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「体重の増減」が私に見せてくれる世界

人は見た目じゃない。そういう考えは以前よりも浸透してきた感がある。


だが、それは表向きの話。


見た目による判断基準は、根深く残っているのだ。


外見では測り知れない人の内面に目を向けること。それをどれだけ声高に叫んだとしても、やはり人は外見で判断されているのだ。



体質なのだろうか。実は、私の体重は、増減の振り幅が大きい。


体重の増減があるのが自然であり、増減を繰り返しながら生きる。

「それが私だ!」とでもいうほどに、周期的な体重の増減は生活の一部なのだ。


体重の変化は、10キロ以上の幅で起きる。体重が減ったときと、体重が増えたときでは、人相が別人のようだと自分でも思う。


体重が変化するのは当たり前のことだから、衣類の用意は数サイズに及ぶ。
10キロ以上の振り幅を毎年繰り返してきた人生だったが、その中で、見えたに事実がある。


人は、人の外見によって「異なる判断基準を適応されている」ということだ。



太っているのは不利という程度のものではない。太っている人に適応する評価基準は、太っていない人に適応する評価基準とは全く違う。

太っている人にとっては残酷な事実だ。


太っている人には、評価の基準そのものの上限があり、その上限を超えることは難しい。ただそれだけでなく、評価基準の最低ラインは、太っていない人に対しての評価基準よりも下に設定されている。


その上、評価のバロメータは、上には動きにくく、下には動きやすい傾向さえある。


要するに「低評価」になりやすい仕組みなのだ。



「体重の増減」は私に何を見せたいのかと長い間考えてきた。


ライフスタイルが違えば、太りやすい、痩せやすいといった環境の違いもある。体系の維持に関して、意志の力だけでは乗り越えられない壁すらある。
だから、外見によって差別することは認めないという世界に向かい始めてはいるが、まだ向い始めただけなのだ。


体重しか違いがない同一人物である私自身に対して、評価の振り幅の大きさ。その違いを痛感したからこそ、明言できることがある。


太っている人への低評価は根拠に乏しい。生理的な毛嫌いとしか思えないほどだ。


根拠がないからこそ、「低評価」がデフォルト設定されたモノサシは無意識に使われる。それだから、その差別を意識することが難しいのだろうか?




近年、スレンダーな体形のモデルばかりを使うことが、女性への悪影響を及ぼすとして、ファッション業界は改革を始めているという。その取り組みも必要であるとは思う。

だが、それよりも、太っている人に適応される「低評価になりやすいモノサシ」を変えたほうが話が早いのではないだろうか?見た目によるダブルスタンダードの廃止は不可能なのだろうか。

「職場では低評価だけれど役割を与えよう」ではなく「低評価にしない仕組みをつくるから一緒に働こう」。これこそが目指すべき「多様性と調和」だと思うのだが。

さて現実はというと?