自分とはなにか(前編)
先日、21歳の誕生日を迎え、自分とは本当に不思議な存在だなあとしみじみ思ったので、今日はそれについて書いてみようと思います。誕生日は雪の日光で、特急とSLに乗りました(カバー画像は中禅寺金谷ホテルです)。
大学2年生になった頃から、自分とはなにかということをぼんやり考えていて、今日はそれを振り返りまとめるような形でなにか生み出してみようと思っています。なにが生まれるかはわからないんだけど、わたしなりの結論というか、今こんなところにいるよということを残しておきたいという気持ちです。
「自分とはなにか」という問い
人生の節目で問われる「自分らしさ」。
なぜそれをしたいのかとか、なぜそうしたのかとか、そういうことをわたしたちは人生のさまざまな場面で問われる。わたしの場合は、幼い頃からなにをするのにも理由が必要だった(問われる環境だった)し、受験や就活といった局面でも、新しくバイトや部活をはじめるときでも、とにかく「動機」を尋ねられる機会は日常にありふれている。本当に。
でも実際には、自分の意志とはちがう何かがわたしにその選択をさせることもあるし、動機のもとを辿れば自分なんて全くないような偶然の結果だったりする。こういうときに、じゃあ「自分」とは一体なんなのだろう、と思う。自分の意志とか、自分の選択とか、自分の言葉とか、自分に帰属されるいろんなものは、ほんとうは誰のものなのだろう。
そんなことに関して、ここ数年でいろいろなことを考えてみたので、日記など引用しながら振り返ってみたいと思います。今回も、一緒にぐるぐるしてくれる人がいたらうれしいです。
「わたしを構成するなにか」は、どこまでがわたしなのか
わたしにとって、いちばん自分という存在が揺らぐときは、「わたしを構成するなにか」に思いを馳せるときだと思う。
2022年11月にこんなことを書いていました。
今回は、「わたしを構成するなにか」をいくつか挙げながら、そのどこまでが本当にわたしなのか、ということについて、ぽつぽつと考えてみたいと思う。
1. 自分の身体は、どこまでが自分なのか
まず、自分の身体とは、一体どこまでが自分なのだろうか、という問いを立ててみる。
この問いから、わたしはいつもタトゥーとか整形とかに対する「親に貰った身体なのに」という批判を思い出す。自分の身体は自分のものだとみんな当たり前のように思っているけれど、わたしたちが親から生まれてきたこともまた事実で、いつかは母体の一部であったのだということもまた事実だから、わたしの身体はわたしだけのものではないのかもしれない。あるいは、自分とは母なのだろうかと思ったりもする。母と自分はひとつなのだろうか。でもそんなわけはないから、だとするといつからふたつになったのだろうか、と思う。意外とむずかしい。
また、臓器売買のようなケースを考えてみると、自分の身体なのに自分の好き勝手にすることが許されない場合もあって、所有できない自己は本当に自己なのか、と思ったりもする。
こう考えてみると、最も確固たる構成要素に思える身体すらも、足元のおぼつかない、ぼんやりとしたものとしてわたしから離れていってしまう。
2. 自分の言葉は、どこまでが自分のものなのか
次に、自分の言葉とは、一体どこまでが自分のものなのだろうか、という問いを立ててみる。
2022年の終わりには、こんなことを書きました。
自分が考えたことや感じたことを言葉で誰かに伝えようとするけれど、実際にはその言葉は誰かから借りてきたものかもしれないし、影響を受けたものかもしれない。そうなるとほんとうの意味で自分に由来する言葉なんて全然ないんじゃないか、と思える。自分の頭で考えたこと、話したこと、書いたこと、これらは本当に自分から出てきたものなのだろうか。でも自分のものじゃないとしたら、それは誰のものなのか、あるいは誰のものでもないのか、というわたしの不安です。
3. どこまでが自分の選択なのか
自分の行為の動機や結果について考えるとき、一体どこまでが自分の選択なのだろうかという問いを思い浮かべる。
例えば、いまのあなたの立場、学んでいる場所、働いている場所、そのほかのありとあらゆる環境は、自分の努力の結果なのだろうか。ほんとうは、生まれた場所、家庭の経済状況、人種、両親の人柄、教育資本をはじめとした、さまざまな要因が影響しあっていまの自分がここにいるのではないだろうか、と思ったりする。
わたしたちは自分で自分の人生を選び取っているとか、掴み取ってるとか、そういう物語を信じているけど、それはどこまで本当なのだろうか。ほんとうに純粋に自分の選択と呼べるものはあるのだろうか。ないのだとしたら、自分とはなんだろう。自分の意志によって、選択によって、何かを変えることができないのだとしたら、自分という概念は一体なにを意味するのだろう。
2023年4月に友人と「フェミニズムとロマンスは両立できるか」というテーマで哲学対話をして、こんなことを考えました。
あるいは、わたし自身の人生を振り返ってみても、自分ではないなにかが自分を作り上げる、変えてしまうことがあると本当に強く思う。
自分の行為や選択や、自分の意志で選び取ったと思っているなにかは、ここでは脆く砕け散ってしまう。そんなものはないのかもしれない、という絶望に突き落とされる。
4. 自分と他者の境界線はどこにあるのか
自分と他者の境界線は一体どこにあるのかという問いも、わたしにとっては大きな問題だったような気がする。すなわち、どこからが自分で、どこからが他人なのかという問いである。
個人的に、わたしは他人と自分の境界線がうまく引けないタイプで、例えば誰かが怒られている声を聞くだけで自分も動けなくなってしまったり、ニュースや新聞を見るだけで涙が出てきたり、とにかく共感や感情移入をしやすいところがある。だからこそわたしにとっては、どこからが他者なのかという問いは深刻で、ずっと心の片隅にあったのだと思う。
2024年のはじめには、能登地震やパレスチナ、ウクライナなどを想いながら、こんなことを書きました。
他者からなにかを学んだり影響を受けたりする以上、わたしは他者によっても構成されている(支えられている)と思うし、わたしの価値観や感情を揺さぶるものとしても他者がわたしの一部であると思う。自分で自分をコントロールできなくなる瞬間、思わず涙が出るときとか、どうしようもなく共感してしまうときとか、そういう瞬間に、自分を見失う気がしてちょっぴり怖かったりもする。
おわりに
「わたしを構成するなにか」が自分ではないなにかだったとき、自分とはなんだろうと思う。自分とは、自分ではないなにかの寄せ集めなのだろうか。だとしたら、自分ではないなにかとはなんだろう。
こんなふうに考えてみると、自分という存在がどんどんとぼやけて、意味を失い、ある種どうでもいいような気がしてくる。
自分らしさを問うてくる社会や、自己肯定感について語る人々と距離を取れるようになる反面、わたしは自分というよりどころを失うのが怖いし不安でいっぱいになってしまう。
自分とはなにか、という問いは、わたしにとってはこういう開放感と恐怖を内包しているものであって、救いになるかもしれないし、脅威になるかもしれない、そんなゆらゆらとした状態で彷徨っています。
長くなってきたので一旦ここで切って、次回(後編)は「わたしのなかのわたし」という視点から、自分とはなにかについて考えてみたいと思います(いま書いてる途中)。
読書案内
わたしが影響を受けた(であろう)本をいくつか貼っておきます。読みかけのものもあるので悪しからず。
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