小説は建築である
もう30年以上、小説を楽しみとして読んだことがない。というより読むことができない。けれど頻繁に手に取る。何のためにかと言えば、その文体や構成の妙を味わうためである。
大学四年の時に「日本語表現論」を専攻してからというもの、私の小説への興味は、もっぱら構造的な美しさに絞られている。「あ」とか「い」とかの最小の音のパーツを緻密に組み合わせていくと、いつしか物語が生まれる。その過程にいつも魅了される。
何気なく書かれているようでも、良い作品には必ず綿密な設計図がある。思いつくままに建て増していったような文章では、ひとつの作品としての有機的なまとまりは生まれない。一つ一つのエピソードを束ねる、扇子の要のような書き手の意図が必ず必要なのである。
小説を娯楽として楽しめないのは、建築士が建物の見えない部分にまでつい思いを致し、設計図を思い浮かべてあれこれ吟味してしまうのに似ているかもしれない。
文章表現は多分に建築的なのである。
なので結局、名建築家ならぬ名文家の作品しか読まないということになる。評価がいまだ定まらない作品は参考になることが少ないのだ。
ここで言う名文家とは、漱石、鴎外、一葉、太宰、芥川、三島など所謂文豪のこと、名文とは、時代の荒波を受けてなお輝きを失うことのない彼らの作品のことである。
では、彼らは運良く天才として産まれたが故に文豪となり後世に残る作品を生み出せたのかというと、そうとばかりも言えない。特に日本の場合においては。
彼らは天才というより、生涯をかけて「日本語の小説」を産み出そうとした情熱の人々なのである。
そもそも日本に小説というジャンルはなかった。それどころか、書き言葉と話し言葉が違いすぎて、どんな文体で物語りを紡ぐべきかも定まっていなかった。です、ます、で文を終えることさえ決まっていなかった時代である。
明治の文筆家たちは、数々の海外小説を苦心惨憺して日本語に翻訳し、新しい時代に相応しい自分たちの日本語表現を生み出すべく壮大な実験を繰り返した。
そして、シェイクスピア、フランス文学、ロシア文学、源氏物語、浄瑠璃、講談、漢文学などなど、国内外 古今東西のありとあらゆる言語芸術のエッセンスを取り込んだ作品が次から次へと生まれた。
1890年には桁違いの頭脳を持ったドイツ語の天才 鴎外によって『舞姫』が発表され、5年後の1895年には古典の教養豊かな一葉の手による文語体小説『たけくらべ』が、さらに10年後の1905年には東京帝大英文科卒でイギリスへの留学経験もある漱石によって、近代小説の礎となる『吾輩は猫である』が発表される。
たった十数年の間に、日本語の小説は爆発的な進化を遂げた。
開国と文明開花を経て日本の地に様々な建築様式が広まったように、明治期の多くの翻訳家•文筆家たちの不屈の開拓精神の先に今の私達の日本語はある。
文豪たち以外の現代作家では、宮本輝と佐藤愛子、この二人のものしかほとんど読まない。宮本輝の文体には、明治の翻訳文学の揺るぎないバックボーンがある。佐藤愛子の文章には、明治生まれの作家で父親の佐藤紅緑譲りの景色が見える。彼女のキッパリとした無駄のない文体には、強い推進力がある。
今日もいつもの一冊を手に取って開いた。繰り返し読んでページが取れそうになっているところもある。カフェでもらったカードを栞がわりに読み進め、先人の文体をコーヒーと共に自分の中に落とし込む。
そうして生まれてきたものが、あなたらしい文体だねと言われるまで、私は書き続けるだろう。
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