趣味の世界に出没する‘’オレ基準‘’の「オレの話を聞けぇ」の布教活動に、僕たち人類はどう立ち向かっていくべきか
ご存知かもしれない。
が、念のために言っておこうか。
かねてより
「ふん♪フン♪オレは斜に構えている」
「アハハハー、人の評価なんて関係ないさ♪」
と散々、発表しまくってきた。
それがどうだ。
note公式の3つのコンテストに、必死のパッチの満身創痍で、ちゃっかりきっちり応募したのだ。
もしかしたら、フォロワーさんがボクに抱いてくれていたイメージが崩れ、幻滅し、絶望と落胆を与えてしまったかもしれない。
期待を裏切ってしまい、誠に申し訳ない。
でも待ってくれ。
ボクはこれに限らず、
「マラソン一緒に走ろうな」の約束を
スタートして間もなく躊躇することなく裏切ってきたし、
テスト当日に
「寝てしまって、勉強まったくしてない」
と目の下にクマをつくっておきながらも、ウソをぶっ放してきた。
そう。
根っからのそんな卑怯なオトコだから、今に始まったことではないことに免じてどうか許してほしい。
さて、こうなった経緯を説明しようか。
単刀直入にのたまうと
賞金に目がくらんだのだ。
日本社会は昔から「金銭面の欲望」を丸出しにするような言動は
‘’卑しいものである‘’
とされてきた。その文化を最大限に考慮し、全力で配慮した上で言いたい。
‘’金券‘’
絶対に欲しい。
ほしい、絶対ホシイ。
これは正真正銘、ボクの噓偽りなき真実の魂の叫びであり、お金に対する真摯で一途な根源的な欲望である。
その欲望に駆り立てられ、ボクはテーマに沿ったエピソードを頭の記憶からしぼりだし、まさに半生の集大成ともいえるべき
‘’自慢のオンパレード‘’
をこの3つの記事に集約させたのだ。
ご覧になって頂けただろうか。
3週に渡って、いつも以上に鼻息荒めにドヤ顔をしながら威風堂々と自慢話を連ねた我が記事を。
しかし、それにしても距離の近いリアル友人からは非難轟々であった。
「いやお前、なにガチで賞を狙いにいっとんねん!サッサと下ネタ言わんかい!」
そりゃそうだ。
リアル友人からすれば、普段の会話で一度は耳にしたことのあろうボクの‘’自分語り‘’
なんてまったく興味があろうはずがない。
結局のところ人間は、「好きか嫌いか」を主軸にモノを考える生き物だ。
いくらボクが時間をかけて書いても、
文字数が多かろうと少なかろうとも、
その人にとって好きなモノは好きだし、嫌いなモノは嫌い。
ボクの有益が誰かの有益になるとは限らないし、あなたの無益が誰にとっても無益かなんてわからない。
自分の常識が正しいとは限らないし、自分にとっての常識が他の人にとっても常識なわけではない。
だから、こうして不特定多数の人が読み手になるSNSで記事を公開する場合、自分が常識だと思っている価値観に対しては、できる限り懐疑的でいるべきだと、ボクは思っている。
−−−−−−
(※いつも以上に時間をかけて作成した3記事すべてが、過去記事の中で最も多くの人に反応して頂けたものとなりました。
長文を読破し、ご共感いただきました皆さま方、本当にありがとうございました。)
趣味の世の中には、2種類の人間がいる。
「そんなの好きにやればいいじゃん」派と、「やるなら効果的にやろうよ」派である。
両者のもつそれぞれの‘’価値観‘’は、真逆である。でも、それでいいのだ。
趣味なんて、最後に自分なりの勝利を掴めればそれでいい。
「そんなの好きにやればいいじゃん」派は、
周囲に迷惑をかけないように練習したり、
良い道具を買い揃えたり、
そういった上達することに費やす時間の優先度がそもそも高くない。
楽しめればそれでいいのだ。
一方で、「やるなら効果的にやろうよ」派は、毎日鍛錬するのはあたりまえ。パフォーマンスが最大に発揮できる道具を買い揃え、攻略法に目を光らせ、
高難易度に挑み続ける。
自己研磨に余念がないのだ。
両者はまったく異なる趣味への向き合い方をしているが、Let's playの場おいては同じ土俵で相まみえることになる。
そうすると問題になるのが、‘’情熱‘’や‘’スキルの差‘’によって生じる摩擦である。
スポーツジムに通っていた時の話
ボクが会員になったのは、24時間いつでも利用可能なスポーツジムで、
行きたい時に行って好きなマシンで鍛えて帰りたい時に帰る。
そんな気軽なジムに惹かれて入会した。
ジム入会当初。
ボクはマラソンで肝となるふくらはぎの筋肉を鍛えたかったので
ふくらはぎ強化に特化したマシンを休憩を挟みながら繰り返していた。
しばらくすると、タンクトップ姿の筋肉ムキムキおじさんが近寄ってきて、声をかけてきた。
「そんなやり方ではケガするよ。正しい使い方を教えてあげるよ」
ボクはマシンの横にぶら下がっていたマニュアルに沿って利用していたが、ベテランの目から見ると危なっかしかったのだろう。
安全な‘’使い方‘’を懇切丁寧に教えてくれた。
正直なところ、その時は初歩の初歩。
教えてくれるのは非常にありがたく、
わざわざ自分の時間を割いてくれたオジサンにボクは、何度も感謝の言葉を口にした。
しかし、ムキムキおじさんはそれで気分をよくしたのだろう。
ジムでボクを見つけるたびにつかまえて、今度は、‘’有効な筋肉の鍛え方‘’についてのあれこれを知識や経験でマウンティングしてくるようになったのだ。
「あー、それは、ここの筋肉を鍛えるには効果が殆どないんだよね」
「最後のセットは5kg重くしてやってみろ。それが筋肉をつくるから!」
もぅ、ここまできたら
「ありがた迷惑」である。
しかしムキムキおじさんからすると全く悪気はない。むしろ初心者をどうにかしてあげたいと思った正義感からくる指導である。
悪気はない。
先輩として、より知ってる側の人間として、口を出したいのだ。
ベテランとして、多くの人に自分と同じだけの情熱を求め、同じだけの成果を期待し、同じようにハマることを望んでいるのだ。
でもそういうの、
「そんなの好きにやればいいじゃん」派からすると、ほぼ確実に大きなお世話だから。
他人のnoteの向き合い方を批判する玄人たち
選挙の時期になると駅のロータリーに街宣車を止めて、車上部につくられたステージからマイクや拡声器を使って声高々に主張する候補者の姿が各地で見受けられる。
多くの人が素通りしているが、街宣車ステージの下には、取り巻き的な人達がいて、時折、こんな掛け声を上げる。
「その通りだー!」
「まかせたぞ!」
「いいぞ!いいぞーっ!」
その掛け声に調子を良くして、候補者はさらにヒートアップして叫び続ける。
ボクはこの光景を見るたびに、SNSとよく似ているなぁ、と思う。
自分の発信したものに「いいね!」がつくだけで、それが挨拶程度のものであっても承認されているような錯覚を覚えるのだ。
当然、ボクのような小者もね。
そしてこれが増えれば増えるほどに、またコメント欄で賛同の声が出れば出るほどに、根拠もなくネット上の自己評価が極限まで高まり始める。
少しずつ気持ちがよくなってくるのと同時に
発信する様々な‘’自分基準‘’が、まるで世間のモノサシかのような勘違いをするようになってくるのだ。
「このオレが正しい」
「このワタシの話を聞けぇ」
そうこうしていると、やがて自分の中に眠っていた「教え魔の血」が騒ぎ出す。
あ、おいらって、SNSマスターしてきたかも。布教活動に勤しもう、って
最初は、自分のSNSへの向き合い方、スタンスを述べていたにすぎなかったものが、
次第にヒートアップし始めて、
‘’自分基準‘’と異なる
他人のSNSの向き合い方までをも批判し始めるのだ。コイツらは何も知らないから、知の巨人である私が正してあげようって。
「タイトルはこうするのはやめたほうがいい」
「毎日更新はあーだ、こーだ」
「相互フォローは・・・」
「フォローバックをしない人は・・・」
「文字数が多すぎると・・・」
「こういうのは読む気がしない・・・」
そうした他人への批判内容も拍手喝采されると気をよくして、ポカンと口を空けている多数のオーディエンスをガン無視して新たな他人批判が次々と繰り広げられるようになるのだ。
こういう批判的なものはことごとく、
漏れなく気軽に向き合っているボクのような稚拙なnoteにはドンピシャ当てはまるのだが笑、そのたびに玄人さんのご指導に真摯に反省しようと誓うのだが、
モヤシのボクにとって、ムキムキおじさんの親切指導が面倒くさいように
こんなのはほぼ確実に大きなお世話である。
1週間に数回しかnoteに向き合えていないボクは、コメントを頂けるnoterさんの更新記事を確実に確認したい。ナニか方法はあるのだろうけど、フォロー数が増えると労せずして確認する方法すら分かっていない。
マガジンだって、存在は知っているが、どう設定して効果的な活用するかすらも分かっていない。
ただ更新して、人様の記事をサーフィンしながら楽しんでるだけ。それほどの「ライト層」なのだからどうかお手やわらかに、優しい目でお願いしたいのです。
子育てだってそうだ。
子育てというのは、試行錯誤しながらすすめていく過程に楽しさがあるのに
多子を育てた先輩に、温かい言葉や励ましとかではなく
「私はそうはしない…」
「あぁ、それ効果なかったよ…」
「まだ子供小さいから知らないかもしれないけど…」
なんて、直接ではなくてもグループLINEで目に入ってくるものであったとしよう。でも、誰だっていい気はしないはずだ。
余計な一言だから。
ありがた迷惑だから。
失敗して、学んで、試して、そこではじめて自分の糧になるのだ。
だから趣味も子育ても楽しい。
忘れちゃならないのは、趣味の世界では必ずしも同じ土俵に立って同じ戦略で戦いたいと思っている人ばかりではない。
「嫌なら読むな」かもしれない。
それはごもっとも。
しかし、「フォロワー数はファンの数ではなく、向けられた銃口の数」というツイッター界で有名なことわざもある。
フォローでつながり合うSNSにおいて記事を公表する限り、玄人さんなら尚更、自分に悪気はなくとも結果的に見えない相手を傷つけていたり不愉快な気持ちにさせたりすることだってあることは肝に命じておく必要がある。
なにをそんなに熱くなってんだ、オマエは!の疑問に回答しよう。
昨晩、ニコニコしながらSwitchでマリオカートを楽しんでいた長女。
翌日作成するこのnote記事の構成を紙に書きだしながら、横目でボーっとその様子を見ていたボク。
バナナにツルツルすべる。ガンガン壁にぶつかる。キノコを無駄に使う。
あーもぅ。次第にイライライライラ。
ついには声に出してしまった。
「あぁ、それ違うって!」
「そっちの道は遠回り!」
「そのアイテム、さっさと使って。はい、そこ、いま、いま、いま!ってば!」
終いには、
「もー!あかん。貸してみ!パパがやってやるから」
と、言ってコントローラーを取りあげて手本をフンっと見せてやった。すると、クスンとして長女がサーッとお風呂に入って、気がついたら寝床についた。
おぉ。のぅ。
いや、だって1位にさせてあげたいから!
失敗すると分かっていて教えてあげないのはかわいそうだから!
でも、いくら親切心からだろうと、相手のためだろうと、聞かれたり相談されたりしないかぎり、正解を言ってはいけないのね。
親切を履き違えてはいけないのだと学んだよ。
いま、こうして暗闇のリビングの中、
えらい熱くなり、恍惚な表情をしながら、またしても長文を綴ってしまった。
ごめんなさいね。
長女ゆーちゃん。そしてSNSの玄人さん。
そう心で謝罪しながら、
懺悔の気持ちで、公開ボタンを押すのです。
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