仕組みや価値観を煽るような制度は正しいのかについてわたしはこれからも考えていきたいと思っています。
おまけ
わたしがこういうことを考えている途中に影響を受けた人や物をいくつか紹介しておきます。
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