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文章は、誰のもの?

「文章は、誰のもの?」
この問いに対する正しい答えは、何だろう。

以前、とある編集者さんのnoteを読んでいると、こんなフレーズが印象に残った。

文章とは、読む人のためのもの

あらためて原点を突き付けられた気がして、心に新鮮な風が吹いた。たしかにそうなのかもしれない。あるいは、この方が編集者さんだからこそ、その思いが人一倍強いのかもしれない。


私が書いている文章は、どうだろう。

仕事としての文章は、依頼してくれた相手のために書いている。そして、メディアの価値のためでもあり、その先に読んでくれる人のことを思い浮かべたりもする。それは私の場合、仕事だからだ。お金をいただく以上は、きちんと自分のできることで応えたい。

では、noteやTwitterなんかはどうだろう。対価の発生しない、個人的な文章。自分以外の誰かのために書いているだろうか。

素直に言えば、今の私はたぶん、自分のために書いている。読んでくれる人の役に立てばいいな、という気持ちはあるけれど、割合でいうなら8:2ぐらいだと思う。

以前はもっと「読む人のため」という意識を強く持っていたはずだった。勝手な使命感というか、私だってきっと役に立てることがあるのだからと。

でも私の場合、それでは続かなかった。これはシンプルに私のモチベーションの問題で、完全に「他者のため」という奉仕の心では、書き続けようという気持ちがだんだん弱くなっていく。勝手な使命感は、勝手に薄れていってしまうのだ。

考えすぎる私は、そもそも「誰かのために」という頭で文章をしたためることが傲慢なのでは、とすら思ったりもする。ギブの押し付け、みたいな。

おもしろい、役に立つ、感動する――そんなことを決めるのは、間違いなく読む側の人だ。「いいでしょ」という顔でやってくる文章には、どうも胸やけしてしまう。何かに似ているなと思ったら、24時間テレビだ。

だから私は、気負わず、自分のために書いている。
でも、私なりに誠実に。


ただ、私の心の中も、いつも同じというわけではない。自分:相手=8:2だったり、ときに逆転することも。相手に伝わってほしいと強く思って書くことも当然あるし、完全に自分のための備忘録のような文章もある。

文章は自由だ。目的も、捉え方もさまざまで、かつ流動的なものでもあると思う。誰かのためと思って書いた文章が自分を助けることもあるし、自分のためだけに書いたはずが、知らない誰かを救うこともある。それがまた、おもしろい。

「文章は、誰のもの?」という問いは、やっぱりむずかしい。
読む人のためでもあり、自分のためでもいい、というあいまいな答えは、許されるだろうか。

でも、今もし「書けない」と筆が止まってしまう人がいるなら、自分のためでもいいよ、とそっと小声で伝えたい。誰かのため、読んでくれる人のためと肩に力を入れすぎなくてもいいよ…と。一生懸命書いた文章には、必ずそれだけの意味と価値がある、と私は思う。

それでは、また明日。



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