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“あの頃の両親”と同年代になった今、思うこと。#53

こんにちは。

子どもが生まれると、それまでの生活が一変し、何から何まで子ども優先の生活が始まりますね。
そして、初めての「パパ」「ママ」役を一生懸命演じる過程で、少しずつ”親脳”になっていくような気がしています。

私が幼かった頃、両親のことはどこまでいっても父親・母親として認識しており、”2人も昔は子どもだった”なんて考えもしませんでした。

しかし、今は逆の立場になり、私自身が子どもたちにとって大きな存在になっていることを思うと、親としてきちんと責任を果たせるのだろうかと、不安を覚えることもあります。

子育てにおいて、子どもの情緒の形成に大きな影響を及ぼすのが、父親と母親の関係性であるとどこかで聞きました。

仲の良い両親からたくさんの愛情を受けて育った子どもは、やがて自分は人に愛される大事な存在だと認識し、人を信じることを学び、自信を持って親元を離れて成長することができるらしいのです。

とはいえ、異なる人格を持つメンバーが4人も一緒に暮らしていると、いろいろあるじゃないですか。

そう、一言では語り尽くせない、アンナコトやコンナコトが、いろいろと出てくるのです。

先の文面が”聞きました”とか”らしいのです”といった、伝聞調になっていることにお気づきでしょうか?
”そりゃ理想はそうなんだろうけど、現実そんなに上手くいかないわ〜”
という想いがダダ漏れた結果、こんな書き方になってしまいました。

私の両親のことを振り返ってみても、仲が良い時は当然あったけれど、喧嘩になることもしょっちゅうでした。幼い頃は離婚の話がよく出ていたし、母が泣いている姿を見かけることも多かったです。
(私の情緒に悪影響😱)

どうしてそんなに喧嘩ばかりするのか、当時は全く理解できませんでしたが、改めて現在の私なりに両親の置かれた状況を分析してみて、以下の点が両親の人格形成に与えた影響が大きかったように感じています。

・自我が芽生える多感な時期に帰国し、貧困と独裁国家の抑圧に晒され、それでも生き抜かねばならかったこと
・スパイがどこに潜んでいるかわからない状況で、人間関係のベースに常に不信感がついてまわったこと

両親が幼かった頃、それぞれの家庭でも喧嘩が多かったと聞きました。
北朝鮮に帰国するきっかけを作った人たちを許せない気持ち、そういったものが根底にある家族関係は、想像を絶する辛さがあったと思います。

父と母はともに娘を愛する気持ちがとても強く、幼い私にもそのことはしっかりと伝わってきました。そして、その愛情を受けて私は北朝鮮で大きな不自由を感じずに育つことができたのです。

両親の喧嘩を振り返ってみると、北朝鮮に色濃く残る男尊女卑の風潮が影を落としていたと思います。

父は母の意見を聞き入れず、事あるごとに「女が出過ぎたことを言うな」と繰り返していました。

今となっては、金正恩の妹である金与正(キム・ヨジョン)や妻である李雪主(リ・ソルチュ)といった人物がよく登場しますが、金日成や金正日の時代に女性が表に出ることはほとんどありませんでした。

国のトップがそんな有様ですから、職場においても男性ばかりが出世し、重要な役職には女性を置かないような差別が多くあったことでしょう。

しかし、「苦難の行軍」という大飢饉が始まった頃から、形式的なものはさておき、実質的な女性と男性の地位は逆転します。(「苦難の行軍」については以下の記事をご覧ください)

そういった変化は、国からの食料配給が止まったにも関わらず、男性は国の命令で職場に行かなければならない状況の中、専業主婦の女性たちが市場に出ていったことがきっかけで始まりました。

私の家は幸運にも、日本からの仕送りが途絶えることはありませんでした。
それでも生活水準を維持するためには商売をしなければならない状況だったので、母は冷麺やクッパを販売するお店を開いたり、ビリヤード場やパソコン部屋(インターネットは不通)を作ったりと精力的に事業を展開しました。

1990年代前半まで北朝鮮当局は、個人が経営する事業を厳しく取り締まっていました。
しかし、苦難の行軍で国中が大混乱に陥る中、取り締まりが(なし崩し的に)緩和され、無許可の商売が多く展開されるようになりました。食糧の配給が止まり、国民が自活を強いられたことも無関係ではないと思います。

母が切り盛りするお店も当然、無許可で営業していましたが、あらゆる公務員に「タダ飯」を振る舞ったり、賄賂を駆使することで問題にはならずに済んでいたのです。

母のお店は評判が良く、いつもお客さんで賑わっていました。
…が、たいていオープンから1年ほどすると、どこぞの幹部の奥様にお店を譲ることになるパターンが多かったように思います😼(←泥棒ネコのイメージ)

もちろん断る権利はありません。北朝鮮では権力のない人は泣き寝入りするしかないのです...

それでも母はめげずに、違う場所で新しい商売に再び挑戦するたくましい人でした。そういった姿は幼かった私の目にも焼きついています。
家計を支えようと懸命に努力する母の姿勢が父との関係性を変えたのか、両親が年齢を重ねて落ちついたせいか、後年になり2人の夫婦喧嘩は少なくなりました。

北朝鮮で暮らしていた当時、両親の喧嘩が嫌で嫌でしかたなかった私は、自分が結婚するときは絶対に同じようにはなるまいと心に決めました。

若かった、青かった、あの頃の私の決意。
その結果は…冒頭に書いた通りですね😂

今の私と同い歳ぐらいだった両親があの国で我が子をどう育てていくか、必死に戦っていた姿を思い出すと、胸がキュッと締めつけられる感じがします。
私に同じことができるとはとても思えません。肩をポンと叩いて、「よくがんばったね」と労ってあげたいです。

(家族についての詳しい話は、心の準備ができた時にいつかご紹介できればと思っています。)

私とダンナは幸い(理想の夫婦だなんて口が裂けてもいえないけれど)今のところはそこそこ仲良く暮らしています。
同棲を始めた頃から数えると、ひとつ屋根の下で暮らして10年を超える歳月が流れました。
気が短くて怒りっぽい私と、ボーッとしがちで感情の起伏が少ないダンナは、悪くない組み合わせなのかもしれません。

とはいえ、他人と一緒に長く暮らすためにはお互いの努力が不可欠ですよね。

そのためのアドバイスとしてよく推奨されるものの一つが、夫婦で共通の趣味や関心のある話題を持つことです。

そういった面で考えると、私たちはTBSのアナウンサー安住紳一郎さんの「日曜天国」というラジオ番組が好きな点が共通しています😍

当初は夫の薦めで聴きはじめましたが、今は私のほうがどっぷりとハマってしまい、10年前の放送まで遡って聴く始末…😅
アシスタントである中澤さんとの絶妙な掛け合いやリスナーの方が投稿するメッセージコーナーがたまりません。

YouTubeで「安住紳一郎の日曜天国 神回」と検索すると過去の名放送がヒットします。ご興味のある方はぜひ〜♡

私たちはその番組の正規リスナー(AMラジオを受信しリアルタイムで聞く人)ではなくポッドキャスト組ですが、毎週アップされる放送を楽しみにしています。
(最近は私が先に聞く⇒おもしろかった放送をダンナも聞く、という流れが多いです。共通の話題があることにとても感謝しています🤩)

いつまでもダンナと仲良くしたい。
子どもが成長し、親元を離れても2人で支え合って、子どもたちが安心して帰ってこられる場所をしっかりと守っていきたい。
改めてそう心に決めた今日この頃です。

若かったとか、青かったとか、振り返らずに済むように…
今度こそ決意を守れるように…

ダンナよ、これからも末永くよろしくね。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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