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年末うどんでキレてGW泣き、風呂掃除を始めたらケアされるようになった話

土日は料理して、洗濯物を畳んだり皿洗いをしたり、子どもの勉強もみる。

家事を一切しない人にくらべたらマシなほう、という謎の自信をもっていたわたしは、妻が日々やってくれていた細々とした家のことをまったく気にかけることもしていなかった。

洗濯物や洗い物が溜まっていない、きちんと皿や服が片付けられている、歯ブラシや洗剤、トイレットペーパーのストックが買いそろえられている、布団が干されていて、賞味期限が切れる前に食材がうまく使われ、冷蔵庫のストックは補充されている・・・・・・。

ケアしケアされ、生きていく p.9

いまとなっては「耳が痛い話」に感じられ、妻への感謝の気持ちをもてるようになったけれど、GWまではそんなこと思っていなかった。どうしてそんな心境の変化があったのか。恥ずかしいが、ふりかえりたい。



年末うどんでキレた話

2023年の年末。妻のお母さんが亡くなった。がんで入退院を繰り返していたから、もうそろそろというのはわかっていたものの妻は泣き、落ち込んだ。

葬儀の準備の間、わたしは自宅でひとり年越しうどんをつくって帰りを待っていた。帰ってきた妻と子どもたちと過ごす大晦日。「おいしいね」と「たいへんやったね」と言葉を交わせることを期待していた。

帰ってきた妻はスマホをみながら「うどんをたべてきた」という。「子どもたちがたべたいっていうから」。「(え?なんで?うどんつくるっていったやん。やから買い物にもいったのに)・・・そっか」

ちょっとイラッとしたまま食べ始める。妻はずっとLINEで連絡をとり続け、箸もつけない。「(きつねつくって待ってたんやけど・・・)冷めるで」。食べ終わり無言で自室に上がる。異変に気がつき謝りにきた妻を、ひどい言葉で罵った。

ゴールデンウィークに泣いた話

冷静になってふりかえると、葬儀の準備で必要なやりとりがあった妻はつかれていたし余裕がなかったことなんてだれでもわかることだし、そんな妻をだいじにしているならいたわって、心配するのが当然だろう。

「食事中にスマホをみるのはやめてほしい」とか「家族で過ごす時間くらいみんなで話したい」とか、そういった理由もあったが、傷つき悲しむ妻を気遣いつづけた日々にストレスを溜め込んでいたのが噴出した。

それから何ヶ月もまともに会話できない状態が続いた。顔を合わせても挨拶すらかわさない。ゴールデンウィークになり、ようやく思っていることを話す時間をもてた。

妻は母親や実家に忙しく、子どものことを優先して、わたしのことをみていないと実感してきた日々。「こんなにも気遣ってきたのに、どうして気遣ってもらえないのか」「だいじにしているのに、だいじにされないのか」。

たまりにたまったさみしさがあったことに気づきながら、妻の前で泣いた。

臆病さと自己責任

「だいじにするのは家族だけ。家族以外は二の次」という極端にせまい人間関係で生きようとする臆病さと「助けてほしかったら助けてと言わないといけない」という閉鎖的な自己責任の意識があることに気がついた。

気配りが苦手で、何人かの友人と過ごしてきたわたしは、たくさん友人をもつ妻が羨ましく、疎ましい。一匹狼でINTJ建築家なわたしは思いやりあるISFJ擁護者の妻に惹かれ、支えられていることをみてみぬふりしていた。

私は、ケアを面倒くさいと思うことで、様々なことを見ないようにしてきました。考えることを避けてきました。
それまでの私は、自己責任論に囚われていました。努力すれば、報われる。逆に言えば、努力しなければ、報われなくても仕方ない。

ケアしケアされ、生きていく p.87

家事を分担して線引し、自分が責任をもたなくていい範囲をなるべく広くすることで、平穏とゆとりを確保しながら、いっぱいいっぱいでしんどそうな妻をみても「自己管理がなっていない」とか「家族を大事にできないなんてありえない」と指を妻に向け続けていました。(なんて冷酷な人でしょう)

風呂掃除を始めたら、ケアしケアされ始めた

悲しさや怒りの原因が関係の外にあるときは思いを打ち明けられる一方で、その原因が関係の内にあるときは、直接それを伝えることが難しい。対等な関係である夫婦は、相手に強制することはできないし、言葉で何度も伝えても変わらないようにみえ、諦めたり、愛想を尽かせてしまうことも多い。

話ができなかった数カ月の間に、妻はだいじな友人との関係もうまくいかず、何年も通っていたお店がなくなったりと、支えになる存在の喪失が重なっていました。本当に申し訳ない、かわいそうなことをしてしまった。

じぶんが傷ついたことを打ち明け、それを妻が聞いてくれて、妻がひどく傷ついていることを知り、反省して、関係の修復と信頼回復を始める。

分担した家事だけでなく、風呂掃除をしてみたり、布団をきれいにしたり、ちょっとしたことの手間と面倒の実感をもつことで、ケアされてきたことにやっと気がつき感謝が芽生える。そうしていると次第に妻からも言葉や行動で直接的なケアをしてもらうようになりました。

家事はタスク。どれだけ時間をかけずに終わらせるか、と考えると家族間での押し付けあいになる。そうではなく家のことをケアすることで、家族をケアする。そこに思いをのせ、相手を思い浮かべ、受けとりあう。

  1. 関心を向けること

  2. 配慮すること

  3. ケアを提供すること

  4. ケアを受けとること

  5. ともに思いやること

この本にあるジョアン・トロントという政治学者が提唱する5つのケア。

相手を優先して自分を抑制するのでも、「自己責任だ」といいながら線引をして押し付け合うのでもない。

「ともに思いやること」ができるまでの道のりは始まったばかり。きょうも風呂を洗う。早くペーパードライバーも卒業しないとな。