見出し画像

米津玄師「ナンバーナイン」の解釈をしてみる。ヒトではなく、ロボットで。

こんにちは、「ちゃ、」です。

今回は米津玄師さんの「ナンバーナイン」の歌詞を解釈していきます。

解釈をヒト目線でしているものはありますが、自分はロボット目線で書かれているのでは?と考えたので、それを基に考察していきたいと思います。

今回の記事を書くに当たって、この曲の歌詞の解釈を見つけ、興味深いと思ったので、リンクを貼っておきます。

1番

歩いていたのは砂漠の中 遠くに見えた 東京タワー
君の抱いていた ボロいテディベア 笑ってみえた
どこへ行こうか

気持ちいい位に韻を踏んでいます。米津さんはどうやら「砂漠」が好きなようです。同作者で「砂の惑星」という曲もありますが、私は「ナンバーナイン」と「砂の惑星」はリンクしている様に感じます。

歌詞だけで見ると少し不気味ですが、ポップな曲調で歌い上げられており、荒廃した世界に生きて尚、希望を失っていない様に感じます。

米津玄師と砂に関する考察をされている方のnoteがありますのでそちらのリンクを貼っておきます。


海みたいに 砂は燃えた
かつてはここで 人が生きた
先を急いだ 英智の群れが
壊したものに 僕らは続いた

砂は燃えるのか?ちょっと疑問ですね。どういう種類の砂かは分かりませんが、一般的には砂は燃えないです。しかし、こういう話は野暮ですよね。

おとぎ話に出てくる動物はなんで人と同じ言葉を喋っているのか?というくらい野暮です。

「かつてはここで人が生きた」「壊したもの」というワード、そして先程の歌詞から、辺り一面が火の海で、砂が燃える程の大きな戦争で環境が壊れ、砂漠になり、ヒトが滅んだと私は、読み取りました。

さて、「僕ら」は何者なのでしょうか? 私は、「かつて」と言っている以上、ヒトではないと思います。恐らく、ロボットなのではないでしょうか?

そう考えると、人間より知識面で優れるロボットがヒトを「英智の群れ」と呼んでいる事に皮肉さを感じます。

惑いも憂いも化石になるほど 嘘みたいな未来を想う
切なくなるのも馬鹿らしいほど 優しい未来

恥ずかしいくらい生きていた僕らの声が
遠く遠くまで届いたらいいな
誰もいない未来で起きた呼吸が
僕らを覚えていますように

この2ブロックから、ロボットが「英智の群れ」と表現していたヒトに、荒廃した砂漠の中で生き長らえさせられていると想像しました。

いずれ世界が一巡し、またヒトが生まれる。また、その間の繋ぎとして自分達がいる事を自覚している。そんな想像をしつつも、噓みたいな優しい未来に生まれるヒトが、自分達の存在していた事を覚えていて欲しいという、何とも言えない悲しさが表現されているのかなと考えました。

2番

眩しくてさ 目を閉じたんだ
枯れた川を 辿りながら
ほんの向こうで 君の声が
呼んでいたんだ 確かに僕を

世界の終焉を迎え、天国的な別世界、もしくは意識、想像の世界に飛んでいる様に感じます。「君」はヒト?ロボット?断定できませんが、この枯れた川を三途の川とするならば、君はヒトになるでしょう。

未来と過去が 引っ張り合うんだ
か弱い僕らの 両手を掴んで
痛むことが 命ならば
愛してみたいんだ 痛みも全て

「痛む事が命」ならば、その痛みも全て愛してみたい。つまり、愛せなかった。愛しようがなかった。ヒトの心(感情)を持っていないから。その心が芽生えた瞬間が表現されているのかもしれません。

いまだに心は不揃いなままで 息苦しくなる夜もある
言い訳みたいな美意識すら 消えちゃう未来

「愛してみたい」という心(感情?)を手にしたものの、未だにヒトの様な心は出来上がっていない。そんな心が欲しくて息苦しい。

言い訳みたいな美意識はロボット自身が今まで経験したことから描いているヒトの心の事で、そんな想像していた未来も今、自分自身がいなくなると共に消えてしまう。

砂に落ちた思い出が息をしていた
遠く遠くから届いていたんだ
誰もいない未来の僕らの声が
美しくあれるように

「砂に落ちた思い出」は燃えた砂の中で残っていたヒトとの名残。それが遠く昔の戦争の頃から残っていた。今、生きていたモノは誰もいない次の世界(思い描く未来)が美しくあって欲しいと考えているのではないだろうか。

Cメロ~大サビ

何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に
僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね

「何千と言葉選んだ末」ロボットは心が完全に出来上がっていないので、ヒトが紡いできたものでしょう。また、「何万と立った墓標」も荒廃した世にいるロボットから見たヒトの墓標を指していると思います。

ここで「僕ら」はロボットとであると思いますが、「僕ら」としている以上はヒトとロボットが同一視されているはずです。そう考えると、このロボットはヒトとして歩みたいという意思がここに表れていると思います。

その同一視している事をどうか笑わないで欲しいと言っているのではないでしょうか。

恥ずかしいくらい生きていた僕らの声が
遠く遠くまで届いたらいいな
誰もいない未来で起きた呼吸が
僕らを覚えていますように

ここでまた、同じ歌詞を繰り返しています。1番とは意味が変わっていると思います。「僕ら」はヒトとロボットの同一視と言えるので、過去の事を言っているようで、想像の世界で生きる私達という意味にも取れるのではないでしょうか。

砂に落ちた思い出が息をしていた
遠く遠くから届いていたんだ
誰もいない未来の僕らの声が
美しくあれるように

何千と言葉選んだ末に 何万と立った墓標の上に
僕らは歩んでいくんだきっと 笑わないでね

最後の2ブロックで〆をしています。今までの悲しさを乗り越えて美しいものが見えてくるような爽やかな終わり方です。

米津玄師さんは励ますというよりは、「暗いトンネルが続いていても先には明かりが指しているから」とそっと寄り添って背中を押してくれる。

自分で一歩一歩進んで行こうと勇気を貰える曲を書いている気がします。


最後に参考にした記事からあなたに問いかけます。

タイトルのナンバーナインとは何を指しているのだろうか。

英語で表記すれば、No.9であることはわかるが、一体どういう意味なのだろうか。

色んな仮説をたてることはできる。

例えば、この9は憲法9条を指し示す9であるという説。

憲法9条とは平和憲法と呼ばれており、戦争放棄を謳う例のやつである。

あるいは、この歌が「ルーヴルNo.9~漫画、9番目の芸術」の公式イメージソングだからであり、そこから取ったという考え。(ちなみに、これはルーヴル美術館が漫画を9番目の芸術として認めたからである)

あるいは、米津がボーカルのときに名乗っていたハチという言葉とリンクしているという考え。

過去の数字が8であり、未来のことについても考えるからこそ一歩踏み出したという意味で+1にして9という数字をタイトルに使ったという説である。

過去と未来の繋がりを願ったこの歌が、なぜ「9」という数字を必要としたのか。

はっきりとした答えはわからないが、この歌詞から「何を読み取るか」で、タイトルの意味は変容することであろう。

あなたはどう思いますか?





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?