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助手席から撮った写真に逃げ方を諭されて

自分が運転する車の中から写真を撮ることはできないが、人の運転で助手席に座ると写真を撮る楽しみが増える。

動く車の中からの写真では、手前の景色が絶妙にブレて映ってしまう。もちろん、遠くの山はきれいに映る。自分が早く動くと近くがピンボケになってしまうのだ。

遠くの目標にフォーカスして努力すると、日々の小さなことがどうでもよくなることと似ているかもしれない。

◇◇◇

苦手なことは、結局、苦手なのだ。

そんな自分に疑問を感じてはいるが。やはり、苦手なことを克服するのは難しい。

けれども、苦手なことを察知して、苦手なことから逃げ足を速くすることはできる。

遠くを見て、できるだけ早く速く動く。

逃げ足を速くして、上手に逃げる。

自分が動けば全ての問題が解決するわけではない。辛い時だから、辛いことが目に入りやすくなってしまう。そういう時は、気持ちが沈み動く判断すら難しくする。

だが、逃げることを繰り返すと、本能が察知して「逃げる」サインを送ってくれる。だから、逃げることは少しずつだが進歩はしているようだ。

◇◇◇

ちなみに私が苦手なのは、他人の時間を我が物顔で使う人。

もちろん、ここでお金のやり取りがあったり、上司部下といった上下関係があったりとか、そういうのであれば、不満を抱きながらも従うことになる。

けれども、そういう一切のしがらみがない間柄なのに、他人の時間への配慮がない人がいるのだ。

おそらく、当人は、ごく自然にやってしまっているのだろう。

「時間=命」といった感覚がないのかもしれない。

全てがただ漠然と過ぎていく垂れ流しの時間でしか捉えることができない性質ともいえる。おそらくは、他人の時間を我が物顔で使うことができる人には自覚がないのだ。他人の時間を奪うことは「間接的に命を奪っている」ことと等しいという自覚が。

そういう人には、時間の感覚や他者への尊重という感覚が欠如しているから、こちらの事情を説明しても伝わらない。

関わっていてもよいことなど一つもないのだ。

場合によっては、逃げようとすると「悲しげな顔」をして同情を引こうとする。

だから、つい自分を責めてしまいたくなるのだが、それは何度も通ってきた過ちの道。

毅然とした態度で、振りむくことなく逃げるしかない。

動きが早くなると遠くにしかピントがあわなくなる。逃げることをとがめる自分を自覚するのは、この一時だから。

遠くの景色だけを見据えて勢いよく逃げよう。

自分の命を大切にするために。