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文披31題:Day7  ラブレター

 黒い森、とその場所は呼ばれていた。暗く、緑の繁る木々は、うっそうとしており日の光が届かないあまりに葉の色は暗く、黒いものが多くなり、同時に森そのものも同様となっていった。
 昼日中においても夜のように暗いので、人々は森に入ることはなく、そのまま黒い森と呼ばれて恐れられるようになった。
 そうするうち、誰かが言い出したのだ。
「黒い森には魔女がいる。足を踏み入れれば獣をけしかけてくる、恐ろしい魔女が」
 と。
 事実、森からはときおり恐ろしい獣の遠吠えが聞こえてきたり、迷い込んだ村人が「おかしなものを見た気がする」というものだから信憑性は増すばかりだった。
 森の近くに住む人々は黒い森を恐れ、足を踏み入れることをしなくなった。
 森が、黒い森と呼ばれるようになって数年。存在を認知されながら、誰からも見捨てられて、それでも森は緑を繁らせ生きていた。なんなら拡大さえしていた。
 恐ろしい獣が住む森とも呼ばれたが、森の外でその姿を見ることもなく、人々は森を恐れながらも気難しい隣人と過ごすように静かに暮らしていた。
 そして、足は踏み入れられずとも森の入り口あたりで珍しい薬草やキノコが採れるといつの間にか村人は知り、それを求めて森に少しずつ人が近寄っていくようになったのはさらに数年後のこと。
人々は森から不思議な恵みがもたらされたものだと、そんなこともあるなんてありがたいことだと徐々に黒い森を受け入れていった。だが、けして森の奥には足を踏み入れようとすることはなかった。
 薬草やキノコが、どうして手に入るようになったかは考えることもなく、誰がもたらしたかなどと、思いつくはずもなく。
 ひっそりと、うっそうと、黒い森はただそこにあった。
 ところで、黒い森の噂には嘘のような真実があった。
 森には人が住んでいた。獣も住んでいる。だが、噂と違うのは、魔女は魔法使いで、獣は人を襲うことなどない、とても賢い獣だということ。

 さて、森が黒い森と忌まれるようになったばかりの頃に話はさかのぼる。
 黒い森がまだいまほど大きくない頃、常に日の光の届かない暗い場所ではあったが、実はもう少し立ち入ると、人が歩けるほどにならされた道があり、奥深くまで続いている。
 さらに進むうち、自ら発光するキノコがそこかしらに生えているため、実は森の奥のほうが明るかったりする。そうして道をたどっていくと、突如開けた場所に出て、目の前には看板が立っている。
『右に行けば薬草の湖、左に行けば魔法使いの家。文書代行、喜んでお引き受けいたします!』
 看板に書かれた字はかなり癖があって丸い。魔法使いの家、の下に名前が書いてあり、書いた主は魔法使いのものだとわかる。
 魔法使いの名前は女性名で、彼女の家は看板から左にしばらく歩き、坂を上った先、看板の広場を見下ろせる位置にあった。
「今日も、お客さんは来ないわね……」
 羽ペンを揺らしながら、魔法使いはつぶやいた。メープルで作られたお気に入りの机に肘をつき、後ろ脚に体重をかけて椅子を浮かせながらむうと唸る。
 こんなにおしゃれに整えた店が注目されないなんて、おかしい、と棚を振り返り、魔法使いはため息をついた。棚の中には様々な色のインクと、きらびやかなものから落ち着いたものまで、いろいろな印象を受ける紙とが所狭しと詰め込まれている。隣の棚には自作らしい書物が並べられ、さらにその隣の棚はガラス張りとなっていて中には季節の花々が瓶の中に閉じ込められた、可愛いものが好きな人にはたまらない、と言われるような雑貨が並べられている。
「もういい加減にあきたわ!」
 叫んで立ち上がり、バァンと机に手のひらを叩きつける。闘志に燃える魔法使いの瞳は黒檀のように黒く、つやつやとした唇は美しい紅色をしていた。黒いローブに身を包んでいるためあまり見えないが、象牙のような肌と青みを帯びた黒髪は手入れがされていてつややかに彼女の背を彩っている。
 暗く黒い、恐れられた森に住む魔法使いにしては、あまりに不釣り合いな様子だが、魔法使いは気にしていない。
「あの人の仕業ということはわかっているのよ。それにしてもおいたがすぎるわ」
 ふふふと黒い笑い声をあげながら、魔法使いは再び腰掛けると机の引き出しから真珠色の用紙を取り出し広げ、羽ペンを手に取る。
「いい加減にしてほしいわ、まったく」
 ぶつぶつつぶやきながらペン先をインク壺につけると用紙に走らせる。
『拝啓、旦那様。いい加減になさらないと、ほんとうに、本気で、離縁いたしますよ?』
 さらさらと、看板の字とは似ても似つかない字体で手早く手紙を書きあげると、魔法使いは手紙をくるりと丸めて草の弦で器用に結ぶ。窓から身を乗り出して枝に小さく咲いた花を摘み取ると、弦に結び付けてよし、とうなずいた。
「わたくしの使い魔さん、このお手紙を旦那様に届けてくださるかしら」
 振り返り、己の影に話しかけるとぞろ、と魔法使いの影が動き出す。しばらくして、闇色の狼が魔法使いの足元に現れ、魔法使いの差し出した手紙を器用に加える。
「ご褒美はそうね、先日採れたオレンジのジャムはどうかしら。あら、お気に召さない? なら、湖のマスのソテー? それもいや。困ったわね……」
 魔法使いの提案に、狼は立ち上がらないことで意思を示している。魔法使いはうーん、と腕組みをしてしばらく考えたのち、ぽんと手を打って言った。
「旦那様のお腹の肉ステーキ?」
『ウォンッ!?』
「いやだ、冗談よ。だいたい憎らしいほどにスマートな旦那様にお腹のお肉なんてないのよ。ああほんとうに、うらやましいやら恨めしいやら」
 慌てたように初めて声をあげた狼に、けらけら笑いながら手を振って、「黒スグリソースのステーキを用意するわよ」と付け加えると、狼の尻尾が揺れた。
 交渉成立ね、と狼の頭をなでると、狼は一声大きく鳴くと、窓に飛び乗る。
『では、行ってくる』
「はい、お願いね」
 人語を解する狼は、顎を大きく動かして頷くと、窓から飛び出して駆けていった。
「あのこは出られるのね。良かったわ」
 魔法使いとその夫は、ささいなことから勃発した大喧嘩をしていた。喧嘩ついでに「しばらく離れて暮らしましょう!」と飛び出した妻は、森に住まいを作って家業を行うことにした。家業の「文書代行業」はどこでもできるから、不都合はない。魔法店で購入した魔法のトランクは好きなものを持ち運べたので不便はなかったし、幸いある程度の資金は持っていたのでお互い頭を冷やす時間くらいは悠々自適に暮らしてやろうと思っていた。
 森に住まいを作ってしばらくは、仕事は変わらず行えていた。だが、ある日、ぱたりとお客が来なくなった。
 それでものんびりした性格の魔法使いは「そういうこともあるわよね」と構えていたし、怒りは収まっていなかったから森から出ようとは思っていなかった。なにせ、夫は探知の魔法が得意だ。森に隠れた自分を探すことはできるだろうが、森にいるほうが見つかるのは難しくなる。
「せいぜい困ればいいんだわ」
 ふふん、と笑ってお仕事がないならのんびりできるわねと使い魔に話しかけて、隠居生活のように過ごせたのは数か月のことで。
 気づけばお客はまったく来なくなり、森は勢いよく育ち、いつの間にやら葉は黒くなり暗くなっていった。そうしてやっと気づいたのだ。閉じ込められたのだ、と。幸い魔法使いの魔法は植物に関するものだったので、森に働きかけて生態系を脅かさない程度に進化を促し人が住めないようなことになることは防いだ。
 けれど、出ることはできず人も来ない。魔法使いはそれでも、いつかはなんとかなると思っていた。だが、いつまで待っても何も起こらないので、いよいよ森のせいではなく、誰かの仕業によるものだ、と気づいた。その犯人にも目星がついていた。おそらく夫だ、と。ならば持久戦に持ち込むまでよと腰を据えたが、いよいよ一年近くにもなってくるとどうにもじれったくてたまらない。
 降参したとは言いたくなかったので、あのような内容になったが、少なくともなんらかの糸口になるだろうと、魔法使いは思っていた。使い魔を見送って数時間後、魔法使いの夫から返った返事を読むまでは。
「失敗した、ですって……?」
 手紙を読み進めながら、魔法使いはぶるぶると震え出した。魔法使いの夫の返事は
『確かに、森に魔法をかけたのは自分だ。人の出入りを禁じる魔法をかけた。だが加減を忘れて失敗した。森は誰も出入りできない状態になっている。魔法が切れるのを自然に待つしかない』
 ここで初めて、すまない、と謝罪の文章が現れたが、魔法使いはそれどころではない。喧嘩の結果、夫婦が離れ離れになるどころか家業もできない。
 いつ切れるかわからない魔法に閉じ込められたまま生活するしかないのだ、と魔法使いは途方に暮れた。狼が魔法使いの頬をなめて慰めてくれるのを頭をなでてやりながら、心底喧嘩なぞするものではないなと魔法使いは思った。
 というやり取りがあったとは森の外の人々はつゆ知らず、森にいつの間にか生えた貴重な薬草やキノコをつつましくとって日々暮らしていた。この薬草やキノコこそ、魔法使いが森に閉じ込められたと知って数年の後、魔法の綻びに合わせて生やしたものだった。森の出入りを禁じる魔法の綻びは、時間も作用するが中と外、それぞれの境界側に立つ人同士が森に出入りすることを意識するのも重要なのだと夫の説明にはあった。
 初めは森の外に向かう事すらできなかったが、少しずつ植物に働きかけ、あちこちに蒔いた希望の種が芽吹き、やっと彼らの目に留まったのだ。
 魔法使いの積み上げた小さな努力を、村の人々は知らず知らずに恩恵として受けながら、それでも森の恐ろしさは忘れられないままだった。
 しかし、魔法使いの努力と願いが成就するときは、不意に訪れた。
 母親のお使いで薬草を採りにきた少年が、小さな違和感に気づいたのだ。
「……手紙?」
 手のひらに収まるほどの小さな紙きれだったが、夜露に湿った土の上で崩れることなく落ちているのは不思議なものだと拾い上げて、読み上げる。
 少年は簡単な文字なら読み書きができたため、いくつかの単語だけは読むことができた。ゆっくりと文字を読み上げると、首を傾げる。
「森の中に、誰かいるの?」
 瞬間、森の奥からまばゆい光が差し、少年の目を焼く。ぶわりと風と共に何かがこちらに向かってきて、それがいくつもの紙切れだと認識する。
 手紙だ、となんとなく思った。何枚もの手紙がこちらに向かってくる。思わず目をつむり、腕でかばうが特に何もなく、夜が明けるときほどの時間で光はおさまった。
 そろそろと目を開けて、少年はあんぐりと顎を落とした。
 黒い森は、その名にふさわしくない姿となっていた。陽光を弾く緑は生き生きと鮮やかで、木々は生い茂っているがうっそうとした気配はみじんもなく、小鳥や小さな動物たちが走り回っているのが見えた。
「ありがとう」
 不意にかけられた声に少年は飛びあがった。しかも、聞こえたのは森の奥からだ。草木を踏む音と共に、黒い毛並みの狼に乗った一人の女が現れ、少年に手を振っていた。
「あなたにこの手紙を見つけてもらえて、最後の魔法が解けたわ」
 何がなんだかわからない、と押し黙る少年に、森に閉じ込められていたという女は魔法使いであると名乗り、宙に手をかざした。すると、先ほど風に乗って飛び散った手紙の束が彼女の手に集まり、魔法使いは大切そうに懐にしまい込んだ。
「退屈を持て余して書いていた手紙が、まさか鍵になるなんて。何があるかわからないものね」
 少年はいまだ目を白黒していたが、真帆使いは詳細を語るつもりはないらしい。にこりと笑うと、はい、と小さなカードを手渡した。
「わたくし、文書代行業をしているの。得意分野は恋文。誰かの想いをしたためるお手伝い。大人になって好きな方ができたら、よければ依頼してくださいな。あなたには、とっておきの恋文を用意して差し上げてよ」
 もちろん無償でね、とウインクして魔法使いは歩き出す。夫のところへ帰るの、と笑いながら。
「この手紙たちも見てもらわないといけないしねぇ」
 胸元にとても大切なものを抱えるように手紙の束を押し包みながら、魔法使いは黒い森から去り、森はただ豊かな恵みをもたらす場所となった。
 喧嘩から数年間越しの再会を果たした夫婦は、妻からの手紙の山に驚きつつもたいそう喜んだが、このお話は、黒い森の真実同様、誰にも知られないこととなる。
 そうして、王都で人気の文書代行業の魔法使いは仕事に復帰した。さらに数年後、ある青年が砂漠の国の姫君を射止めることとなった恋文にはある魔法使いの助力があったのだが、それもまた、誰も知らないことだったりする。

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