The 個性的な旅

世界を巡る個人旅行を始めておよそ半世紀。その中で見た景色や人との関わり、感じた事や考え…

The 個性的な旅

世界を巡る個人旅行を始めておよそ半世紀。その中で見た景色や人との関わり、感じた事や考えた事、そして自分らしく生きる目的や自分らしい時間を過ごす術(すべ)を記します。また仏教の「お経」の中に見られる哲学に心を惹かれています。

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  • 摩訶般若波羅蜜多心経とは

    ・摩訶般若波羅蜜多心経 般若心経の正式題名です。そのまま訳すと「彼岸へ渡るための偉大な智慧のいちばんたいせつなお経」となります。 摩訶とは、「偉大」という意味。般若は「智慧」仏教でいう智慧とは、いま自分が何をすればいいのか、相手に何をしてあげればいいのか、そうしたことを正しく考える力のことです。いつでも正しい考えさえ持てれば、人は困難に打ち勝つことができ、幸福が訪れます。智慧は、仏さまから私たちヘのプレゼントです。 波羅蜜多は「彼岸へ渡る」彼岸は、悩みも苦しみもない向こう岸、あの世のことです、。 心経の心とは、心臟の心、中心の心。いちばんたいせつなお経だから「心経」なのです。

最近の記事

C04イギリスへの一歩は、新しい始まり

翌朝、船は個人的な思い出をたくさん乗せ、なんとかサザンプトンの港に到着しました。天気は快晴で、「Tomorrow is always fresh with no mistakes in it.」という『赤毛のアン』の言葉が心に響きました。昨夜の悪夢はすっかり消え去り、新たな一日が始まります。 サザンプトンの駅へと歩いて移動していると、なんと昨夜の紳士がきちんとスーツを着こなし、近づいてきました。「あのね、君。ロンドンの僕のアパートに来ない?」と懲りずに言い寄ってきたのですが

    • C03お金と心の値段の天秤掛け

      たしかに、私の手元にはわずか6000円ほどしかありませんでしたが、貧乏旅行者という弱みにつけ込んで、身体を売れと言うなんて、どうかしています!本当に「卑怯者!」と叫んでやるべきだったのですが、驚くべきことに私は思わず「How much?」と返してしまいました。ええ!本当に私は大切な自分をお金で売るのでしょうか?と内心混乱していると、彼は「600ポンドでどう?」と答えました。えっと、1ポンド500円(1979年当時の為替ルート)から考えると、3万円になりますね…。「うーん、どう

      • C02親切なイギリス紳士の正体とは?

        星空をぼんやりと見上げていると、イギリス人風の紳士が話しかけてきました。「私の部屋の二段ベッドの上が空いているから、来ればいいよ」と彼は言いました。このラッキーな誘いを受け入れ、心細かった船上での一夜が安心感に変わることに感謝しながら、その紳士に付いていきました。船室は広くはありませんでしたが、居心地は良かったです。確かに、二段ベッドの上段が空いていました。荷物を置いて彼の親切にお礼を言い、しばらく他愛のない会話を楽しみました。夜も更けてきたので上段のベッドに横になることにし

        • C01いきなり仕上げのイングランド

          1979年のヨーロッパ旅行の最後の目的地は、イギリスのケント州にある小さな村でした。この地にたどり着くまでには色々なドラマがありましたが、まずはフランスの港からイギリスへ向かう夜行フェリーの話から始めましょう。 フランスのシェルブール港を出発したのは、夜も更けてからでした。ギリシャの港同様、埠頭はオレンジ色のナトリウム灯で照らされていました。日本では一般的な白色の水銀灯とは違うので、遠く異国の地にいることを改めて実感しました。出航するまで少し時間がありましたが、乗船可能にな

        C04イギリスへの一歩は、新しい始まり

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        • 摩訶般若波羅蜜多心経とは
          2本

        記事

          11オステリッツ駅の旅立ち パリの章(了)

          メトロのプラットフォームには、先ほど別れた人たちが地下鉄を待っていました。お互いに早すぎる再会を笑いました。驚いたことに、その中に大きな荷物を抱えたEさんもいました。目が合うと会釈をし、お互い昨夜のことを思い出して、少しはにかみました。Eさんは今からスペイン方面への列車が出るオステルリッツ駅に移動するとのことでした。なんのことはない、私が行くことに決めた南フランスのカルカッソンヌ行きの列車もそこから出発するのです。 パリには6つの主要な駅があり、それぞれ行く方面が異なります

          11オステリッツ駅の旅立ち パリの章(了)

          10涙と雨と春とパリ 3月19日

          春の息吹が感じられるパリで、3月19日を迎えます。この日、共に旅をしていた仲間たちは一人また一人と、それぞれの目的地へと旅立っていきました。幸い、前夜にしっかりと睡眠を取ったおかげで、体調もすっかり良くなっていました。 ロビーでは、昨夜遅くまで涙を流していたEさんも、今は元気に旅支度を整えて立っていました。彼女はこの日の夜行でスペインへと向かう予定です。私たちはチェックアウトを終え、それぞれの目的地へ向かうために出発しました。Eさんとの別れは、強い握手と笑顔で印象づけられま

          10涙と雨と春とパリ 3月19日

          09真夜中の迷い人 3月18日の夜

          真夜中のことです。ドアが開く音がしました。私はその正体を確かめるために、少し体をドアの方へと寝返りました。同室の男の子は隣のベッドで眠っています。「これは泥棒か?」と思い、緊張で身を固めました。息を潜めていると、その足音は私のベッドの方へ近づいてきました。 足音が止まり、私は覚悟を決めて反撃できる体勢をとろうとしました。しかし、意外にも何か香水のような匂いがしました。女性かもしれませんと直感しました。そのふと気を緩めた瞬間、私の毛布の中にその人影が滑り込んできました。目を凝

          09真夜中の迷い人 3月18日の夜

          08パリの微熱 3月18日

          朝から微かに頭痛がしており、他の同行者たちとは別に、この日はホテルに留まることにしました。異国の地で、一人毛布にくるまりながらうとうととしていると、室内の電話が鳴りました。外国での電話応答は初めてでしたが、恐る恐る「ハロー?」と応答すると、日本人の女性の明るくはっきりとした声が聞こえてきました。彼女は岩崎さんを訪ねていたものの、不在だったため、電話が私に転送されたのでした。 身支度を整えてフロントに降りると、野田さんと名乗る女性がロビーにいました。まだ岩崎さんたちは外出中で

          08パリの微熱 3月18日

          07初めてのパリは誕生日:3月17日

          到着したのは現地時間で3月17日の朝7時30分でした。一年365日ある中で、私の21回目の誕生日にパリに降り立つとは、何か運命的なものを感じます。ただし、時差が8時間あるため、日本では既に午後3時30分になっていました。まるで特別な日に選ばれたような、不思議な感覚に包まれました。 長時間のフライトの疲れか、パリの地に初めて足を踏み入れた瞬間、足元がふわふわしている感じがしました。シャルル・ド・ゴール空港からのコンコースを歩き、ウィング通路の窓から外を見ると、雪がちらついてい

          07初めてのパリは誕生日:3月17日

          06パリへ飛ぶ日:3月16日

          東京での空白の一日は過ぎ、今日は、ついに日本を離れる日です。大韓航空の成田空港発13:30の飛行機に乗り、韓国の金浦空港を経由し、アメリカのアンカレッジを経てパリへ向かいます。1979年の当時、ソビエト連邦の上空は飛行禁止区域であり、アメリカのアラスカを回る北回りルートが唯一の選択肢でした。成田空港で支払った1,500円の出国税には、少し腹が立ちました。国外へ出るために税金を支払うのは、なんとも鎖国的ではないかと思いました。 金浦空港で一度飛行機を降り、乗り継ぎのための待ち時

          06パリへ飛ぶ日:3月16日

          05ユーレイルパスを手に入れる

          私は、ほとんどの持ち物を処分しても生活に支障がないと感じつつも、長崎にある実家へと荷物を送りました。長崎への帰省後、市内の大手銀行で、その当時ヨーロッパ各国が独自の通貨を使用していたことから、フランス・フランのトラベラーズチェックを作成しました。その後、東京へと移動しました。翌日、日本としばらくのお別れをするため、東京で最終的な準備品を揃えるために街を歩き回りました。宮崎を離れたその日から、友人たちは私が既にフランスへ出発したと思っていましたが、実際には知人に伝えた出発日より

          05ユーレイルパスを手に入れる

          04叩けよ、さらば開かれん

          1971年、我が家族は長崎郊外の時津町に新しい一軒家を構え、そこでの生活を始めました。私はその時、中学生でした。数年が経過し、Torio社製の見た目も美しいステレオレコードプレーヤーが我が家に届けられました。母はそのプレーヤーでクラシックのLPレコードや、越路吹雪のような往年の名歌手のレコードを頻繁に聞いていました。中でも、ヨーロッパ風の街路灯に照らされた雨に濡れた石畳の道がプリントされた白黒写真のジャケットがついたEP版のレコードがありました。ある日、私はそのレコードを試し

          04叩けよ、さらば開かれん

          03期は熟した

          1979年、私は自身の人生における大きな一歩を踏み出す決意を固めました。それは、生まれて初めての長期にわたる海外旅行への挑戦であり、しかもその旅は単身でのヨーロッパ探訪でした。未知の土地への旅は、想像を絶する不安と興奮が入り混じるものでしたが、それ以上にわくわくする気持ちが満ち溢れていました。ただ、心残りがあるとすれば、それは宮崎大学付属牧場から本学部への通学用に愛用していたホンダ「XL125」を手放したことでした。渡航費用を捻出するために、愛車を売却する決断を下したのは、夢

          02なぜ海外を旅する夢は育ったのか?

          1979年、私にとって人生初の大冒険が幕を開けました。それは、長期にわたるヨーロッパへの単身旅行。未知の土地への旅は、想像もつかない不安と期待が入り混じった複雑な感情を生み出しましたが、実際に足を踏み出すまでは、その実感はほとんど湧きませんでした。ただ、唯一心残りだったのは、宮崎大学の付属牧場から本学部への通学に使っていた愛車、ホンダのオフロードバイク「XL125」を手放したことです。一年間共に過ごした愛車を渡航費用のために売却したのは、夢を追う上での苦渋の決断でした。そのバ

          02なぜ海外を旅する夢は育ったのか?

          01留年は放浪の始まり

          大学三年生になる春、私の人生における一つの転機が訪れました。 高校を卒業し、進学した宮崎大学での日々は、新しい発見と成長の時期でした。大学二年生になったその年、宮崎大学付属の住吉牧場での住み込み体験が始まりました。この牧場での一年間は、後に私の人生に大きな影響を与えることになります。牧場での寮生活は、まるで小説の一ページのような豊かなエピソードで溢れていましたが、その話はまた別の機会に詳しく語ることにして、この物語は牧場を離れるところから始まります。 私は幼い頃から抱いて

          01留年は放浪の始まり

          00旅は素敵なチャンス(プロローグ)

          旅とは、人生における最も魅力的な機会の一つです。太陽が降り注ぐ光は全世界で平等に分けられ、夜空の月も、地球上のどこからでも眺めることができます。しかし、この同じ世界を異なる地点から眺めることで、生活の場、感情の色彩、物の見え方が全く異なるという事実に気づかされるのが、旅の素晴らしい点です。それはまるで、自分自身の中に潜む未知の部分への冒険、すなわちインナートリップとも言えるでしょう。それはまた、外の世界への旅行と同義であると考えています。中には、「深く考えずに、イタリアで軽く

          00旅は素敵なチャンス(プロローグ)