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「治療を続けているのはなぜだろうか?」と自問を重ね

猫の病状が優れず、回復の見込みはないと言われていた時期。「治療を続けているのはなぜだろうか?」と問い続けていた。

最初はもしかしたら改善するかもしれないという見込みで治療をしていた。ひと月ほど経過をみた後、血液検査をした。その結果、完治の見込みはないと言われてしまう。12月のはじめ、猫が我が家の中で過ごす時間が増えてからのことだ。

看取りの覚悟で猫と一緒に家で過ごす時間。それは、不安の中で一抹の希望を信じながらの時間であった。

猫は死期を悟っていたのか、全力で甘えてきた。甘えることに必死になる姿は、あまりにも強烈で、その力があるなら少し体力を温存したほうがよいのではと思うほどであった。

だが、猫は「一切の妥協」をせず全力で甘えた。もう一分一秒も無駄にしたくないとでもいうような壮絶な覚悟で私たちと関わろうとしたのだ。

必死に甘える猫の姿を見ていて、私は、「治療を続けているのはなぜだろうか?」と自分に投げかけ続けた。なぜなら、試行錯誤を繰り返しながら治癒の見込みのない治療を猫に受けさせていたからだ。

猫の病状はとても深刻なものだった。腎臓の機能を示す数値は「測定不能」と表示されるほどの高い値を示す。こんな値を出している猫を診たことがない。少なくとも生きている猫の数値ではないはずだと獣医師は私に告げた。

医師の言葉を端的に言えば、死期が迫っているということ。治療を辞めれば、いともたやすく猫の命は尽きるだろう。お金をかけて、手間をかけて、それでも猫を生かすのはなぜだろうかと自分でも不思議に感じた。

たかが1匹の猫のためにといえば、その通りだ。だが、それでも、治療を続けているのは、なぜなのか。理由を問い続けながら、私は過去の記憶を辿っていた。

猫との出会いの頃。猫が初めて触らせてくれたときのこと。猫がたくさん甘えてくれたときのこと。SNSの書き込みを探したり、この猫を最初に撮った一枚を探したりした。

自分の生活の中に、どのような形で姿を現したのか。この猫とのご縁はどのようなものであったのか。

あれこれと思案したり、夫との会話で記憶を手繰り寄せたり。そのような時間を過ごしながら、猫の治療を続けていた。

そして、私は、1つの答えに辿りつく、「治療を続けているのはなぜだろうか?」という問いに対しての。

助かる見込みのない猫を治療するのはなぜか?

おそらくそれは、過去を旅して未来を受け入れるため。過去を旅する猶予を受け取るため。

命と命が交わりを持ち、その終わりを互いに悟ったとき、過去を旅する時間は必要と考えたのだ。

いずれかの命が尽きた後の時間に、残されたほうの命が「交わりを持った記憶」を抱き続けられるように。それを確認しあうための「時間稼ぎ」に治療をしていたのではないかと。

それに気づいた翌日、猫の容体は急に悪化した。そして次の日の朝、猫は私を残し、独り旅立っていった。

私は幾らかの病を抱えている。これまでの人生、病人や死期が迫る人との関わりも多い方だったと思う。

実のところ私は、これまで、死期が迫っている人が治療を続けることの意義を見出せずにいた。それをすることは止めないとしても、「自分の場合は要らないな」と終末医療への抵抗を感じることすらあった。

だが、今は違う。

残された者と先に逝く者が「命の交わり」を確認し合う時間を過ごすために終末医療は意味のあることだと思えるようになった。

あの猫はただの猫。でも、その出会いを特別なモノとして受け止めるなら、それはきっと特別な出会い。

今はもう猫の温もりに触れることはできないけれど、あの猫は今もなお私の心を温め続けている。