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【生活の哲学】 #2 耳が遠い人の音の世界

私の祖母は耳が遠い。それは数年前から顕著になり、今は大抵の言葉は一度では伝わらず、二度、口の動きがよく見えるように大きな声で簡潔に伝える必要がある。

周りの人は、大抵そうする必要があることを心得ているから、表情を見て声が届かなかったことに気がつくと、ゆっくり大きく、もう一度伝える。しかし、何度も「え?」と聞き返されることにピリリと苛立ち、投げやりに言うような場面もある。「ごめんね、聞こえなかったの」と小さく申し訳なさそうにする祖母を悲しく思いつつ、私もそんな風にチリチリと苛立つことがあることを思い出す。

「不自然」なコミュニケーション

なぜこのような時に苛立つのか。
それは、そのコミュニケーションの「不自然さ」に原因があるだろう。耳が十分に聞こえて、言葉を発することのできる人にとっては、声の音量や話すスピード、その表情などもそのコミュニケーションにおけるツールの一つだ。呟くように話したり、途切れ途切れに言葉を紡ぐこともまた、その人の発するメッセージの一要素なのである。
しかし、耳の遠い相手に対して、大きな声で分かりやすく簡潔に伝えることは、それらの繊細な要素をある特定のコミュニケーション方法に変換することとなる。「一度では伝わらない」「囁くような声では伝わらない」こういった普段のコミュニケーションとのズレから、その人は不快感や違和感を抱き、時にそれは苛立ちとなって現れるのではないだろうか。

誰にとっての「当たり前」か

だが、ここでの「ズレ」はあくまで健常者の「当たり前」と照らし合わせた際のものである。例えば、耳の聞こえない人、目の見えない人を想像した場合、その人たちにはその人たちのコミュニケーションの方法がある。健常者と障害者のコミュニケーションには、もちろんそういった「ズレ」が生じるはずだが、互いのコミュニケーション方法が異なることを予め想像していれば、その「ズレ」はあって当たり前のものとして認識することも可能だろう。
一方、「耳の遠くなる」という現象は、「聞こえる」から「聞こえない」への変遷にある。その人と長い間関係を持つ人にとっては、以前のコミュニケーション方法から変化があることに戸惑いを感じることがあるだろう。また、それは耳の遠くなる当人にとっても戸惑いを伴う変化だと想像する。「以前はこのように会話できたのに、今はできない」そのズレが、苛立ちへと繋がることもある。
しかし、障害を持つ人々が、彼らのコミュニケーション方法を持つように、耳の遠い人にとっても、それが彼らのコミュニケーション方法なのである。

「耳が遠い」人の音の世界

私の祖母は、補聴器を持ってはいるが「声以外の音も大きく聞こえて煩わしいから本当に必要な時しか着けたくない」と、外している時間の方が長い。会話をする身としては、健常者同士の会話のように声が届かないことに対して不快感を覚える事もあるだろう。
私には祖母が普段どのような音の中に暮らしていて、補聴器を通すとどのような音に囲まれるのか体験することはできない。だが、普段聞こえていない物音の一つ一つが大きく聞こえることはきっと煩わしいのだろうと想像すると、補聴器を着けたくない気持ちも理解できる気がする。
また、音を他の人よりも少なく拾うことが「不便」で「可哀想」とするのはあくまで周りの健常者の考えだ。メディアや車、人々の喧騒など常に音の溢れる現代社会において、音が遠くに聞こえるのは過ごしやすい部分もあるのかもしれない。(しかし、それを良い、悪い、というのはあくまで当事者のみに許された判断だと考える。)

相手の世界と私の世界は混ざり合う

以前と同じように会話できないことに煩わしい点はあるが、その音の世界が今の彼女にとっては日常なのだということを改めて思い返した時、私も彼女の音の世界に歩み寄りたいと思った。そこにズレや不快感が伴うとしても、それが今この瞬間の彼女と私の対話なのである。そう思うとなんだかそのぎこちなさを愛おしくすら思えた。


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